桜乃という主戦力がいなくなり、食事の質の劣化は否めなかったが、それでも食べられないというものにはならなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
 桜乃がロッジ内のみの住人となってから、柳はそんな彼女の許に三度の食事を運び、足と頭の傷の手当をするようになった。
 桜乃も一日で脳震盪の症状は治まり、足の腫れも徐々に引いてはいったのだが、やはり二本の足のみで歩くのはまだ難しく、部屋の中の移動も救護箱と一緒に見つかっていた松葉杖の助けを借りている状態だった。
「竜崎、入るぞ」
『柳さん?…はい、どうぞ?』
 扉越しに声を掛けるとあの優しい声が返ってきて、柳は何故か安心しながらノブを回す。
 開くと、ロッジの窓際に健側の片足で佇み、こちらに振り返っている少女がいた。
 その様子から窓の外を眺めていた様だが、あの日以降、よく見る彼女の姿なので、柳は別に何も驚く事もなく中へと入って行った。
 今は太陽が天頂に昇りきる時分…つまりは昼食時である。
「食事だ。食べられそうか?」
「はい、いつもすみません」
 申し訳なさそうに微笑み、桜乃がベッドに移動してそこにストンと腰を降ろすのを見て、柳は傍にあったサイドテーブルに食事をトレイごと乗せた後、そこにあった椅子へと腰掛けた。
 桜乃が食事を食べて柳がそれをまた下げるまでの間は、彼らのささやかな雑談の時間となる。
 ロッジの中ばかりで過ごしていては、誰であっても心が塞ぎがちになるので、誰かと言葉を交わすことは非常に重要な意味を持つのだ。
 最初は、確かに彼女の心身の状態を良好に保つ為にそんな大義名分を理由にしていた…のに、今は少しでもこの椅子に長く座っていられないかと願っている自分がいる。
「足の調子はどうだ?」
「腫れはかなり引きました…裏の小川で冷やしていたのが良かったのかもしれませんね」
「そうか…だが無理はするな。お前の身体を第一に考えるんだ」
「はい」
 桜乃は少しずつトレイ上の食物を食べながら、柳の言葉に耳を傾ける。
 窓から見る景色と、彼の言葉だけが、今の彼女にとって外の世界を知る全てなのだ。
「柳さんは、午前中は何をしていたんですか?」
 他のメンバーの事も多少は話の端に昇ることもあったが、少女がいつも知りたがっているのは、柳の行動についてだった。
 何処に行ったのか、とか、何をしていたのか、とか、好奇心に満ちた瞳で尋ね、些細な出来事でも嬉しそうに耳を傾けていた。
 まるで彼の目を、身体を借りて、外の世界を感じているように。
「今日はまた海側に行く機会があった。向こうでも、徐々に捜索範囲を広げている様だ。大きな事件などはないが、まぁ、色々と賑やかな様だな…そうだ」
「?」
 何かを思い出した様に柳がポケットをごそりと探り、そこから何かを取り出して、桜乃の座るベッドの隣に並べていく。
 貝だ。
 桜貝やスイショウ貝、ミノ貝…他にも様々な形の美しい貝達が、ベッドの上で素朴な彩を放っていた。
「わぁ、綺麗な貝…」
「向こうに行った時に、幾つか見栄えのいいものを拾ってきた。もっと気の利いた土産があれば良かったが…」
「そんな…とても素敵です。しかもこんなに…集めるの、大変だったでしょう?」
「いや…何でもないことだ」
 なるべく綺麗な物を得る為に時間をかけた事は事実だったが、無論、柳はその苦労を語る事はなく、彼の優しさを知る桜乃もまた、それ以上は問わず、代わりに貝の一つを取り上げて耳に当てた。
 夢を見るように瞳を閉じ、微笑む姿を見ていると、聞こえる筈のない小波の音が彼女にだけは聞こえているのではないかと思う。
 そう感じてしまう程に…幸せそうに彼女は笑う。
 そしてそんな少女の笑顔を見るだけで…自分の心もまた、かつてない程に満ち足りる。
 贖罪の為にここにいる筈の自分が、償う相手に癒されているとは…
(こんなコトを知られたら…それこそ合わせる顔がないな)
 しかし彼女の傍に長くいたら、知らず微笑んでしまう自分の顔を見られてしまいそうになり、柳は後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。
「では、食器を下げよう。夕方にまた来る」
「あ…はい」
 柳にも予定というものがある事は十分に分かっているが、どうしてもこの時だけは、寂しさを忘れることが出来ない。
 貝を耳から離し我に返った桜乃は、一瞬だけ切なそうな表情を浮かべたが、すぐにそれを押し隠して笑顔を繕う。
「あの…有難うございました。作った方にもご馳走様でしたと伝えて下さい」
「ああ…もし何か困った事があれば、誰でもいいから近くにいる人間に声をかけるといい。近場であれば少し出歩くくらいは構わないが…油断はするな」
「はい…でも…」
「ん?」
「あ、いえ……多分、ここにいると思います」
 外に出ている時にもし貴方が来たら、会えないから…
 そんな言葉を呑み込んで、桜乃は相手を部屋から送り出すと、そのまま窓へと移動し、離れてゆく彼の背中を無言で見送っていた……
 その瞳の中には何処か消し去れない不安の色が宿っており、その不安はその後、確かに現実のものとなってしまうのである……



 柳の看病が始まってから、徐々に桜乃の足も快方へと向かっていたある夜……
「…ふむ、赤みもない。腫れも引いて、ほぼ元の形に戻った様だな」
 洗面器に張った水に浸けられた桜乃の足を、足底部から優しく持ち上げて柳が評した。
 この調子なら、もう相手が歩行を積極的に行える様になるのも時間の問題…
(…この日々が失われてしまうのは悲しいが…だが、これから…)
 ぴちゃん…
「?」
 不意に、洗面器の水面に一滴の雫が落ち、小波が立った。
 別に自分は揺らしてはいなかったのだが…と不思議に思った柳が何とはなしに上を見て、硬直する。
「竜崎…?」
「……っ」
 声もなく、ただはらはらと、桜乃が大粒の涙を零していた。
 先程の雫は、彼女のそれだったのだと知り、男は慌てて立ち上がった。
「すまん、痛かったか? それ程強く握ったつもりはなかったが…」
「…いいえ…逆…」
「え…?」
「痛みが……なくなって…きた、から…」
「?」
 理解出来ない…彼女の反応は、まるで逆のものなのではないか?
 普通、痛みが引いたら人間は喜ぶものだ、これから自身の活動範囲も広がるし、何より苦痛から解放されるのだから…喜びこそすれ、それで涙を流すなど、意味が分からない。
「どういう…事だ?」
 理由が分からなければ、慰め方も分からず、柳はとにかく相手を宥めてそれを聞きだそうとする。
 理由が分からない事より、彼女が泣いている姿の方が、自分の心には痛かった。
「痛みが消えたら、完治までもう少しだ…何を泣くことがある」
「でも…柳さんは…もう」
「え?」
「治ったら…来なく、なる…から…」
 そこまで言って、桜乃は両手で顔を覆ってしまう。
「わが…まま、です…分かってる…っく…痛くて、歩けなかったから…貴方は私の処に、来てくれてた……でももう、その理由も…」
 なくなってしまったら…ここに来る理由がなくなったら…貴方はもうそこの扉を開かないだろう。
 心の何処かで願っていた、痛みの代償で彼に会えるならもうこのまま痛みなど、傷など治らなければいいのに、と。
 それがどんなに自分勝手で醜い願いか分かっていたからこそ、封じ込めていたけれど…その時が来てしまった今…抑えることが出来ない…
「……」
 独白を聞き、暫し唖然としていた柳だったが、その表情が嫌悪に染まることはなく、彼は沈黙の後に桜乃からベッド脇に立てかけてあった松葉杖に目を遣った。
「…痛みが引いたら、本格的に歩く練習が必要だ。明日からの適度な散歩のコースを考えておく…最初は朝と夕方、一日二回…俺が付き添う」
「…?」
 柳の、一見事務的な説明はそれからも続く。
「徐々に距離を伸ばして…杖を手放す訓練も要る。だが、一人だけでは何かあった時に転ぶ可能性もある…そんな時には、隣の俺に掴まればいい」
「…!」
「完治したら…」
 ゆっくりと立ち上がり、柳は腰を少しだけ屈め、桜乃の顔に自分のそれを遠慮がちに寄せた。
「…俺と一緒に…何処かに出かけないか?」
「!!…柳、さん…」
「今ここで、お前の世話に一番慣れているのは、俺だと思うが」
 若者の誘いに涙も止まり、桜乃が相手を見つめると、彼は優しく笑っていた…ほんの少しだけ、照れ臭さを滲ませながら。
「……気が…長い話ですね…」
 治る前に、もうこの島から出てしまっているかもしれないのに…と涙を流したまま桜乃がおどけて言うと、柳はその相手の涙をそっと優しく指で拭き取った。
「他の理由が必要か…? では、これなら文句はないはずだ」
 そして、近づけていた顔を更に近づけ、それを相手の耳元まで持って行き…
「俺も、お前と一緒にいたい…今思えば足の手当てなど、口実に過ぎなかった…」
 そっと囁く柳の声には秘められた熱が燻っている様で、その火種を心に移された桜乃がかっと頬を赤くする。
「…此処だけの話ではなく、日本に戻っても…青学と立海に分かれても…叶えてはもらえないだろうか」
 俺の、我侭を…
「…!」
 顔を寄せられただけでなく、ぎゅ、と身体をきつく抱き締められる。
 自分の部屋、二人しかいない部屋…外の喧騒も聞こえない無音の世界で、柳の胸に押し付けられた耳が、彼の心臓の鼓動を拾い上げた。
(…あ…凄く…速くなってる…?)
 表情は…いつもの柳さんなのに…
 自分の鼓動も凄く速くなっているのを感じるけど、相手のそれも速くなっているという事実が、逆に桜乃に安心感を与えた。
(柳さんも…一緒なんだ…)
 同じ様に…感じてくれているんだ…
「…竜、崎?」
 返事が聞こえない事を不安に感じたのか遠慮がちに名を呼んできた柳に、桜乃は微笑をまだ相手の胸に隠しながら、きゅ、と抱き返す。
「…!」
「…私…歩くの、遅いですよ…?」
「構わない…寧ろ、その方がいい」
 その方が…お前と一緒に歩ける時間が長くなるから…
「だから、その…返事を…」
 また少し、速くなった様に感じる柳の脈拍に、桜乃は幸せそうに笑って頷いた。
「私も…隣に柳さんがいてくれたら…嬉しい」
「!…竜崎…」
 想いを込めるように抱き締めてくれる柳の優しさに酔いながら、桜乃はふと見遣った先に松葉杖を見つけた。
 もう暫くはあれの世話にならなければいけない…少し前までは、ずっと使えたらと願っていたのに…
「…早く…」
「ん…?」
「…杖が要らなくなるぐらいに、歩けるようになります…そしたら…私の手を握って…歩いて、くれますか?」
「…お前が望むのならいつでも…だが、今だけは」
 手より、お前の身体を抱き締めていたい…贖罪を新たな罪に変えた、甘い痛みと共に…






前へ
柳編トップへ
サイトトップヘ