「……」
 暫く考えた柳は、自分の鞄をしっかりと机の上に乗せ、そのままソファーへと移動して、桜乃のすぐ隣に腰を下ろす。
 思えば、こうして隣に座るなど初めてのことだ、いつもなら相手の前に座って、その表情を眺めていた。
「…竜崎?」
 驚かさないようにそっと呼びかけてみると、微かに相手が反応し、ゆるゆると瞳を開いてこちらを見つめてきた…が、どうにも夢うつつという感じだ。
 もしかしたら、彼女はここがまだ夢の中の世界だと思っているのかもしれない。
 それが可愛く思えて柳はくすりと笑い、無言のままにぽんぽんと自身の膝を叩く。
 『ここに横になれ』
 無言の誘いを受けて、桜乃は暫くぽーっとしていたが…
「…」
 こっくりと素直に頷いて、そのままこてんと柳の膝の上に頭を乗せると、再びすぅっと寝入ってしまった。
 誘ったのは確かに自分だが、全く遠慮の欠片も見せずに言われるままに身体を預けてきた娘の大胆さに、男はどきっと胸を高鳴らせ、くうくうと眠る桜乃の寝顔を見下ろす。
(か…わいい…)
 今、自分の心の中の感動を言葉で顕すとするならば、それが一番合っている。
 普段、朗らかな笑顔を浮かべている娘も可愛かったが、初めて見る寝顔も十分に魅力的だ。
(…女の寝込みを襲う不埒な輩など、己の制御も出来ない愚か者と思っていた、が…)
 今は、その愚か者達の気持ちが、僅かながらに分かる気はする…無論、それと実行に移すことは全くの別問題だが。
 しかし、こんな寝顔を見せられたとあれば、想いが暴走した男は……
(力ずくで、手に入れようと…欲しいと、思うかもしれない……)
 相手の心も確かめず、欲しいと思ってしまった自分の浅ましい想いを抑え込む代わりに、せめて、と彼の指が桜乃の乱れ髪に触れ、そっと優しくかき上げる。
 細く柔らかな髪…持ち主と同じ様に素直に柳の指の導きに従い、耳の後ろへと流れて収まったが、今度は導いた男の指先が、所在なさげに宙を彷徨う。
 もう触れる必要はない…のに、触れていたい……ほんの少しでいい、もう少し…
「…りゅう…ざき…」
 手の甲側の指を桜乃の柔らかな頬に触れさせ、その感触を確かめた時…
 遂に、姿無き神が男の心を諌めようとしたのか、桜乃の意識を現世に引き戻した。
「う、ん…」
「っ!!」
 夢の帳は破られる…男のそれも、女のそれも…
「え……っ!!」
 一瞬、自分がどういう格好でいるのかを把握出来なかった桜乃は、ゆっくりと身体を起こして柳の姿を認めた瞬間、がばっとソファーの隅まで飛びのいた。
「や、や、柳さんっ!?」
「……ああ」
 表向きは落ち着いた姿を保っていたが、柳は内心、あのままだったら自分はもしかしたら許されない過ちを犯してしまったかもしれないと本気で動揺していた。
「う、う、う、うそっ!!! じゃ、じゃあ…まさか、あれって夢じゃなくて…」
 膝を叩いて、眠るように誘ってくれたのは…現実の柳さんだったの…!?
「〜〜〜〜〜〜!!」
 真っ赤な頬を両手で隠すように押さえ、恥ずかしがるところを見ると……完全に夢の中の話と思っていた様だ、と言う事はつまり、夢の中では俺に甘えるコトに躊躇いは無いのか…?
(現実でもそうあってほしいと思うのは、俺の我侭か…)
 しかし残念だ、と柳がこっそり考えている脇では、まだ桜乃がショックから立ち直れないでいる。
「す、すみません〜〜〜! 私、その…まさか現実だなんて思わなくて…でもその、夢だからって柳さんを枕にしようだなんてコトは…! よりによってこんな日に…」
 こんな日…?
「…いや、分かっている。お前こそ少し落ち着け」
「う…」
 ダメだな…言葉で言ってもまだ精神は落ち着くどころの話ではなさそうだ…
 瞬時に相手をそう分析した男は、ふいっと例のメーカーに視線を向けた。
「先に一服しようか? 何か飲めば、気分も落ち着くだろう」
「は、はい…」
 言われるままに、桜乃は立ち上がってエスプレッソメーカーの準備を始めた。
「……あのう」
「ん?」
「…何か、リクエストありますか?」
「そうだな…じゃあ、今日はエスプレッソで」
「!…はい」
「?」
 何故か、自分の答えを聞いた瞬間、桜乃の手が僅かに震えた気がしたが…気のせいか?
「お前は何にする?」
「…そうですね、じゃあ、マキアートで」
「そうか…そう言えば、最初にそれを動かした日と二人ともメニューが同じだな」
「そう、ですね」
 やはり背を向けたまま答え、桜乃は二人分の飲み物を作り、そしていつもの様にペアカップへと注ぎいれた。
「随分、慣れた様だな」
「はい…もうすっかりお手の物ですよ」
 笑って、桜乃が差し出したカップを受け取り、柳は一口それを含んだところで、不思議そうに相手を見た。
「どうした、席に着くといい」
「あは…ちょっとまだ熱いですから、先にこちらを済ませておきます」
 ソファーに着こうとしない相手に声を掛けると、彼女はにこ、と笑って、メーカーの付属品を器用に一つ一つ外しては、洗い場へと持っていく。
 初めて見る光景だ。
「む? 調子が悪いのか?」
 故障を疑った男だったが、返ってきた言葉はそれをあっさりと否定する。
「いえ、こうやって定期的に掃除をしないと、粉とかが詰まってしまうんですよ…今日が最後ですから、やっておこうと思って」
「…え?」
 今…何と言った?
 俺の耳が狂っていないのなら、お前は今……最後、と…
「…最後?」
 問い返す柳の声に、背中を向けて洗い物を始めた桜乃が答える。
「はい、証明書に書かれていた期限は今日までなので…幸い、論文には何とか間に合いました。ちょっと昨日間に合わせる為に無理して、だからさっき居眠りしちゃってたんですけどね…あーもう、最後にあんな格好柳さんに見られちゃって、恥ずかしいです」
 相手の論文の内容など、どうでもいい。
 眠る姿を見せる見せないというのも、どうでもいい。
 最後?
 今日が、お前がここに来る最後の…
「……」
 無言で、柳は過去、彼女が初めてここに来た時に見た証明書の内容を記憶から掘り起こしていた。
 常人では出来ないだろう芸当だったが、彼は難なくそれを行い、そして間違いなく、期限が今日という日付だったことを確認してしまう。
「!!」
 知っていた…のに、全く認識していなかった…
 ぐらぐらする頭を必死に抑えながら、柳はカップとソーサーをテーブルへと置く。
 震える手では、いつ中身を零してしまうかも分からない。
「…結局、これを使っているのは私達だけでしたね」
 指だけでなく、身体も微かに震えている事実を知った柳の目の前で、背を向けたままの娘は不自然な程に明るい声を出した。
「教授も結局触らず仕舞いでしたし、他の方もあまり長居しないから、ここに座る機会もなくて…ちょっと勿体無いです」
 他人がどうだろうと関係ない…俺はお前がここに座ってくれてさえいれば十分だった。
 こうして二人で、言葉を交わして、笑顔を交わして…それで良かった。
 なのに、それはもう今日で終りだという。
 俺の願いはそんなに…過ぎたものだったのか…?
「でも、柳さんだったらこれも簡単に扱えそうですし、是非、役立てて下さいね」
 お前もいなくなるのに、どうしてここで一人、そんな事を…
 俺が欲しかったのはただ喉を潤す飲み物ではなく…お前が俺に淹れてくれた、心の篭ったもので…お前との一時で…
 その機械仕掛けのおもちゃは、お前の代わりになどならない、絶対に。
「今日、今までのお礼も兼ねて、頑張ってぴかぴかにしておきますから」
 そんな礼など要らない…!
 本当に礼をする気があるというのなら、そんな行動などではなく、俺の欲しいものを…
 そうだ、お前を!
 奪ってでも、罪を犯してでも…!!
「だ、から……」
「!?」
 不意に、桜乃の明るかった声が途切れ、弱く涙に歪んだものへと変わり、柳の暴発寸前だった思考に冷水を浴びせかけた。
 何だ、今の声は…?
「……りゅう、ざき…?」
「…だから……こ、れから、も……」
 洗う手を止め、頭を俯け、肩を震わせて……桜乃は背を向けたままに嗚咽を漏らしていた。
「使ってあげて……くださいね…」
 私はもう、ここに来られなくなっちゃうけど…こうして貴方に会えなくなってしまうけど…
 疲れた貴方を癒せるこれは、ちゃんと綺麗にしておきますから…だから、
「や…なぎ、さん……っ」
 相手の名を呼び、何を言いたかったのか…
 自分でも分からなかった、が、それを紡ぐ前に、桜乃は背後から抱き締められて言葉を閉ざす。
「…っ!?」
「…会いたいのなら、来たらいい」
「…え」
「お前の泣く理由が、俺の考えていることと同じならば…俺に会いに来たらいい」
 ぎゅ、と抱き締める腕に力を込め、柳は相手の耳元で囁く。
「…俺はお前に、会いに行く」
「!!」
 柳の腕に掛かっていた娘の重さが急に増した。
 どうやら、今の男の言葉で腰が砕けかけた様だった。
「この場所を会う理由にするから、こんな辛い思いをすることになるのなら、もうそんな理由など無い方がいい……俺にはもう新しい理由も出来た」
 ぐい、と相手の身体を反転させ、自分と正面で向き合わせる形を取らせると、柳は少しだけ腰を屈め、相手と真っ直ぐに視線を合わせた。
 いつもは閉ざされていた鋭くも優しい瞳が、桜乃の姿を映していた。
「お前が好きだ…だから、これからもずっと傍にいてほしい」
「!!」
「もしお前が…俺と同じ気持ちでいるのなら……俺はお前の傍にいよう」
「柳…さん…」
 泣いて真っ赤に腫れた瞳で柳を見つめ、言葉を失った様子の桜乃だったが、不意に今の自分の顔の状態を察したのか、恥ずかしげに下を向いた。
 答えたいのに…恥ずかしくて声が出ない…どうしよう……
「……」
 困った様に視線を忙しなく動かす相手の心理を読み取り、男は促すように、誘うように、そ、と両手を相手のそれらに微かに触れさせる。
 すると、彼女は声の代わりにその細い指先を、遠慮がちに相手のそれに絡ませ…受けた柳も今度はしっかりと明らかな意思をもってきつく絡めた。
「…好きだ、竜崎…」
「…わ…たしも…柳さん」
 何とかそれだけを言えた桜乃は、ゆっくりと相手の顔が近づいてくる目的を察して、びくっと怯えた様子で部屋の入り口となるドアを見る。
「…何故怯える? お前はもう知っている筈だ」
 面白そうに、柳が尋ねた。
「この時間、ここへの来訪者などいない…それに」
 ひそ…と、唇が耳朶に触れる程に近くで、誘惑の様に囁く。
「向こうからは…ここは見えない」
「あ…」
 相手の吐息を感じてぴくんと肩を震わせた次には、もう唇が優しく塞がれていた。
 初めてのキス…甘いものだと聞いていたけど……
(……ああ、この味…)
 相手の唇から伝わる甘美な味覚に、桜乃は瞬く間に酔いしれた。
(苦い筈なのに……どうしてだろう、凄く甘い…)
 長いキスの後、唇が離されると、桜乃は恥らう花の精の様に笑った。
「エスプレッソの味がします…柳さん」
「…ああ」
 言われ、柳も笑った。
 それもそうか…先程、口をつけていたからな…
「……慣れてもらわないとな」
「え…?」
「…きっと、これから何度も、同じ味がする」
 お前が俺にそれを淹れる時は…俺はお前にキスを返すだろうからな……
 大胆に告白する相手に、桜乃はまた真っ赤になり、それを見届けた柳は嬉しそうに彼女を抱き締めた……






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