苦くて甘いキス
立海大学 スポーツ科学科棟内研究資料室…
「うむ、概ね俺の仮説通りだ、後はもう一つの式も踏まえて…」
研究室の中、一人の若者の呟く声だけが聞こえている。
その声の主は、大学の講義などは全て終り、外が暗くなり始めた今も、一人資料室の中に篭り蔵書を広げて思案に耽っていた。
彼は柳蓮二…同科に於いてその人ありと言われている大学生である。
大学生でありながら、既にその知識の深さはこの大学のいずれの教授達にも引けを取らず、寧ろ上をいっているのではないかと囁かれている。
今後彼がどのような道を進むことになったとしても、その道の先導者になるだろうという事は、彼を知る人ならば否定はしないだろう。
柳自身もそんな噂を知らないことはないが、元々他人の批評など気にしない性質であり、特に害がない限りは聞き流すに留まっていた。
そんなクールな男の、この大学内におけるお気に入りの場所が、ここ、研究資料室である。
図書室にもない、この分野における専門書が豊富であり、静かであり、何より他人がいない…彼が読書や思慮に耽るにはもってこいの場所だった。
一般的に大学生ともなれば、自分の趣味や異性との交流にこそ全力を傾ける輩も少なくないが、柳にとっては探究心を満たすことこそが趣味そのものである為、ここに篭る事は苦痛にはならなかった。
それに最近書き始めた論文もある為、何かと暇を見つけては、彼はこの場所を訪れ、本を友とし、日々勉学と言う名の趣味に興じていた。
そしてこの日も、同じ様に過ごしていたのだが……
かちゃん…
「?」
「…あ、お邪魔します」
誰かが入り口のドアを開ける音がして、自然に柳はそちらへと目を向けた。
女性だ…自分より年下に見える…が、同じ大学生である事は間違いない様だ。
ここに初めて訪れるのか明らかに場慣れしておらず、ドアから身体半分を覗かせてこちらの様子を伺っている。
「…関係者以外は立ち入り禁止だが…」
「あ…一応、許可は頂いてきました。これ、証明書です」
おどおどとした様子で中に入ってきた相手に、柳は首を傾げながら忠告したが、彼女は彼に一枚の用紙を差し出してぺこりと礼をした。
おさげの女性…自分が見た記憶がないという事は、おそらくは他科の学生だろう。
この資料室は表向きは解放されてはいるが、昨今の情報漏洩などの問題や、論文や研究発表の原稿を扱うことも多いことから、同科の学生や教育者以外の人間は、関係者の許可が無い限りは不審者を防ぐという目的で入室を断られている。
排他的、閉鎖的と言われるかもしれないが、基本的に学生が必要とする程度の資料であれば図書室の蔵書で十分用は足りる上、元々ここには滅多に人は来ない…だからこそ、人目につきづらいからこそのセキュリティーが求められるのだ。
そんな場所に、今日…本当に久し振りに来訪者が訪れた。
「……確かに、教授のサインだ。失礼した」
「いえ…いきなりでしたからこちらこそ失礼しました…こちらにしかない蔵書で、参考にしたいものがあって…暫くお邪魔することになると思います」
「ふむ…」
見た感じ…今時の煩い女子大生というイメージではなさそうだ、礼儀もしっかりしているし、一緒にいても不快な思いはせすに済むだろう…ならば、自分は言うべき事はない。
「…竜崎桜乃、か」
証明書に記された相手の名前を読み上げると、相手はにこりと笑って頷いた。
「宜しくお願いします、あの…」
「柳だ。柳蓮二」
「柳…さん? わぁ」
「?」
小首を傾げて復唱した後、桜乃が更に笑顔を深くして感嘆の声を上げた。
「お噂はかねてより耳にしています。初めてお目にかかりますが…」
「噂は噂に過ぎない…それが俺の本質を捉えていると思うことは少々浅慮に過ぎるかもしれない」
今までも何度も他の女子大生から散々誉めそやされていた柳だったが、実際は嬉しいどころが騒がれて迷惑していたこともあり、つい、少々きつい物言いをしてしまった…が、
「そうですね、正直、こんなに優しそうな方とは思っていませんでした」
「……」
あっさりとそんな感想を述べられて一瞬返答に窮している間に、もう彼女は掲げていた証明書を鞄の中にしまい込むと、隣にずらりと並んでいる本棚へと注意を向けてしまっていた。
「お時間を取らせてしまってすみません…こちらの本、見せてもらってもいいですか?」
「ああ…本を傷める様なことをしなければ、自由に見てくれて構わない。但し持ち出しは禁止だ、写しが欲しい場合は向こうの隅にコピー機がある」
「有難うございます」
もう一度、にこ…と礼と一緒に笑顔を浮かべ、桜乃は柳の傍から本棚へと移動する。
(…優しそう?)
愛想がないとか、仏頂面だとか、無機質だとか…逆に近いことを言われた事は数え切れない程あったが…初対面の人間にそんな事を言われたのは初めてだ。
それも何かのポーズや誘いかと疑ってしまったが…あの様子を見る限りでは違うらしいな。
柳の視界の中で、桜乃は本棚の隅から隅を見回しては、また次の棚へと移り、その動作を繰り返していた。
視界の中には書物のみしか映っておらず、興味の全てをそこに向けている様子だ。
(…少々変わった女性だが、騒がずに勉学に集中してくれているのは有難いな)
そんな事を思い、ほっと安心した柳はそのまま元の席へと戻っていった。
この部屋は大きく三つに区分されている。
一つは多くの本棚が並んでいる蔵書の保管場所…そして奥の空間の一部は、それらの本を読んだり、書類を作成したりする為の机、椅子が揃えられている場所…最後にその隣にある空間は、一服する為のソファーとテーブルが置かれている空間だ。
最も面積を広く占めているのは当然本棚達で、次が作業・勉強場所。本棚に隠され一種の死角となっている休憩場所は、二つのソファーとそれらに挟まれているテーブル、小さな食器棚、冷蔵庫と占拠している物品も多いが、面積は一番狭かった。
隣の休憩場所には目を向ける事もなく、柳は椅子に座り、机に広げてあった書物を再び読み始める。
その向こうの本棚の陰からは、興味ある本を探しているのだろう桜乃のたてる小さな音が遠慮がちに響いていたが、それが暫く続いた後で、彼女も数冊の厚手の本を抱えて机へと向かい、柳から少し離れた場所に陣取った。
ぱらぱらぱら……
小気味良くページを捲る音が聞こえ、柳が顔を上げると、一心不乱に本に目を通している相手の姿があった。
何かに必死に打ち込んでいる女性を見かけたのは久し振りだ…
「……」
何故か…何故かは分からないが、それが酷く嬉しい事の様に思えて、柳は微かに唇に笑みを浮かべていた……
それから桜乃は、毎日と言っていい程に全ての講義が終了した後、資料室へと通うようになっていた。
そうなれば、無論、殆どその部屋の住人となっている柳とも毎日顔を合わせる間柄となる。
「これか?」
「ええと、その右隣のなんですけど……わ、有難うございます」
「いや、何でもないことだ」
桜乃が毎日通う内に、柳は少しずつ彼女に手を貸す様になった。
無論、自身でやらなければならない物事には手を貸すことはなかったが、今のように届かない本を代わりに取ってやる程度の助力は惜しまない程度に。
「背が高いと何かと得ですよね…私ももう少し背が伸びてたらなぁ」
「そういうものか?」
「見通し良さそうじゃないですか。それに、こうしてわざわざ誰かの手を煩わす事もないですし…すみません」
柳から本を受け取りながら詫びる娘に、男は首を傾げて答えた。
「この程度の事など煩わす内にも入らない…他は無いのか?」
「はい、これだけで…」
「そうか」
そして二人は机のあるコーナーへと戻っていき、本を自分の席に置いたところで、桜乃がとんとんと自分の右肩を軽く叩いた。
「…疲れたか?」
彼女の様子を見た柳の言葉に、相手は恥ずかしそうに笑う。
「いえ、少し肩が張ってしまって。ずっとペンを握っていたら流石に…ちょっとだけ息抜きをしたい気分です」
「では、少しそちらで休んだらどうだ? 確かにお前はここに来て以来、滅多に休んでいないだろう」
「あはは、でもそれは柳さんもですよ?」
「俺は慣れている…それにお前は女性だ、あまり根を詰めすぎると身体にも良くない。少しソファーでくつろぐといい」
桜乃は知らないだろうが、彼がここでここまで他人に気を遣ったのは初めてのことだった。
それだけ彼女の頑張りを正当に評価しているという事なのだろうが、評価された本人は、甘えていいものかどうか悩む仕草を見せて…
「あ、そうです。それじゃ柳さんも一服しませんか?」
「ん?」
「柳さんも、ずっとそちらで書き物なさっていたでしょう? 少し肩の力を抜きませんか? 面白いものもありますし」
「…面白いもの?」
休憩への誘いより、最後の言葉の方が気になった男の前で、桜乃は休憩コーナーの隅にあった棚の上の何かに近づいた。
ポット程の高さだが、横幅はポットよりもかなり大きなもので、『何か』と言ったのは、それが白い布で覆われて姿を明らかにしていなかったからだ。
そして、柳はそういう物体が棚の上に置かれている事を初めて知った。
「何だ? そんな物は昨日までは見なかったが…」
「昨日、奥のダンボール箱の中にあったのを見つけたんですよ。教授に許可を取って置かせてもらったんです。柳さんがいない時でしたから、まだ見てないんだと思いますよ」
何処か楽しそうな雰囲気を漂わせながら、桜乃はひらりと布を取って奥にあった物体の姿を明らかにする。
「…コーヒーメーカーか?」
「詳しく言うとエスプレッソメーカーだそうです、ミルクフォームも作れるんですよ…去年か一昨年に何かの賞を受けて副賞として貰ったらしいんですけど、箱に入れられたまま放置されてたみたいで、昨日偶然に見つけたんです」
「…あの教授は機械めいたものは苦手だからな」
「ふふ、確かに見た感じは堅苦しいですけど…そんなに難しい作業はないんですよ。まだ十分に新型ですし、問題なく使えそうです」
さわ、とメーカーの上部を撫でて、桜乃は柳ににこりと微笑む。
「これって、一回でエスプレッソ二杯分の抽出が可能なんです。一緒に一杯、如何ですか?」
「…ふむ」
わざわざ労をかけさせる訳には、とも思ったが、同時に出来るのであれば特に罪悪感を感じる必要も無い…確かに時々の休憩は必要だ、自分は機械ではなく人間なのだから。
「…ではお言葉に甘えよう」
「はぁい」
「しかし、お前は使い方を知っているのか?」
「昨日見つけた後で、説明書だけ持って帰って予習してきましたから」
「成る程…」
勉強に限らずこういう面でもしっかりしている、と思わず柳は笑ってしまう。
机に向かっている時には真面目そのものの表情だが、一度席を離れると、途端に和んだ笑みを浮かべ、柔らかな声を掛けてくる桜乃は、今まで幾度となく柳の無自覚な心の緊張を解いてくれた。
大した言葉でもないのに、その声を聞く事で、ほっと身体に入っていた無駄な力が抜けていく感覚…繰り返し経験してはその度に驚かされた。
相手が気付いていない様子では、それを教える事も憚られるのだが、内心彼は相手に対しこっそりと感謝すらしていた。
「えーと、水を汲んで電源を入れて…あ、牛乳牛乳」
普段より表情が柔らかな男の見ている前で、桜乃は予習の成果を如何なく発揮し、無事にエスプレッソを二杯作成することに成功し、専用ノズルでミルクを泡立て、ミルクフォームも作成する。
「ペアカップもおまけでついてたんです、どうぞ」
「有難う…ああ、確かにいい香りだ」
芳醇な香りが立ち昇り、柳の鼻腔の奥を優しく刺激する。
「ミルクフォームは?」
「いや、今日はこのままエスプレッソで頂こう…お前は、マキアートか」
「はい…エスプレッソは私にはちょっと苦くて。子供っぽいでしょ?」
照れ臭そうに笑う桜乃の悪びれない言葉に、柳は面白そうに唇を歪めた。
「味覚は人それぞれだ、好きなように飲めたらいい」
「はい…次はカプチーノを作ってみようかな」
早速次の計画を立てる相手に再度笑いながら、向き合うソファーに座って柳は桜乃と暫しの憩いの時を過ごした。
勉学には関係ない、しかしそれよりずっと互いに関係の深い、家族や、趣味や、友人の話…
桜乃はよく笑い、頷き、ささやかなジェスチャーも交えて柳と言葉を交わす。
ころころと表情が変わり、心を隠さず曝け出す娘を、柳は眩しそうに見つめていた……
「全く…無駄な時間を過ごした」
その日、柳は珍しく不機嫌な顔も露に、研究資料室へと向かっていた。
あれから、あの桜乃との楽しい一時を過ごした日から、二人の間では作業の合間にあの部屋で共に休息をとることが暗黙の了解となっていた。
どんなに短い時間でも、その一時は柳にとって一日の中で最も貴重なものであり、今日の様に講義終了後に下らない質問を受けて時間が削られるのは甚だ不本意なのである。
(しかし、研究は滞りなく進んでいるが…最近はあそこに向かう理由が修正されている気がするな)
無論、研究も目的の一つには違いないのだが、それより大きな目的が出来てしまった気がする…あの子と会うという目的が。
(さて、今日はどちらが先に来ているのかな…)
相手が先にもう来ているのなら、自分が入ったところで優しい声で挨拶をしてくれるのだろう、いつもの様に。
もし自分が先に来た場合でも、後で小走りで駆けてきた娘を迎えることが出来る。
どちらも、楽しみであることには違いない、と思いつつ、柳は資料室のノブを捻り、かちゃりとドアを開いた。
電気はいつもの様に点けられていたが、誰の声も聞こえず、自分の来訪に反応する気配も感じない。
どうやら、自分が一番乗りの様だ。
(ふむ…では、まだあの子は講義中かな)
後ろ手にドアを閉め、見慣れた部屋の中を見回しながら、柳は真っ直ぐにいつもの指定席へと向かっていった。
座る椅子の前に来て、鞄を机の上に置いた柳が、何とはなしに隣の休憩スペースへ視線を遣ると…
「…っ!」
思わず鞄を机から取り落としそうになり、慌てて柳はそれを手で押さえた。
但し、視線は隣のスペースのソファーから外さないままに。
(竜崎…!?)
いた…!
てっきり誰もいないと思っていたが、死角で隠れて見えなかったのだ。
それに、気配を感じられなかったのは…
(…眠っているのか)
ソファーでちょこんと座り、ほんの少しだけ背もたれに身体を凭れさせている桜乃は、柳の来訪にも気付かないまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
倒れそうで倒れない絶妙なバランス感覚だが、あれでは身体を休めるなど到底無理だ。
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