二人の新しいカタチ


「柳君、お茶を淹れたから、休憩しない?」
「ああ…有難うございます、竜崎先生」
 三学期、秋も半ばを過ぎた時期…立海大附属高校の図書室内にある司書室では、そんな穏やかな会話が交わされていた。
 ガラス張りの壁から見える図書室内にはもう生徒の姿はない。
 放課後を迎えてからかなりの時が過ぎ、もうすぐ図書室そのものが閉館となる時間帯ともなれば、それも通常の光景だ。
 しかし、そこに残っている一人の男子学生は帰宅を急ぐ様子など微塵もなく、寧ろ、当然の権利だとばかりにその場に留まることを望んでいた。
「精が出るね…もうすぐだっけ、立海大の推薦入試」
「ええ」
 彼の目の前のテーブルに温かな紅茶が入ったティーカップが差し出され、同時に若者は目を通していた参考書をぱたりと閉じた。
「手応えはどう…って聞くのは愚問かな。職員室ではもう、柳君の合格は当然みたいな感じで話題になっているから」
「余程の悪条件が重ならない限りは、ほぼ百パーセントの確率で、先生方のご期待には添えると思います…しかし、油断大敵とも言いますから」
「そうね…」
 あくまでも冷静に答える相手に、ティーカップを差し出した一人の女性教諭が優しく微笑む。
 参考書から久し振りに外された男の視線は、先程から彼女だけに向けられており、その笑顔を受け止めたところで彼も微かに口元を緩めた。
「…俺がいなくなったら…寂しいですか?」
「う……またそんな意地悪な質問を…」
 困る相手の表情を眺め、柳が笑みを深くする。
「少々、興味が沸きました」
 興味が沸いたのが事実だとしても、答えならもう分かっている筈なのに…と、その女性教諭は少しだけ拗ねた顔でぷいとそっぽを向いた。
「さ、寂しいに決まってます、可愛い生徒がここを巣立っていくんだから…」

 キ―――――ン コ―――――ン カ―――――ン コ―――――ン…

 彼女の声に重なるように、学校のチャイムが響いてきた。
「あ…もうこんな時間…?」
 部活動の規定の終了時間を知らせると同時に、生徒達に帰宅を促す為の、その日最後のチャイム。
 振り仰いだ女性教諭が目を離した隙に、かたんと柳が立ち上がり、ゆっくりと彼女へ近づいてゆく。
 そして、相手が柳の接近に気付いた時には彼の手が伸ばされ、その細い腰をしっかりと抱き締めていた。
「柳君…!?」
「教師としては合格…しかし、俺としては少々不満だな」
「え…?」
「チャイムも鳴った…今は、俺は『柳君』ではない…そうだろう?」
 先程の敬語から一転、先生である筈の女性に堂々と対等の台詞を投げかけながら、柳は誘うように顔を相手のそれに近づけた。
「俺がいなくなるのは寂しいか…? 桜乃」
「…っ」
 端正な顔が間近に迫り…しかしそれだけが理由ではない様子で、桜乃の頬が薔薇色に染まってゆく。
 同時に、困った様な、拗ねた様な表情を浮かべ、彼女は軽く唇を尖らせると、ぽふんと顔を相手の胸の中に埋めた。
 教師と生徒の間柄と呼ぶにはあまりに親し過ぎる二人の姿は、誰にも見られることはない。
 いや、見られる訳にはいかないのだ。
「…うん…寂しい、蓮二さん」
 温かな相手の温もりを感じながら、桜乃もまた、相手を名で呼んだ。
 それが彼らの中での決まりごとだったからだ。
 学校内で、彼らが教師と生徒という立場であるべき時には、そう振舞うこと。
 そして、その時間から外れた時には…『恋人』としての二人になること。
 学内の行事が全て終了したというチャイムが響き終わった時、柳は生徒ではなく、桜乃の恋人としての行動に準じ、相手にもそれを求めたのだった。
 柳より教師である桜乃の方が明らかに年上なのだが、それ程に年齢は離れていない事と、柳が年齢の割に人間として成熟し、落ち着きある男だった為、桜乃は相手を『蓮二君』ではなく『蓮二さん』と呼んでいる。
 どちらが好ましいのかは知らないが、少なくとも愛しい女性に名で呼んでもらえる事は、彼にとっても嬉しいものであるらしい。
 しかも、今の彼女の様にちょっぴり拗ねた感じで、それでも素直に自分の気持ちを伝えられると、柳でなくても男心に響くだろう。
 初めて出会った時から既に恋に落ちていた若者は、ようやく手に入れた恋人の台詞に、くらくらと眩暈を覚えた。
 年上なのに、どうしてここまで可愛いと思えてしまうのか…意志の強さにはそれなりに自信があった筈なのに、こんな言葉一つに対してさえ動悸を覚えてしまう。
 桜乃は自分の事を意地悪と言うが、それは彼女がそうさせるからだ。
 そんな困った表情や拗ねた声を見せられ、聞かされたら、もっとそれを自分だけのものにしたくなる…それは当然の感情ではないだろうか…?
(俺にしてみれば、お前こそがそもそもの原因なのだがな…)
 くす…と薄く笑っていると、桜乃が埋めていた顔をそろっと上げて、逆に柳に問い掛けてきた。
「…蓮二さんは、平気? 卒業したら、こんな風には会えなくなっちゃう、よね…?」
 ここは立海大附属高校の校舎内の図書室である…桜乃はそこの司書教諭という立場。
 同校の学生である柳がここにいる事は何らおかしな事ではないのだが、彼が無事に受験に合格し、大学生になってしまったら、おいそれとここの校舎内に来る事は難しくなってしまうだろう。
 いや、来る事は出来てもそこまで足繁く通っていたら、流石に二人の関係について気付かれてしまう。
 教師と生徒…互いの気持ちは真剣であっても、それは世間から厳しい目を向けられる禁断の恋。
 やましい気持ちは一切なくとも、真実が暴かれたが最後、引き裂かれてしまう可能性を考えると、どうしても大胆な行動には移れない。
 大学生になればその分また勉学に励むだろう相手と、果たしてどれだけ会える機会を持てるだろうか…
 不安な気持ちを表すように、ぎゅ、と抱きついて来る桜乃に、柳が困った様に笑う。
「…俺も寂しい……この際、ここで留年してしまうのも人生経験かもしれないな」
「そんな…! それはダメ!」
 おどけるように言った男に、桜乃がはっと顔を上げて慌てて止める。
 冗談だろうことは分かっていたが、それでも止めない訳にはいかなかった。
「私の所為で、蓮二さんの人生を誤らせる訳にはいかないもの…大丈夫、会える機会は少なくなるかもしれないけど、会えるだけでも嬉しいから…」
「!…桜乃」
 健気な台詞に柳が密かに感動していると、桜乃が相手に淹れた紅茶がまだ手付かずの事に気付いて笑った。
「あ…紅茶、冷めちゃうから…蓮二…さ、ん?」
 ぎゅう…っ
 離れようとした桜乃は、相変わらず腰に感じる優しい拘束具が解放してくれない事を訝しみ、最後まで言葉を紡ぐことなく男を振り仰ぐ。
「え…」
「紅茶はいい…キスをさせてくれ、桜乃」
 自分にとってはそちらの方が余程美味なもてなしだ、とばかりに、柳はそれから随分と長い間、桜乃を捕えたままだった。


 ようやく年下の恋人の我侭から解放された桜乃は、その後も彼と一緒に家路を途中まで共にしていた。
 柳の本心としては、当然彼女の家まで送ってやりたいのだが、それもまた他人の目にいつ留まるか分からない。
 幸い、彼女の家へと至る道は規格も大きく並ぶ店も多いので、途中で誰か怪しい人物に襲われるという可能性はかなり少ないだろう。
 彼らが別れる場所は、いつも大体決まっている。
 大きな建物の門の前、柳は大体ここで足を止める。
「では、また明日、学校で」
「うん…今日もここに寄るのね」
 見上げる建物はとても大きく、夕方ではあるが中から漏れる照明は十分に明るい。
 この地区一帯の中でも最も敷地面積が広く、且つ蔵書数も最大を誇る図書館なのだ。
 最近では、柳は受験も控えた身である為、帰宅途中でここに立ち寄り、更に勉学に励む日々を送っている。
「蔵書がとても多く、雰囲気も落ち着くのでな…ここだと調べ物もはかどる。大学に勝るとも劣らない施設なので、普段もよく利用している」
「ふぅん…私も勉強のお手伝いが出来たらいいのに」
 何気なく言われた恋人の台詞に、柳が苦笑して首を横に振る。
「気持ちは有り難いが…正直、桜乃が傍にいるとそちらに気が向いてしまいそうだな」
「う、確かに…」
 一見クールに見えるこの若者だが、恋人を前にすると途端にその印象は激変する。
 それを知っているが故、桜乃もそれ以上食い下がる事は出来ず、素直に引き下がることにした。
「じゃあ、頑張って。でも、絶対に無理はしないでね」
「ああ、有難う」
 日も暮れかけている人通りの少ない道端だったが、彼らはあくまでも生徒と教師という姿のままにその場で別れた。
 明日になってもその芝居は続き、ほんのささやかな時間だけ、彼らはまた恋人に戻る事を許されるだろう。
「……ふぅ」
 一緒にいられるだけでも凄く幸せなこと…そう理解はしていても、つい感じてしまう寂しさに、桜乃は小さく溜息をついた。
 そして自分も家に帰ろうと再び足を踏み出した時、何気なく彼女の視線が、図書館管轄の掲示板に向いた。
「……」
 再び歩き出そうとしていた両足を止め、彼女はそこに張り出されている書面を長い間見つめていた…


 それから暫く経った或る日の昼休み…
 柳はいつもの様に数冊の本を抱えて図書室に足を運んでいた。
 返すつもりの蔵書が数冊と、自分の手持ちのものが同じく数冊。
 どれも小さいものではないのだが、普段テニスで鍛えていた身体を持つ彼にとっては、そう苦痛になる重さではないらしい。
 尤も、最近は受験の都合もあるので、テニスの活動は控えめにしているのだ。
(そう言えば、暫くラケットを握っていないな……受験の片がついたら、桜乃と一緒にまたテニスをやるのも悪くはないか…)
 そんな事を考えながら、図書室の扉を開き、他の生徒達も多数利用している中へと入る。
 柳の場合は、図書室の広い空間を利用するのではなく、桜乃のいる司書室で読書や勉学に勤しむのが常となっているので、別に図書室が混んでいてもそうでなくても、あまり関係はない。
 司書室に一般の生徒が入っていいのか、という指摘も、常日頃から本の虫と呼ばれている柳に関しては通じない…と言うより、誰も言える度胸がない。
 それも幸いして、昼休みも柳にとっては、学生としての立場に準じなければならない制約はつくものの、桜乃との逢瀬を楽しめる時間でもあった。
 ところが…
「…ん?」
 司書室と図書室は壁で区切られてはいるものの、その壁は殆どガラス張りで、互いの様子が見渡せる様になっている。
 何かあった時にすぐに教員が対応出来る様に、ということで設計されたその場所で、柳はいつもの様に図書室からガラス越しに、桜乃の姿を見つけた。
 そのすぐ隣に立つ、見知らぬ若いスーツ姿の男性と一緒に。
「………」
 もし相手が女性であれば、何を思うでもなくそのまま相手が用件を済ますまでこちらで待機していただろう。
 しかし、その若い男は柳がこれまで見たことも会ったこともない男性であり、更に桜乃と非常に睦まじく語らっている様子だった事が、一気に彼の疑念に火をつけた。
(誰…だ? 少なくとも、ウチの高校の教員ではない…桜乃と同じ年頃に見えるが…客人?)
 まさか、懇ろな仲なのか、と一瞬考えたが、それはすぐに彼自身によって打ち消された。
 いや、彼女がそんな不義理を犯す筈がない。
 少々発想が飛躍してしまうが、同級生か誰かが、懐かしんで彼女を訪ねて来たのだろうか…それとも、新たな設備を加えるとかで営業に来た業者とか…?
 もしその場合だと、自分が部屋に入るとこちらの方が遠慮をしない不調法者ということにもなってしまう。
 まぁ、別に話すぐらいなら害もないし、ここは暫く向こうの用件が終わるまで待つか…と柳はその時は軽く考えてその場で構えたのだが、その数秒後には彼の余裕は簡単に吹き飛んでしまっていた。
(な…っ)
 ガラス窓の向こう、視界は開かれているが音は閉ざされているその世界で、若い男がさりげなく、後姿を向けている桜乃の肩に手を置いたのだ。
 しかも、相変わらず何事かを親しげに話しかけながら、二人の距離を詰めようとしている。
「…っ」
 むかっ…!!
 自分は、同年代の若者の中では、本は読んでいる方だと自負している。
 その分文法や言葉による表現は、彼らより熟知しているという自信もある。
 しかし、今のこの自分の不快な気持ち…暗く醜い感情をどう表すべきなのか、全く分からない!
(強いて挙げれば、憤懣やるかたなし、というところだろうな…それにしても生温いが)
 桜乃は、自分の恋人なのだ。
 独りよがりではなく、彼女自身もそう思ってくれている。
 今は学生の身分であり、彼女の立場を考えると声を上げて言う事は出来ないが…それでも誰よりも大切に想っているのだ。
 自分以外の誰かが邪な気持ちで触れるなど、絶対に許せない…!!
 一度は気を遣って遠慮したものの、あれを目にした以上は黙ったままでいるなど出来ず、柳は足早に司書室に向かってドアを開いた。
 そのタイミングとほぼ同時に、桜乃は自分の肩に置かれた相手の手を、見知らぬ男の方へと振り返る形で払いながら、笑顔で話しかけていた。
「でも来て下さってよかった。お陰で助かりました」
「いや、そんな事は…」
「竜崎先生」
 最早、内容が何であれ彼らの好きなままにさせる義理はないとばかりに、柳が声を掛けて二人の会話を止めた。
 止めながら…今の桜乃の台詞に、柳は疑問も抱いていた。
(…来てくれてよかった…?)
 どういうコトだ…やはり相手は桜乃にとって過去の知己であるとか、そういう縁を持つ人間なのか…?
 そう悩む若者に、彼の存在に気付いた桜乃が、あら、と首を傾げて笑った。
 その笑顔はいつもと同じ…嘘も偽りもない。
 それで少しだけ心を落ち着ける事が出来た柳だったが、その冷静な瞳は、桜乃のすぐ後ろの男の僅かな表情の変化も見逃したりはしなかった。
 自分がここに入室してきた瞬間の、彼の驚愕と…その陰に確かに滲んでいた落胆の表情を。
 間違いなく、このスーツの男は桜乃に対し、只の知己以上の思い入れを持っている…
(危険だな…)
 桜乃は決して恋人を裏切るような人間ではない…が、周囲の異性の視線や恋愛関係の話にはとことん疎い一面がある。
 相手のペースに乗せられて、自分はそのつもりではなくても、都合のいいように操られてしまう可能性もゼロではない。
 兎に角、今は自分がここに割り込んで、さり気なく引き離した方がいいだろう、そして後で、この男には下手に近づかないように忠告しておかなければ。
 そう考えを巡らせていた秘密の恋人に、桜乃はそんな事など知る由もなく、朗らかに笑いながら言った。
「丁度良かったわ、柳君。この方、今日からここに中途採用された先生で、私のお手伝いをして下さることになったの」
「…え?」
 どういう、事だ…?



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