手強い熱
「ん…」
或る日の朝練でのこと。
立海大附属中学三年生の柳蓮二は、自分が所属する男子テニス部部室内で或る物を見つけた。
「これは…消毒スプレーか?」
机の上に乗っていた一本のスプレー缶。
太さはラップの芯よりやや大きいくらいで、長さは二十センチもないだろう。
怪我をした時などに、創部の消毒液を噴霧する為のものの様だ。
手に取り、その説明文を読んで呟いたところで別の人物の声が掛かった。
「あ、お早うございます、柳先輩」
「竜崎か、お早う」
スプレー缶を持ったまま振り返って挨拶をした先には、声で既に正体を察していた通り、一人の少女が立っていた。
今は立海カラーのジャージを纏っているが、数ヶ月前までは彼女は青のジャージを着ていた。
最近になって立海へと転校を果たした、一年の竜崎桜乃である。
柳を含めたレギュラー達にとっては可愛い妹分であり、同じ中学に通う後輩…そして、テニス部のマネージャーという立場でもある。
転校したばかりの忙しない時期でもあり、まだまだマネージャー業務に完全に集中するには時間が必要だろうが、そこは指導する立場でもある参謀・柳の腕の見せ所。
出来るだけ彼女に悪い意味でのプレッシャーを与えないように、しかし、マネージャーとしての自覚を失うことがないように、と、彼は実に周到且つ綿密に計画を立て、日々、桜乃の成長と自立を促していた。
元々はやる気に溢れている気立てのいい子なので、それは柳にとって大した労力ではなかった上、レギュラー達が揃って協力的だったというのも幸いした。
某二年生エースの遅刻癖を矯正させるよりも余程簡単だったというのは、幸か不幸か判断に迷うところではあったが…
「…あ、それ…」
自分の手に握られていたスプレー缶を見た桜乃は、明らかにそれについて何かを知っている反応を示し、柳は缶を相手に差し出しながら尋ねた。
「お前のものか? ここに置いてあったのだが」
「いいえ、私のじゃなくて、保健室から借りてきたものだったんです」
「保健室?」
答えを返され、柳はもう一度その缶をじっと眺めてみる。
保健室の備品なら、何処かにそういう記載がある筈だが…?
(…あった)
缶をくるりとひっくり返したところで、柳は確かにその底に保健室の備品である事を示すテープが貼られている事を確認した。
掴んだ姿勢もあり、側面ばかり見ていたから目に付かなかったのだ。
「確かに保健室のものだな…しかし、何故これが?」
本来あるべき場所ではなく、ここ、立海テニス部の部室に?
「昨日の部活動の時に、救急箱の中にあったものの中身が切れてしまって…ギリギリ保健室が空いていたから事情を話して借りてきたんです。返すのは今日でいいと許可も貰っていたので、忘れない様に机の上に置いておいたんですよ」
「そうか、成る程な」
納得出来る答えを得られた柳は、軽く頷いてその缶をこん、と再び机の上に置いた。
「いつだったか、俺が部室所有の同じ物を手にした時にはまだ中身は十分にあった筈だが、どうやら失念していた様だ」
「新しいものについての申請は昨日の内に出しておきましたから、早ければ今日にでも許可される筈だと…」
「十分だ、有難う」
やるべき事を早速実行してくれた素質あるマネージャーに礼を述べると、柳はなで、と相手の頭に何気なく手をやり、なでなでと撫でてやった。
「えへへ…」
「…」
照れるように笑う桜乃の頬が、うっすらと赤く染まっている様子にほんの少しばかり目を奪われてしまった若者は、予定より一往復多く頭を撫でてやった後に手を離した。
「…では、今日の朝練の予定だが」
「はいっ」
そしていつも通り朝練は始まり、桜乃は柳の指示をよく聞き、行動に移していった。
結局、朝練はいつも通り何のトラブルもなく終了したのだが…
「…?」
部室で着替えた後、自分の教室に向かおうとしたところで、柳はふと机上の隅に置いてあったままの缶を見つけた。
桜乃が保健室から借り受け、今日返す予定だと語っていたばかりのものだ。
しかし…おかしい。
『午後も宜しくお願いしまーす』
そんな台詞を残してから、少女は部室を出て行ってしまっている…つい数分前のことだ。
(てっきり彼女が返すつもりでいると思っていたが…忘れてしまったのか?)
今日は少しだけ朝練の時間が延びてしまったから、もしかしたら少しばかり慌てていたのかもしれない。
「…ふむ」
保健室に備品を返すなど別に大した業務でもなく、それで部内の活動がどう変わる訳でもない。
人なら忘れることもあるだろうし、責める程の問題でもないだろうと判断した柳は、自分が缶を返そうとそれを鞄に仕舞いこんだ。
そして、先ずは教室へと向かったのである。
午前中は、授業の時間そのものが押したり、移動教室もあったりで、柳が缶を保健室に返すべくその場を訪れたのは、二時間目の授業後のことだった。
すぐに返して教室に戻れば問題ない。
これまで、授業は勿論皆勤賞だった優秀な生徒は、今から返却して返すだけなら授業に遅れることもないとしっかりと時間配分にも余念がなかった。
「失礼しま…」
『こらーっ! 保健室で騒ぐなっ!!』
声をかけて入室しようとした柳の言葉と、部屋の中から響いた怒声が重なり、妙な不協和音が奏でられる。
そして柳がドアを開けたタイミングに合わせ、中から勢い良く彼を突き飛ばさんばかりの速さで、数人の学生が飛び出して行った。
「…」
特に驚く様子もなく、うろたえることもなく、柳はじっとその数人の学生の後姿を暫し目で追った後、再び保健室の中へと視線を戻した。
「失礼します」
「ああ、柳君ね、ごめんなさい。ちょっと立て込んじゃって」
「いえ、大丈夫です…サボタージュですか?」
先程、飛び出して行った生徒達の目的について尋ねると、白衣の女性保健教員ははぁと息を軽く吐いて首を横に振った。
「健康な男子にそんなの許すわけないでしょう、休み時間にちょっと遊びに来ただけよ。誰も居ない場合でもどうかと思うけど、体調崩して休んでいる生徒もいるのに…まぁ、カーテンで隠れていたから見えなかったからかもしれないけど」
「そうですか」
先程出て行った学生達…通り過ぎたのはほんの一瞬だったが、自分の目は既に彼らの顔を記憶し、過去のデータから学年と教室、名前まで把握している。
確か、二年生の…
(後で軽く注意しておくか…)
そう考えながらも口には出さず、柳は取り敢えずここに来た本来の目的を果たすべく、手にしていた例のスプレー缶を相手に見せた。
「昨日、ウチの部でお借りしていたスプレーです。返しに来たのですが」
「! ああ、有難う、貴方が持って来てくれたの」
一瞬、驚いた顔をした教員はそのまま笑顔で柳からそれを受け取り、自分の机の上に置くと、そのままゆっくりとカーテンが引かれた向こうの安静用ベッドへと歩いて行く。
「借りたのはウチのマネージャーだったのですが…」
「ええ知っているわ、私が彼女に貸したんだもの。でも今は、彼女はそれどころじゃないし、忘れてたんだとしても仕方ないわ」
「え…?」
それどころじゃない…とは?
どういう事かと尋ねようとしたが、その時には相手はもうカーテンの向こうに消え、そこにいるらしい病人の生徒に話しかけていた。
『どう? 竜崎さん。気分は少しは楽になったかしら?』
『…はい』
「っ!?」
まさか!?
「竜崎…?」
竜崎と言う姓の人間は、この中学の中では一人しかいない筈。
もし自分の聞き違いであったら失礼に当たるが、それでも柳はどうしても確認してみたいと思い、カーテンの隙間から静かに中を覗いた。
そこの白いベッドに横たわり、布団の中にいたのは…やはり、自分が予想していた通りの女性だった。
「やっぱりお前だったのか、竜崎」
自分もカーテンの中に入り、教員の隣に立って少女に呼びかけると、相手はふっと目を開き、そちらへと向けた。
いつもの大きな瞳も、今は生気がなく、虚ろな色。
顔色は、熱があるのか布団の効果かやや火照っている印象を受けたが、それを見た柳は反射的に朝練の時の彼女の様子を思い出していた。
あの時…頭を撫でた時には照れていると思っていたが、もしかして…既に体調は優れなかったのか…?
「やなぎ…せん、ぱい…?」
どうして?という顔の少女に、教員が困った様な笑顔で説明した。
「貴女が借りてたスプレーは先輩が持って来てくれたわよ、だからもう気にしなくていいわ。どう? 頭痛は治まったかしら…軽い風邪だと思うけど」
「はい…薬、少し効いてきたみたい、です」
横になる前に、もう内服薬は飲んでいたらしい桜乃は、ベッドの中で横になったまま、ぺこ、と教員に頭を下げ、そしてそのまま柳へと視線を戻す。
「あの、あの…ごめんなさい、私…返すの忘れてしまって…わざわざ柳先輩に…」
ふわ…
「…!」
桜乃の言葉を止める様に、優しい柳の手が彼女の額に触れ、汗に濡れて張り付いていた乱れ髪を掻き上げる。
熱を持っていた桜乃の皮膚に、ひんやりと感じる細く長い指先はとても心地良かった。
「そんな事を気に病むな…却って具合が悪くなるぞ」
「う…」
優しい先輩の言葉に口篭っていると、間に教員が笑いながら入ってくる。
「そうよ、薬を飲んでもすぐに効いてくる訳でもないんだし、あまり気を張らない様にね。うーん…」
そう言いながら、教員も桜乃の額に手をやって凡その熱を測ると、少しだけ眉間に皺を寄せて呟いた。
「まだちょっと熱あるかな…今日は帰った方がいいにしろ、すぐに動くのも辛そうね。この際だからもう暫く横になっていなさい。貴女の担任には私が言っておくから」
「すみません…」
「いいのよ、保健室はこういう時の為にあるんだから。さっきみたいな不届きな健常者は論外!」
「…」
そうだった…そう言えば少し前にそういう輩が出て行ったのだった…この子が苦しんでいる側で、不謹慎にも騒ぎ立てていた奴らが。
それを思い出した柳の胸の奥で、ざわりと黒い何かが蠢いた。
(……説教、時間延長だな)
次に会えた時にでも…と思っていたが、予定変更、後日自分から赴くことにしよう。
そんな事を考えている間に、教員は先程言っていた担任への通達目的か、一度保健室から出ることを宣言した。
「じゃあ私は職員室へ向かうけど、柳君はどうするの?」
「まだ時間はありますから、もう少しここで様子を見ています…申し訳ありません、朝の時点で気付くべきでした」
あの時の顔の紅潮…気付けていたら、少しだけでも悪化するのを防げていたかもしれないのに…と反省する若者に相手が笑い、こそりと言った。
「普通の人でもなかなか気付かないわよ…この子、自分の不調を隠す事は結構慣れてるみたいだから。自分は気を遣うのに、人には遣わせたくないのね」
「……」
「…あらあら、やっと薬が効いてきたみたいね、眠ってるわ…起きるまで、そっとしておいてあげましょう。じゃ私は行くわね」
「はい」
見ると、確かに相手の言う通り、桜乃は瞳を閉じてすぅすぅと規則正しい寝息をたて始めている。
薬の鎮痛、解熱作用が徐々に効いてきたのだろう。
「…」
少しだけでも、その表情から苦痛の色が消えたのは良かった。
そう思いながら、柳は近くにあったパイプ椅子を引き出し桜乃の枕元に座ると、何をするでもなく、唯、二人きりになった保健室の中で少女の寝顔を見つめていた。
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