一分という概念も、一秒という概念も失われていた不思議な空間の中…ふと、柳の視界に捉えられていた桜乃の表情が変わる。
「…!」
「う…ん…」
 悪夢にでもうなされているのか、それとも薬が切れて苦痛が戻ってきてしまったのか…首を動かし、小さく唸っている。
「…竜崎?」
 いきなり大声を出してしまっては、驚かしたり起こしてしまうかもしれない。
 柳は相手の変化を案じつつ、先ずはそっと顔を相手のそれに近づけ、小さく囁くように呼びかけた。
「どうした? また気分が悪くなったか…?」
「…」
「何か飲むか?」
「…」
 呼びかけは、まだ眠りの中に留まっている彼女には聞こえていないのか、相手は愁眉の表情のままに何も答えない。
 それは却って柳の不安を煽り、彼は自分が出来る事を考えた。
(起きたら少し水を飲ませるか…先生も呼んできた方がいいかもな)
 考えつつ、かたん、と小さく音を立てて椅子から立ち上がった柳がカーテンの方へと振り返りながら足を動かそうとした時…
 ぎゅ…
「…?」
 何か、自分の片方の袖が軽く引っ張られた感覚に彼が振り向く。
「竜崎? 起きたのか?」
 見ると、彼女の手が布団から伸びて自分のシャツの袖口を握り締め、引き止めようとしていた。
 何かリクエストがあるのかと、もう一度身体を相手に向けつつ顔を覗きこんだ時、びくっと柳の身体が小さく震えた。
「りゅ…」
 身体だけではなく、呼びかけようとした声も震え、途中で止まってしまう。
 目が…離せない。
 潤んだ瞳で真っ直ぐに自分を捉え、何かを必死に訴えるように縋ってくる姿は、声で引き止めるより遥かに大きな効果で柳の動きを封じ込めてしまった。
 そして、更なる追加効果で、動悸と喉の渇きまでもがついてくる。
「…やだ」
「…っ!」
 普段の桜乃であれば、先輩に対して決して言わないだろう台詞…何故なら、そんな砕けきった拒絶の言葉は、目上の者に対しては当然失礼に当たるものだからだ。
 しかし、それを聞いても、柳は僅かにもそれが不快だとは思わず、寧ろ背筋を走り抜けた奇妙な戦慄を覚えていた。
(な、んだ…この緊張は…いや、今はそれどころじゃなく、彼女の身体が最優先なのに…)
 こんな場面なのに、可愛いと思ってしまった…!
 そして何故か、何故かは分からないが、嬉しいとも…?
(どうしてだ…?)
 自分自身のことが分からなくなるなんて、どういう事だ…?
 悩みながら尚、桜乃から視線を逸らせない柳に、少女はうわ言の様に訴えた。
「いい子にする…ちゃんといい子にするから、行っちゃやだ…側にいて…」
「〜〜〜!!!」
 刺激過剰、情報過多、その他諸々の言葉が柳の脳内を駆け巡り、それら全てが一斉に彼の論理的思考を潰しにかかる。
 まずい。
 おかしい。
 どうかしている。
 彼女ではなく、自分が。
 心臓が狂っている様だ、発熱器官も不調なのか。
 熱い…とても熱い…身体も心も…
 彼女が袖口を握っている、その手が僅かに自分の皮膚に触れているだけで、そこから異常な緊張感が生まれてくる。
 喉が渇く…しかし渇いているのに、水は欲しくない。
 唯…唯、目の前の少女が、今の自分には喉を潤す甘露の如く見える。
 何故?
 何故、自分はこうなった?
 何処で?
 何処で自分をこうしてしまった引き金が引かれた?
 分かっているのは…そう、彼女がその答えを握っているということだけ。
 予想になかった反応に戸惑っているだけなのか、いや、しかしそれだけでこんな…
 どの場面でも、ありとあらゆる可能性を予め想定することに長けた参謀であっても、この少女のこの行動は余りにも予想外過ぎた。
「何を言って…」
 そうだ、取り敢えずは話を進めなければ…
 望みを叶える叶えないをすっ飛ばし、兎に角、動揺を隠す為に僅かに身を引きながら柳がそう口走ったが、その彼の視線が相手の目に向いた時、若者がは、と気付く。
(視点が…おかしいな)
 こちらに目を向けているのに、焦点が今ひとつ合っていない。
 瞳孔の開き具合から素早くそれを知った柳は、ようやく一つの答えを導き出した。
(そうか…まだ夢の中にいるのか…)
 薬の影響で眠っていた意識がまだ完全には覚醒せず、所謂、寝惚けた状態なのだろう。
 だとしたら、最初からの不自然な言葉遣いや懇願も頷ける話だ。
 きっと彼女の目の前には…柳蓮二ではなく、母や祖母、家族の姿が映っているのだ。
(……ああ、そうだったな)
 あの保健教員の言葉が甦る。

『この子、自分の不調を隠す事は結構慣れてるみたいだから。自分は気を遣うのに、人には遣わせたくないのね』

 きっと、小さい頃からそうだったのだ。
 病気になった時も、なるべく家族にも心配させまいと我慢していたのだろう…その忍耐を促す理性が、今は薬によって一時的に失われ、本心が覗いている。
 もしかしたら、今の少女は自分を抑える事を知らない…或る意味、素直な心が顕現した姿の彼女なのかもしれない。
「……」
 理論でそう片付けられた柳は、ほんの少しだけ心が落ち着いた事を自覚しながら、ベッド脇から移動しようとしていた足を戻し、椅子に腰掛け直した。
 彼女の懇願の理由は分かった…なら、それに合った解決策を実行しなければ。
 そして柳は自分が考え得る行動の中で、最も好ましいと思われるそれを実行した。
「…分かった」
 優しく頷くと、柳は袖口を握っていた彼女の手をそちらの手で優しく握り、もう片方、左の掌を桜乃の頬に当てた。
 そして、静かに囁くように…
「…お前はいい子だ、ちゃんと分かっている…心配しなくていい、何処にも行かない、お前の傍にいるから安心していい」
「…」
 諭すと、それが聞こえたのか、桜乃は何処かほっとした表情を浮かべ、幻しか見えていない瞳を再び閉じた。
「そうだ、お休み…」
 そして、相手を呼ぼうとした柳が一瞬、躊躇する。
 これは…この場合は…姓よりも、こちらの方が自然…なのだろうな…
 何となく自分自身に言い訳している様にも思えたが、そこは切り捨てて、彼は極力静かに、声が震えないように呼びかけた。
「…桜乃」



「――――――…う?」
 ようやく桜乃が夢ではなく、現実に戻って目を開いたのは、何度目かのチャイムの音が切っ掛けだった。
(あ、そか…私、保健室にいたんだった…)
 目覚めてすぐには状況が把握出来ていなかった桜乃も、ぼーっと考えている間に徐々に記憶を取り戻してゆく。
 朝から少し体調に違和感を感じていたが、朝練には参加出来た。
 しかし、教室に戻ってからはかなりのハイスピードで気分が悪くなり、何となく危険を感じて保健室に来たのだ。
 熱は大したことはなかったが、兎に角身体が重く、動くのも辛くなり、ひとまずベッドで休ませてもらえる事になった。
 薬を飲んで休んでいたところで、何となく部屋が騒がしいと感じて…でもそれはすぐに静かになって…そこに保健室の先生と…あと…
「…え?」
 思い出していたところで、ふと、桜乃は左手に感じる温もりに気付いた。
 柔らかく優しい何かに包まれている…温かい何か…
 何気なくそちらへと視線を向けた桜乃が、次の瞬間極限まで瞳を見開いた先には…
「やっ…柳先輩!?」
 思わずがばりと布団を捲り上げる勢いで桜乃が上体を起こす。
 しかし、彼女のそんな動きにも動じることなく、相手は少女の手をまだ自信の掌の中に捕えたまま、優しく握っていた。
「起きたか…丁度、昼休みになったところだ」
「え…っ」
 どういう事…?
 確かあの時、柳先輩に会ったのは、まだ午前の授業が残っていた時間帯だった筈なのに…どうしてこの人がまだここに…?
 一度、退室してまた来てくれたのかしら…あれ? でも何だか…
(……ずっと、誰かが傍にいてくれた様な気も……お母さんやお祖母ちゃんの夢を見ていた、せい?)
 そう思いなおしていたところで、はた、と桜乃はまだ相手の手が自分のそれを握ってくれている事に気付き、大いに慌てた。
「や、や、柳先輩っ!…あのっ、手、手…」
「ああ……握っているが?」
 けろっとして答える先輩に、更に桜乃はパニックに陥る。
「だ、だだだ、大丈夫ですからっ! 私、もうっ…」
「…ふむ」
 確かに、もう完全に目を覚ました様だし、無理に繋いでいる必要性もない以上、離しても何ら問題はないが…
(……ちょっと、勿体無いな)
 こっそりとそう思いつつ、柳はそっと相手の手を解放し、その離した手をひたりと桜乃の額に当てた。
「!?」
「…汗の所為もあるかもしれないが、若干は下がっている様だな。最初に見た時より、声もしっかりしているし」
「はぁ…」
 それは柳先輩が傍にいて、手を握ってくれていた所為だと…
 しかしそれを口に出せる筈もなく、桜乃はベッドの上でこそりと布団を引き上げ顔を隠し、もじもじと照れていた。
「…」
 それを見ていた柳が、ふいっと顔を背け、ぼそりと相手に願った。
「……早く、治ってくれ」
「あ…は、はい…」
 治ってくれないと、こちらも困る…その紅潮した頬の理由が分からない。
 只の熱の所為なのか…単なる照れか…それとも…?
(…いけないな、またおかしくなりそうだ)
 けれども、何となく…何となく自分の不調の理由が分かってきた様な気がする。
 ずっと、彼女の寝顔を見ている間考えていて…ほんの少し、まだ確信は持てないが、おそらくは…そうなのだ。
(だが今は、彼女の身体の健康を考えることが先決だな)
 それを確かめたいと逸るあまりに、相手を気遣う余裕すら失くすのは愚かなことだ。
 そう思いながら、柳は気を取り直して相手に呼びかけた。
「後はもう午後の授業だけだ、ここにいるよりも、早めに寮へ戻った方がいいかもしれないな」
「あ……そう、ですね…もうそんな時間に…」
「…どうした?」
 しょぼんとする桜乃に尋ねると、相手は心底申し訳なさそうな顔で柳に詫びた。
「体調が少しでも戻れば、部活に少しでも参加出来ると思ったんですけど…折角皆さんが色々と教えて下さろうとしているのに私…」
「…さ…竜崎」
「え…?」
 思わず名を呼びそうになり、内心慌てて柳は言い直すと、そ、と手を相手の頭に乗せた。
「?」
「…もう少し…もう少しだけでいい、そんなに固く構えないでくれ。お前はマネージャーだが、俺…たちにとっては大事な後輩…仲間だ。頼りたい時には、いつでも頼ってくれ、辛い時には、縋ってくれていい…その程度の甲斐性は、持っているつもりだ」
「柳先輩…」
「俺は…分かっているつもりだ」
 お前が、とてもいい子だということを…
 最後の一言は呑み込んで、柳はさぁと促すように彼女の肩を軽く叩いた。
「帰りの準備をしてくるといい、鞄はまだ教室なのだろう? 俺は職員室に行ってその旨を伝えて、正門で待っている」
「はぁ……え?」
 正門で待つって…どういう事?
 目で訴えた後輩に、柳はあっさりと答える。
「一人では危険だからな。俺が寮まで送り届ける。昼休みだから時間はある、心配するな」
「い、いえいえいえいえ!! そんな事までして頂かなくてもっ!! 私、ちゃんと一人で帰れますからっ」
「……」
 必死に止めようとする桜乃に、柳は暫し黙って考えていたが…
「…どうしてもダメか?」
「ダメです…すみません」
「俺にはお前の指導役という役目がある」
「い、今はまだ部活動の時間じゃありませんから」
「お前が一人で帰ると思うと、俺もどうにも不安でな」
「そこまで子供じゃないですよう…」
「幸い昼休みの間なら、俺にもある程度の自由行動は許される」
「そ、れはそうですけど…」
「そういう訳で、どうしてもお前が嫌だと言うのなら、こちらはこちらで強硬手段を取らせてもらおう」
「……はい?」
 何だか嫌な予感がする…と思っている桜乃の前で、柳はその双眸を久し振りに開き、軽く両手を掲げて尋ねた。
「……おんぶとお姫様だっこ、どちらがいい?」
 ひいいぃぃぃぃっ!!!!
 心の中で自分の魂の断末魔を聞き、少女はばたばたと両手を振り回して白旗を振った。
「つ、付き添いでっ!! フツーの付き添いで是非お願いしますううぅぅ!!!」
「……何だ、つまらないな」
(ううう、意地悪だぁ柳先輩、私がこう答えるの分かっててからかうんだもん〜〜〜〜)
 実は柳本人は本気も本気だったのだが、それは結局知らされることはなく、桜乃は久し振りにベッドから降りて教室へと向かった。
「因みに裏口から抜けようと思っても、今のお前の体力では成功する確率は五パーセント以下だ」
「体力どころか、気力もないです…」
 さっきの究極の選択で、まとめてごっそり持っていかれました…と、しおしおしおと歩いて行く桜乃の後姿を眺め…それがドアの向こうに消えたところで柳の唇が歪んだ。
「さて…困ったことになったな」
 俺はお前をマネージャーとして育てるべく指導しなければいけないのだが…もう一つ目標が出来てしまった様だ。
 マネージャーとしてしっかりと独り立ち出来る人間に育てる一方で…俺にだけは心を許し、甘えてくれる女性にしたいと…邪な願いを抱いてしまった。
 しかもその願いは、かなり本気だ…今も考えるだけで身体がぞくぞくする。
「……『やだ』、か」
 いつか、お前が俺に縋りついて、俺だけに笑ってそう甘えてくれる時が来てくれたら…いや、絶対にそうしてみせる。
 他の誰かにそんな事はさせない、そんな顔もさせない…!
「……熱が、出てきたようだな」

 俺にも…そう簡単には下がってくれそうにもない、手強い熱が……





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