甘美なる贖罪


「…風が変わったな」
 太陽も天高く昇った真昼の時間、立海大附属中学三年生の柳蓮二は、誰に言うともなくぽつりと呟いた。
 今自分が立っているのは、自前のテニスコートやキャンプ場でよく見られる屋根つきの炊事場、食堂がある広場の一角。
 その場では自分と同じ学校の生徒だけに留まらず、各地のテニス強豪校の選手達も彼らなりの行動予定に従って動いていた。
 一見するとまるで合宿でもやっている様な光景だが、現実はそんな甘いものではない。
 実は彼らは今、遭難生活の真っ只中にある。
 しかも、本来引率として控えている筈の教師達とは完全にはぐれてしまった形で。
 船に乗って合宿所に向かっていた生徒達を襲った未曾有の低気圧と台風のコラボレーションが、見事に彼らを翻弄し、ここに赴かせた。
 その途中で教師達の行方は分からなくなってしまったのだが、柳の脳内で幾度となく繰り返されたシミュレーションの結果では、彼らは無事にここに漂着している。
 ただ、自分達と同じ場所に立てていないだけならば、生き延びて見つけたらいい。
 柳は論理的に考え、極力無駄を省き、この場の人間達に最も好ましい形で事が進むように今後の計画を立てるなど、出来る限りで手を貸していた。
 幼い時からの親友が手伝ってくれた事も大きな助けとなり、災難に見舞われながらも生徒達は持ち前のガッツと前向きな精神で事態を冷静に受け入れ、生き抜こうとしている。
(…一つだけ、問題があるとすれば…)
 声に出さずに、相変わらずの無表情で考察しながら、柳はすたすたとある場所へと向かって歩き出す。
 今までは他校の生徒達の行うテニスの試合を見て、各人の能力分析を行っていたのだが、風が変わったと感じた時点で、やるべき目的の優先順位も変わったのだ。
「…竜崎?」
「あ、柳さん。どうしました?」
 足を向けた先は炊事場…そこで昼食の準備に追われていた一人の少女に、柳は声をかけた。
 相手の少女は柳よりも随分と小柄で、性別の相違もあるのだろうが華奢に見える。
 呼ばれてすぐに彼の傍に走り寄った彼女の腰まである黒いおさげがゆらゆらと揺れ、それを気にする事もなく、娘は柳を柔和な笑顔で見上げた。
「何か、ご用ですか?」
「風の向きが変わった…湿気も多少上がってきたようだ、もうすぐ雨が来る」
「えっ!? 大変!」
 彼らの頭上にはまだ青空が広がっていたが、柳の忠告を受けた少女は相手のそれを疑う素振りもなく、すぐに信じた様子で慌て出した。
「いい天気だから、安心してお洗濯物干していたんですよ、急いで取り込まないと!」
 昼食の準備はほぼ済んでいたのが幸いだった、とばかりに、相手は火の元の確認をしっかりと行った後で物干し場へと向かおうとする。
「俺も今は時間がある。手伝おう、竜崎」
「有難うございます! 柳さん」
 礼を述べた少女は、それから彼と共に物干し場に向かい、風を受けてはためいていた多くのシーツを共同で取り込み始めた。
(ふむ…精神的にもまだ然程疲労の蓄積は認められない様だ…しかし、彼女の抱えるストレスは俺達のそれより遥かに大きいだろうから、油断は禁物だな)
 このサバイバル生活に於いて柳が最も懸念している事の一つが、彼女…竜崎桜乃の精神面を含めた健康状態だった。
 遭難した事実に加え、只でさえ大きなストレスとなるだろう野外生活、身内である竜崎先生との離別、相手の安否の不明…男子であってもかなりの負担になる筈だ。
 彼女本人はこうして気丈に振舞ってはいるが、これもまた、自分自身をそうする事で心の安定化を図る防御本能なのだろう。
 しかし、それもいつまでも続く訳ではない、必ず何処かで破綻は訪れる。
 その前に何とかここを脱出するか…その破綻の時を引き延ばすしかない。
 今、生徒達だけでここを脱出するという企みは、無理どころか無謀というレベルに等しい。
 そうなると結論は自ずから明らかであり、それを成す為には自分も含めた周りのフォローが不可欠なのだ。
「取り込んだものはどうする?」
「取り敢えず、食堂の方に運びましょう。もうすぐ昼食ですし、食べている間に止んだら、また干し直します」
「分かった」
 水汲みや薪割りなどの力仕事ならばともかくとして、掃除、洗濯、料理といった家事一般の場合は、男性陣より桜乃の方が適切な指示を出せる。
 こう言っては申し訳ないが、彼女がここに一人いることで、自分達の食事の質などは大幅に向上していると断言出来るだろう。
 二人がそれぞれ洗濯物の入ったバスケットを食堂の屋根の下に運び終わったと同時に、空からぱらぱらと雨の雫が降ってきた…正に間一髪。
「うわ〜、間に合ってよかった…柳さん、有難うございました」
「いや、役に立てて何よりだ…しかし、この雨もそう長くは続かない。スコールだろう」
「そうですか…じゃあ、食事の後に干し直します。出掛けるまで、少し時間もあるし」
「出掛ける? 何処かに行くのか?」
 柳の疑問に桜乃はにこりと笑って答えた。
「ちょっと食材の茸が少なくなってきましたから、収穫に。近場だし、ある場所も分かってますから、一人でも大丈夫です」
「そうか…?」
「はい」
 尋ねながら、早速柳は彼女の言った場所について記憶を辿った。
 確かにあの場所は割と開けているし、迷うような脇道もない。
 時間的に女子でも十分に往復できる距離であり、道もしっかりしている。
 例えたら、軽い散歩に行くレベルの外出だ、確かに彼女が自信たっぷりに言うだけの根拠は揃っているが……何だろう、この嫌な予感は…
 出来れば同行したかったが、午後からは自分も責任ある仕事を任されている以上、勝手は出来ない。
「…では、くれぐれも気をつけて行け。何かあれば、ここに戻る事だけを考える様に。下手な手出しは無用だぞ」
「はい、柳さん」
 何かが心に引っ掛かるのを感じながらも、柳は結局、彼女の茸の収穫を引きとめる事はなく、諸注意を述べるのみに留めた。
 その後、少女に何が起こるかも知らずに…


 午後になると、柳は一時山側に分かれたグループの活動拠点から離れ、海側の方へと向かっていた。
「精市、身体の方は大丈夫か?」
「やぁ蓮二。大丈夫、俺はいつも通りさ…忙しいところに済まない。山側の皆は元気かい?」
「ああ、赤也は相変わらずだが、弦一郎がしっかり手綱を握っている」
「そう、なら安心だね」
 ようやく長い病床生活から解放された親友は、海の小波の音が聞こえる砂浜で、柳を笑顔で迎えていた。
 会話そのものは和やかなムードだが、当然向こうは只の雑談の為に参謀である柳を呼んだのではなく、そこには彼らの今後の活動内容の検討という重要な目的があったからだ。
「トラブルには巻き込まれてしまった形になったけど、この数日で俺が出来る限りの情報収集を行ったつもりだよ。このぐらいしか出来ないけど、君がそれを役立てる事を願ってる」
「すまないな、精市」
 それから二人は、砂浜に打ち上げられていた流木を椅子代わりに、様々な事項の打ち合わせを始めた。
 この島について不審な点や、気をつけるべき場所のポイント、そして、この遭難自体に見え隠れする第三者の意図…
 そしてそれ以降は、立海のレギュラー達の身体能力などの詳細なデータの見直しにも話は及び、二人は時間を忘れて長いこと検討を続けていたのだが、突然、その場に現れた一人の若者によって彼らの会話が止められた。
「あ! 柳先輩!! 大変ッス!!」
 彼らの後輩である二年生エース、切原赤也が、二人の姿を見つけると同時にダッシュで彼らの方へ走ってきたのだ。
「む? 赤也…」
「? 随分急いでるね、どうしたの?」
 いつもなら呑気な笑顔で元気に走り回っているやんちゃ小僧が、顔色を青くして表情も切羽詰っている様子に、二人は当然何事かと検討を中断し、そちらへと意識を向けた。
「柳先輩! 今すぐ山側に戻って下さい、竜崎が崖崩れに巻き込まれました! 今、橘さんが背負って連れて帰ってきたんスけど、意識がないって…!」
「っ!?」
 ばさっと手にしていたノートを砂浜に落とし、柳が顔色を失った一方で、幸村もまた非常事態であると即座に判断した。
「一応、柳生先輩が応急手当をしてますけど、柳先輩にも念の為に見せた方がいいって真田副部長が!」
「蓮二、話はここまでだ。すぐに戻った方がいい」
「すまん、精市…赤也、行くぞ」
 表面上はいつも通りの冷静な態度で応じたものの、柳はぐらぐらと世界が回りそうになる程のショックに見舞われ、気を抜けば膝をついてしまいそうだった。
 何故?
 何故、彼女なんだ?
 ここには多くの人間がいるのに、何故、よりにもよって俺達の中で最もか弱い彼女なんだ?
 心で答えの出ない問いをそれでも何度も繰り返しながら、柳は全力で走り、伴走している後輩からの情報収集を図る。
 無論、事態を把握する為でもあるが、何より自分の意識を繋ぎとめる為でもあった。
「赤也、竜崎は怪我をした状態だったのか!?」
「俺はすぐに先輩を呼んで来るよう言われたんで、そうしっかりと見た訳じゃないんですが…見た感じは酷い出血とかはなかったッスね。けど服が泥で汚れてて…あ、こめかみには血みたいなのが少しあった様な…」
「……!!」
 状況を察するにはそれを見た人間から訊くしかない、しかし訊くのではなかった。
 察すれば察する程に、それは最悪のケースの可能性を呼び起こし、自らの心を不安の闇へと駆り立ててゆく。
 早く戻って本人に会えば、下らない予想は払拭される…のに、会いたくない、という真逆の思いが、自分の足の動きを鈍らせてしまいそうだった。
 それでも、同じレギュラーの切原には一度も先頭を譲ることもなく、柳はいよいよ山側の合宿所へと戻って来た。
「! 来たか、柳」
「橘、何があった」
 どうやら切原と柳の帰りを待っていたらしい不動峰の橘が、二人を見つけるとすぐに広場から合流し、桜乃が運ばれた彼女のロッジへと同行する。
「探索の最中に、地響きの様なものを感じてな…近くのようだったから念の為に向かってみたら、結構な量の土砂が崩れていて、その脇に竜崎が倒れていたんだ。直接巻き込まれた訳ではなさそうだったが、意識が無くて…慌てて担いで帰って来たという訳だ」
「……」
 吐き気を覚える程に気持ち悪くなる…自分の予見の甘さに。
 そうだった、注意すべきは道の状態だけではなかった。
 ここはスコールが多い、その分、大地も雨を吸っては乾きを繰り返す。
 その繰り返しは徐々に土砂の脆弱性を招き、雨が過剰な重みとなり、何かが引き金となった時に、一気に自重に耐えられずに崩れ落ちるだろう。
 そう…彼女が向かおうとしていた地へ続く道、その脇に聳えていた崖も例外ではない。
 愚かだ、自分は。
 その程度の事すら予見できず、彼女をむざむざ送り出してしまった。
 止めていたら、いや、止められずとも自分が傍にいたら、無理にでも誰かと同行させていたら、また別の形での結末があったのだろうに。
「……俺の責任だ」
「?」
 昼の二人の会話を知らない橘は、柳の呟きを怪訝そうに聞いたが、その理由を尋ねる前に彼らはロッジの中へと入っていた。
 そこには、切原を柳の許へと向かわせた真田と、応急処置を施した柳生、その相棒の仁王が同席していた。
「戻ったか、赤也」
「どうッスか、竜崎の様子は」
 真田に尋ねた切原に答えたのは、傍にいた柳生だった。
「大丈夫、意識も戻りました。大事無いようです」
「マジ!? 良かった!」
 ほっとする切原の隣では、それでも愁眉を解けない柳が数歩を踏み出し、桜乃が寝かされていたベッドの隣に立って彼女を見下ろした。
「竜崎…」
 血色は悪かったが、確かに彼女はその瞳を見開き、自分へと向けると同時に焦点を合わせ、微かに笑ってくれた。
「柳さん…」
「……すまない、俺の見立ての甘さだ。お前を止めていたら、こんな事にはならなかった」
 開口一番、柳は詫びた。
 相手の消え入りそうな笑顔が、寧ろ、男の良心を深く抉る様に傷つけていた。
「! いいえ、柳さんの所為じゃありません、私が…っ」
 詫びる相手に驚いた桜乃が上体を起こそうとしたが、それを慌てて柳生が止めに入った。
「動かないで、安静にして下さい。また眩暈が酷くなりますよ」
 そう言って、再び少女を横にさせると、柳生は眉をひそめたままに柳を振り返った。
「土砂から逃れた際、飛んできた小石か何かで頭を打った様です。軽い脳震盪でしょう」
「……そうか」
「それは安静で改善するでしょうが…問題はこちらです」
「?」
 全ては解決した訳ではないと、柳生は視線を布団で隠された桜乃の足へと向けた。
「足を強く捻ってしまったらしく、既にかなり腫れてしまっています。骨は折れていませんが、当分は動きに制限が出るかと」
「……竜崎、足を見せてもらってもいいだろうか」
「は、はい…」
 柳の問いに恥じらいを見せながらも、桜乃は頷いた。
 今はそんな事を言っている場合ではない事は本人である彼女自身がよく分かっている。
 ばさ、と遠慮がちに布団を捲った柳の形の良い眉がひそめられた。
(思った以上に酷いな…)
 初めてこの合宿所を探索した時に見つけた救護箱の中にあった湿布が貼られていたが、目に見えて明らかに右足首の部分全体が大きく腫れて形が変わってしまっている。
 改めてそれを見た真田と切原も、柳と似たような反応を示す。
「い、痛そうだな…大丈夫かよ、竜崎」
「ええ…安静にしていたら平気です。大丈夫、すぐに腫れも引きますよ」
 気丈な言葉だったが、柳は現実的な判断をして忠告した。
「少なくとも、今日明日は絶対安静だ。以降も、なるべくロッジの中にいた方がいい。炊事当番は予定を変更して持ち回りで行う旨を手塚に連絡しよう…いいだろうか、弦一郎」
「無論だ。あいつもこの事情なら文句はなかろう」
 何の反論も出る事もなくその場はそこで収まり、取り敢えずは静かに休ませてやろうと男達は部屋を後にする。
「柳生」
 部屋を出たところで、柳は彼を呼び止めると、ある事を願い出た。
「すまないが、これから彼女の傷の手当と世話は、俺に任せてもらえないだろうか…元はと言えば俺の認識不足が招いた事故だ。少しでもあがないたい」
「…それは、構いませんが……柳参謀の知識なら間違いはないでしょうから。しかしあまり思いつめない事です、今回の事は誰の責任でもないのですから」
「ああ…肝に命じておく」
 それから、柳の桜乃に対する献身的な世話が始まったのだった。



柳編トップへ
サイトトップヘ
続きへ