「……ん?」
 向こうの声の主も、どうやら桜乃の声に気がついたらしい。
 曲がり角の向こうから人影がにゅ、と覗き、桜乃の姿を確認したが、彼女は相変わらず詫びるのに一生懸命で、相手の姿など見ている暇もなかった。
「ごめんなさいごめんなさい、迷ったのはわざとじゃないんです、ごめんなさい! もうしません!」
「い、いや…別にお前を叱った訳では…ん?」
 凄まじい謝りっぷりに、逆に向こうの人物が引いていたが、ふと彼が桜乃の姿を凝視して声を掛けた。
「…もしや、蓮二の妹君ではないか?」
「え…」
 兄の名前を呼んだ上に、自分の素姓まで言い当てられ、桜乃はきょとんと初めて相手の顔を見上げた。
 そして…
「あ…真田さん!」
 間違いなく自分の知己である事に気づき、その名を呼んだ。
 相手は端正な顔立ちをしており、出で立ちも非常に精悍である。
 大人の様な高身長且つ容貌ではあるが、纏っているのは間違いなく立海の中学生の制服。
 柳と同じくテニス部に所属する三年生の真田弦一郎だった。
「やはりか…こんな処でどうした?」
「あ、あのう…靴箱に…」
 行こうとしたんですけど…と言おうとした桜乃の唇が暫し止まる。
 彼に近づいたお陰で、曲がり角の向こうが見えるようになった桜乃の視界、真田の背後でこっそりとそこから逃げだそうとしていた若者の姿が見えたのだ。
 最初に真田が『たるんどる』と叱っていた相手かもしれない…けど、そのまま逃がしていいのか、教えた方がいいのか…
 悩んでいる間に、その問題は勝手に解決してしまった。
「未熟者が」
 桜乃に目を向けていた真田は、それでも彼女の視線の動きと背後の気配から相手の動きを完全に読んでいたとばかりに、徐に振り返りつつポケットからテニスボールを取り出し、したたかに相手に投げつけていた。

 ぼこっ!!

「どわっ!!」
 ラケットで打たなかったとは言えその速度はかなりのものであり、当然加速度がついている分、当たると痛い。
 見事にボールは相手の後頭部に命中し、彼はそのまま前のめりに倒れて、襟首を真田に掴まれあえなく確保されてしまった。
「まだ『行っていい』とは一言も言っていないぞ、俺は…赤也」
「そ、そーでしたっけ…?」
 猫の様な捕まり方をしたくせっ毛の若者は、へんにゃりと脱力して頭を垂れているので、今のままでは顔が見えない。
「…?」
 大丈夫?と気遣う様に、気の毒そうな表情で相手を見遣る少女だったが、真田は構わず淡々と話を戻した。
 この程度で弱る様な殊勝な人間ではないと、長年の付き合いから分かっている。
「構わん、いつもの事だ。それより靴箱が何だと?」
「靴箱のある場所に行こうとしたんですけど、道に迷ってしまって…テニスコートに行ったら、お兄ちゃんいるかなって…」
「迷った…む」
 そう言われ、真田が改めて相手の姿をまじまじと見つめる。
 立海の制服を纏った少女…勿論、彼も今日初めて目にする姿であり、そこでようやく彼は一つの事実に気がついた。
「そうか…お前も今年、中学生になったか」
「はい!…ええと、これからどうぞ宜しくお願いします、真田『先輩』」
 深々と礼をする少女に、真田も照れ臭そうに苦笑しつつ頷いた。
「うむ…こちらこそ」
「へ…お兄ちゃん?」
 それまで真田の腕にぶら下がり、重力に素直に従っていたくせっ毛の若者が初めてぐに、と首を曲げて桜乃へと顔を向けた。
 実にやんちゃそうな顔立ちだが、彼もまたなかなかのイケメンである。
 何となく、自分の兄や真田よりは年下という感じだ。
(わー…目がおっきい…)
 猫っぽい人だなーと内心こっそり桜乃が考えていると、その若者は限界まで首を曲げて自分を捕まえている男に尋ねた。
「…誰の妹ッスか?」
「さっき言っただろう、人の話はよく聞いておけ…蓮二の妹君だ」
 真田の紹介を受けて、桜乃は相手の若者にも静々と礼をした。
「柳桜乃と申します。宜しくお願いします…」
「ああそうヤナギさん、ふーん……え、ヤナ…」
 柳って…アノ柳…?
「うええええ!!??」
「きゃっ!」
 大声を出した若者に桜乃がつられて驚く。
 しかしそんな少女の反応にも構わず、赤也と呼ばれていた相手はまだ桜乃の方をまじっと凝視しつつ、改めて確認した。
「柳って…柳先輩の妹!? アンタが!?」
「は、はぁ…」
「へー! てか、柳先輩、妹いたんだ〜…けど…」
 じろじろじろっ!
「……」
 不躾なまでの視線に、桜乃が恥じらってもじもじと身体を揺らす。
 その反応の初々しさも手伝い、若者はつい本音を漏らしてしまった。
「見えねーな〜…柳先輩みたいなデータマンの妹なら、おさげに眼鏡にノート抱えて『データ通りです』とか言ってそうだけど」
「あー…よく言われます」
 別に今回が初めてではなかったらしい相手の予想について、桜乃が力なく頷きながら認めていると、そこに新たな関係者が現れた。
「ほう…」
 何処か危険を感じさせる低い相槌と同時に、わしっと囚われの男の頭が掴まれる。
 そして…
 ぎちぎちぎち…っ!!
「のごあああああああああっ!!!! 脳がっ! 脳が出るーっ!!」
 鮮やかなベアークロー。
「俺の妹に何か不満か赤也…?」
「む、蓮二」
「お兄ちゃん!!」
 二人が見ている前で握力の強さを証明した柳が、ひとしきり後輩にお仕置きをした後でようやく手を離して解放する。
「迷子になっているかと心配して探してみたら案の定だ…だがお前に会っていたのは幸運だった、世話をかけたな弦一郎」
「いや、何でもない」
 その二人の会話内容を聞き、え?と後輩が二人を仰ぎ見る。
「…アンタ、真田副部長と知り合い?」
「はい、ウチにたまに来て下さっていましたから…兄とは将棋や書道の趣味が合っているみたい」
「ああ、成る程ね…」
「ええと、あなたは…?」
 ようやく相手の素性まで訊くところに至り、桜乃がそう尋ねると、向こうもああと頷いてすぐに答えてくれた。
「俺も同じ立海のテニス部員でさ…一応レギュラーだし」
「まぁ、いつも兄がお世話になっております」
 深々と相手に対し礼をする桜乃だったが…
「その言葉には大きな誤りがある」
と、即座に柳が否定した。
「え?」
「……」
 そのまま無言で柳が妹に寄り、ぼしょぼしょぼしょ…と何事かを彼女の耳元で囁くと、それが終わった後、桜乃はちょっと小首を傾げて訂正する形で再度挨拶。
「…えと、いつも兄が世話をしております切原赤也さん…?」
「ええ仰る通りですとも!!」
 先輩としての面目丸潰れだ!!と思いつつも、否定出来る立場にないので切原はそう認めるしかなかったが、そこで更に桜乃がくすりと笑った。
「…な、何?」
「え…あの…切原先輩って…いつもお兄ちゃんがお話してくれる切原赤也さん、ですよね…?」
 何を思い出しているのか、更ににこにこにこっと楽しそうに笑う少女に、逆に切原は真っ青になって先輩の柳に確認した。
「あの、柳先輩…普段、俺のコトどんな風に話してんスか…」
「本人の前で言う程に酷ではない」
「前じゃなくても十分酷でしょそれってーっ!!」
 やっぱりヒドイこと言ってんだー!!と立海のテニス部レギュラー内の末っ子は思い切り非難したが、すぐに兄貴分の真田からお叱りを受けてしまった。
「自業自得だろうが! 言われたくなければ相応の態度を取らんか!」
「ちっくしょー!」
 再びこの二人が賑やかになってきたところで、柳は改めて妹に向き直った。
「で、お前は何処に行こうとしていたんだ? 桜乃」
「お兄ちゃんがいるかなって思って、テニスコートに行こうと思っていたら、靴箱のある場所分からなくなっちゃって…」
「……相変わらずだな」
 明日からは、簡単な略図を持たせてやろうと思いながら、柳は分かったと頷いた。
「では、俺と一緒に行こうか」
「うん!」


「蓮二の妹さんか…」
「桜乃と申します。宜しくお願いします」
「うん。三年の幸村精市だよ、テニス部の部長をやってる。宜しくね…蓮二にはいつも色々と助言をしてもらって、とても助かっている…いいお兄さんだね」
「うふふ」
 部室に案内された桜乃は、そこで兄の仲間であり、好敵手である同じテニス部レギュラーの面々と初対面の挨拶を交わしていた。
「へぇー、柳に妹がいたなんて知らなかったなー」
「そう言えば、俺ら、柳の家に集まったことってそうなかったからな」
 丸井ブン太やジャッカル桑原がそんな事を話している脇では、同じく挨拶を済ませていた仁王雅治と柳生比呂士が、桜乃と簡単な会話を交わしている。
「ふーん…何か言われてもピンと来んのう…柳の妹か」
「あまりじろじろと見ないで下さい仁王君。女性に失礼です」
「んー」
 生返事を返しながら、仁王が徐にぽすっと手を相手の頭に乗せた。
「?」
 ん?と見上げてくる桜乃に構わず、彼はそのままなで…と少女の頭を撫でる…と、
 ぴくんっ…
 離れた場所で着替えを済ませていた柳の肩が微かに揺れた。
 なでなで…
 ぴく…っ
 なでなでなで…
 ぴくぴく…っ
 見事な反応振りを目の当たりにした部長が、苦笑しながら詐欺師を止めた。
「そこまでにしておきなよ、仁王。蓮二が嫌がってる」
「うん……間違いなく柳の妹じゃな…本人はかなりドンカンな様じゃが」
「???」
「仁王君っ!」
 何て事を言うんですか、と柳生が厳しく断じている間に、すぅっとそこに割って入った柳が、こそこそと桜乃を仁王から引き離す。
「桜乃、皆の邪魔になるからこちらに移動してくれ」
「はぁい」
(おお、疑いもせず…)
(甘やかされまくってんだな〜〜〜…柳に)
 同じくレギュラーのジャッカルと丸井が感心した様に彼らの様子を見守っている。
 自分達も既に挨拶は済ませているが、流石にあの参謀の妹というだけあって、躾もきっちりとされているらしい少女の礼儀正しさには心地よさを覚えた。
 良い子みたいだし、あの兄の過剰な程のガードも納得出来るかも…

(でも、あの参謀がバックにいるとなると、イロイロと大変そう…)

 そんな事をこっそりと思っていたのは彼らだけではないようで、部長の幸村も柳に苦笑しながら言った。
「妹を守るのはお兄ちゃんの義務だけど、あまりガードが固いと良縁から遠ざけちゃうよ」
「そ、そういうつもりはないぞ…嫁にやるつもりはないが」
「……」
「他家の人間を婿として迎え入れる以上、その人間をしっかりと見定める必要がある」
「ああ、そういう意味ね」
 嫁にやったらあまり会えなくなるけど、誰かを婿にとって柳家に引き留めるなら譲歩出来るということか…成る程ね。
 けど、それなら尚更この参謀とある程度気の合う相手であることが求められるという訳だし、却ってハードルは高くなりそうだな…
 納得して頷く部長を他所に、話を振られた参謀は真面目に妹の相手について考慮していた。
(そうか…これまでは漠然としか考えていなかったが、桜乃が適齢期になれば、と構えていたのは少々浅慮だったかもしれない…相手を見定め観察する期間は、本性を見抜く為には長い方がいい…となると今からでも相手に相応しい人物を兄としても探しておいた方が…)
 ふむ…と一人頷き、柳はひょっと顔を上げて部室内のレギュラー達を見回した。
(…今すぐに親しい付き合いを許す訳ではない…が、レギュラー達は互いに気心も知れているし、悪人ではないことは分かっている…候補としては万歩譲って認めないでもない…そう言えば…)
 或る事を思いつき、柳は幸村、真田、仁王、柳生、丸井、ジャッカル、切原…と順に男達を見つめていき……最終的に再び真田へと視線を戻した。
「?」
 相手の副部長は、何事かといった様子で柳に疑問の眼差しを向けている。
(この中で、長男ではないのは弦一郎一人なのだな…)
 婿にもらうには、長男である場合は少々難がある。
 今まで特に考えた事もなかったが、自分を含めたレギュラー内で、長男ではないのは真田弦一郎一人だけだった。
(…桜乃をちゃんと大事にしてくれるかという事については、この一途な男であれば誤りはなかろう…人生の道を踏み外す程の浅はかな人間だとも思えない…身内にも警察関係者がいることだし)
「??」
 相変わらずこちらを見つめつつ何かを考えているらしい参謀に、副部長は更に眉をひそめて首を傾げる。
 一体何を考えているのだろう…自分の事か?
 そうしている間に、更に参謀の知略は脳内で進行していた。
(俺との付き合いで桜乃とももう面識があるし、彼女も多少懐いている様だ…何より俺自身も弦一郎が来るとなれば下手な気遣いは不要、趣味の書道や将棋を思うままに語る相手が義弟として来ることになる訳か…)
 今日明日の親しい付き合いを許す訳ではない…断じてない!
 しかし、この男は自分にとっても妹にとっても最良の相手になりうる可能性があることは認めよう。
 うんうんと一人で納得し始めた柳に、いよいよ真田が首を深く傾げて訝しんでいると、向こうはぽん、と真田の肩に手を置いた。
「今のところは、先輩後輩という関係ならば許そう」
「は?」
 よく分からないが、何かの許可を受けたのか…?
 一体何の許可なのかさっぱり分からない、と真田が相手の背を見送る中、彼は妹の方へとすたすたと歩いていっていた。
「???」
 結局、自分自身は何も分からないままに勝手に許可を下された真田が悩んでいる向こうでは、大体の参謀の意図を察したらしい部長が面白そうに彼らと桜乃のことを見つめていた。
(…ターゲットロックオン)
 さて、色々と面白いことになりそうだな…予定調和ばかりではないのが人の人生だけど。
 今まで以上に楽しい学生生活になるかもしれない…






前へ
柳編トップへ
サイトトップヘ