「もうすぐ試験だね柳君。まぁ君ぐらいの実力があれば、推薦ではなくても余裕で合格出来るだろうが」
「…恐れ入ります」
 職員室で、彼は担任の教師からそんな言葉を掛けられ、そつのない返答を返していた。
 もうすぐ、彼の推薦入試の日。
 普通の生徒であればいよいよ追い込みの時期でもあるが、柳にとっては普段と同じ生活を送るだけに過ぎない。
 追い込みをかけずとも十分に合格を狙えるという優等生の彼は、教師からお墨付きをもらいながら、視線は彼の向こうの女性に向けられていた。
 竜崎桜乃だ。
 彼女は今は職員室で他の教師と歓談中であり、そこには相変わらずあの若い教師が入っていた。
「……」
 自分にはどうにも出来ないと分かっている…だからこそ、歯痒い思いに唇を噛みそうになる。
 あの日、桜乃は相手を新しい司書教諭だと自分に紹介したのだ。
 これまでは柳の助力を借りて図書室の管理監督を行っていた桜乃だが、今はその手助けは、あの教師が代わりに行うようになっている。
 何故いきなり、と驚いた柳だったが、桜乃の説明を聞いて更に驚いた。
 実はその希望を出したのが、彼女自身であると告白されたからだ。
『俺がいたら助力など必要ないはずだ。これまでも特に問題が起きた試しはなかった』
 柳の主張も尤もであり、確かに過去に何か問題が生じた事は皆無だったのだが、それに対しては桜乃もしっかりとした理由を持っていた。
『受験前のあなたにそんな時間を使わせることは出来ないわ。学校も私も、受験生のあなたに甘えての管理なんて望んでないんだから、ね』
 どちらも正しい…だからどちらも悪くはない。
 柳は桜乃の為を思って動き、桜乃もまた同様に柳の事を思っての気配りだった。
 前から柳が受験生である事を懸念していた桜乃は、彼に内緒で今回新たな司書教諭を入れる事を職員会議で提案していたらしい。
 お金も人事も関わる問題だった為、長引くかと思われていた課題だったが、それは何故かあっさりと可決されたらしく、今回のスピード採用となったのだ。
 あれから桜乃は、昼休みも放課後も、新しい教諭にシステムや図書内容を教える為にあの教師と共に行動しており、なかなか二人きりになれる時間を持てなくなっている。
 それでも極力自分が傍で見守っている成果もあり、あの教師が彼女に下手なちょっかいを掛ける様子は今のところない。
 向こうはうっすらと、自分が図書室に篭っている理由が受験や読書だけではないと勘付いているようだが、構うものか。
(…相変わらず、桜乃が鈍感であってくれたのは幸いと言うべきかな…)
 そんな事を考えていた柳の近くで座っていた別の男性教師が、柳より遅れて桜乃の存在に気付くと、隣の机の教師に話しかけていた。
「どうも、先生。いやー、しかし残念ですな、竜崎先生。いよいよお辞めになる決心をなさったとか?」
「その様ですね、この間、正式に辞表を提出されたと聞いています。優しくて生徒にも人気があって頼もしかったのに」
「…!!?」
 肩を揺らし、硬直してしまった柳の心中を知る事もなく、彼らは会話を続ける。
「しかし急な話でしたな」
「ええ…お年頃の女性ですから、もしかしたら寿ではないかとも思いましたが」
「おや、違うんですか? 実家のお祖母様が早く孫が見たいと仰っていると噂で聞いていましたから、私はてっきり…」
「!?!?!?」
 更に襲い掛かってくる衝撃。
 おそらく今ので、二つ、三つばかりの英単語の記憶が消えてしまったかもしれない。
 辞める…司書教諭を?
(聞いてないぞ、そんな話は…!)
 嘘だと思いたかったが、先程の会話の中に出てきた辞表という単語を考えると、やはりそれしか考えられない。
 聞き間違いではない…残念だが。
 しかし、はっきりとそれを聞き取ったからと言って、そのままあっさりと受け入れるなど到底出来ないことだった。
(何故!? 桜乃…何故、俺に何も言わずに…!)
 もし話してくれていたら、きっとその時も衝撃を受けはしただろうが、ここまで動揺する事はなかっただろう!
 今、柳の心がここまで乱れているのは、真実を知ったという事よりも、桜乃本人からそういう話を一切聞かされていなかったという事が最大の原因だった。
 想い人に隠し事をされていたという事実。
 しかも、それが相手の人生に大きく関わっているような内容であれば尚更の事。
(何故黙っていた、桜乃…俺に知られたくない何かがあるのか…?)
 知らない間に新しい男の司書教諭を招いたり、内緒で辞表を出していたり…全く読めない、お前の考えている事が……
「……」
 柳は、その細い目の奥に昏い彩の光を宿したまま、視線の先にいる恋人を見つめ続けていた。



「ふぅ……あれ、柳君」
「……」
 同日、放課後
 桜乃が職員会議を済ませて司書室に戻ると、恋人がそこに佇み窓の外を眺めていた。
 彼女の帰室に、相手はゆっくりと振り返る。
 部屋の中に彼だけだと知り、桜乃は不思議そうに辺りを見回した。
「…?」
「あの先生は、忘れ物があると戻りました」
「あ、そうなの?」
 相手の思考を読む能力は相変わらず凄いな…と考えていた桜乃に、柳はつかつかつか、といつもより少し荒々しい感じで歩み寄ると、いきなりその身体を抱き締め、拘束した。
「え…っ!!」
 桜乃は、いきなりの相手の行為に驚き…そしてざぁっと顔色を青くする。
 いつもの…誰にも見られないだろう時間帯、場所であれば拒まなかった。
 しかし今は放課後ではあるが、まだこれから人が来る可能性がある。
 一番考えられるのは、あの新しい司書教諭が、忘れ物を取ってから戻って来るという事。
 それを知らない、気付いていない筈はないのに、何故彼はいきなりこんな大胆な事を…!?
「柳君!? ちょっと…っ」
「……もし、こんな処を見られたら?」
 相手の言葉を先取りする台詞も、今は全く楽しそうではない。
 最後のチャイムが鳴る前だったが、柳の口調は普段のそれに戻っていた。
「俺は推薦を取り消され、お前には何らかの処分が下るだろうな…例外などなく」
「なら…!」
 分かっているのなら、止めて!と願おうとする前に、だが、と柳が続ける。
「全ての関係者に俺達の関係を知られる事にもなる…あの男にもお前は俺だけのものだと分かるだろう。俺の願いは叶えられる」
「!?」
「…近々ここを辞めるのに、お前も気にする必要はないだろう? 実質的な被害は俺が被るのだから」
 内緒にしていた事実を暴露され、桜乃は驚きながら小さい声で確認した。
「!…知って、たの?」
「お前のことなら、何でも知りたいと思うのは当然だ。これは知的好奇心ではない、俺の…男としての欲求だ」
「…………えーと」
 柳に抱き締められたまま、桜乃は彼の胸の中でこそりと尋ねる。
「さっきの台詞…もしかして、ヤキモチ?」
「いけないか?」
 悪びれる様子もなく、柳はあっさりとそれを認めた。
 いけないだろうか、男が愛しい女性を己だけのものとして求めるのは…俺はお前を得る為ならどんな犠牲を払っても構わないと覚悟しているのに!
「………ふふふ」
「?…桜乃?」
 不意に桜乃の小さな笑い声が聞こえてきて、柳がそちらへと顔を向けると、確かに彼女は笑っていた…嬉しそうに。
「……好きな人にそこまで執着されるのって、こんなに嬉しいのね…でもダメ、それならやっぱり今の関係を知られる訳にはいかないわ。離してもらわないと」
「え…」
 どういう事だ?
 自分の気持ちを知っていながら、その気持ちを否定するということ…?
 疑問に思う男に、桜乃は伸び上がって相手の耳元に唇を寄せ、囁いた。
『……実はね』



 翌年の春…
 柳が足繁く通っていた大きな図書館は、その日も普段と変わりなく開館して、多くの利用客で賑わっていた。
 そこに、柳が私服姿で訪れる。
 無事に大学の推薦入試にも合格し、今は大学一年生である。
 高校という学び舎を後にしてからは、彼はもうあの古巣には足を運ぶこともめっきり少なくなり、現在はこの図書館に通う毎日だ。
「お願いします、返却分ですが」
「はい、承りました」
 手にしていた蔵書を数冊、カウンター向こうにいた職員に差し出す。
 受け取ったのは…桜乃だった。
 あれから辞表を立海に提出した彼女は、それから職場をここへと移し、現在はこの図書館の司書として働いている。
 全ては、桜乃が思い描き、あの日柳に語った通りに…



『司書!? 図書館の司書に!?』
『うん』
 あの日、桜乃は柳に全てを打ち明けていた。
 この立海を辞めて、あの図書館の司書になることが内定していること。
 図書館の先代の司書が定年で辞めて募集がかかっているのを掲示板で見て、予め考えていたこと。
 新しい司書を招くように言っていたのも、いずれ自分が辞めるに当たり学校に迷惑をかけずスムーズに事が運ぶようにとの配慮だったこと。
 男性を希望していたのは、柳も高校から卒業するので単に力仕事を考慮してのものだったこと。
 全ては、桜乃が図書館の司書になる為の布石だったのだと。
 全てを話した後、桜乃はようやく蓮二からの拘束から解放されていた。
『し、しかし何故急に…お前もここに来てまだ日も浅いというのに…』
『ん…そうだけど…本当は大学の司書でもいいかなーって思ったんだけど…学校で図書館に司書を置くのって、大体は高校までなの。立海の大学にも問い合わせてみたんだけど、今のところ募集はかかってないみたいだったし…』
 柳の質問に、桜乃は顔を上げながら笑って答える。
『実を言うとね、一番の理由は私の我侭…蓮二さんと堂々と付き合いたいから』
『え?』
『蓮二さんは大学に行っても学生だし、私は残っても相変わらず教師って立場でしょ? 高校と大学なら関係ないとも思うけど、やっぱり同じ立海である限りはそういう見方をされてしまうかもしれないし…悪いコトをしている訳じゃないのに、隠れて付き合うって嫌なの。私だって、蓮二さんと堂々と腕を組んで、街の中を歩いたりしてみたい』
『!!』
 それが十分に男殺しの文句だと、言っている本人が気付かないのだから性質が悪い。
 可愛いおねだりにいきなり息切れが出そうになったのを必死に抑えつつ、柳は照れ隠しに顔を背けつつ言った。
『その…それなら最初から言ってくれたら…』
『内緒にしてたのはゴメンなさい…余計なプレッシャーにしたくなかったから…試験が終わったら全部話そうって』
『その気遣いは有り難いが…お前が図書館付きの司書になれば、俺の立場が大学生だろうと浪人生だろうと変わらないだろう? そこまで徹底して内緒にしなくても…』
『…………』
 その疑問に、いきなり顔を逸らして沈黙した恋人に、柳はぴーんっと別の企みの匂いを感じ取った。
『…お前、他にもまだ隠している理由があるな?』
『あううう、勘良すぎ〜〜』
 早く話せとばかりにほっぺたをぐにぐにと抓られ、桜乃は仕方なく涙目で更なる策略を暴露した。
『ううう…実はお祖母ちゃんに、私が職を変わることがバレちゃって…それを許す代わりに原因になった男を連れて来いって…その時に、つい大学生って言っちゃって〜……』
『…………』
 まぁ確かに…世間体というのも重要だな、社会では。
(…成る程…だから、俺が必ず合格出来るようにプレッシャーを極力少なくしようと、内緒にしていた訳か…)
 俺と、一緒にいたいと思ってくれていたから……
『……』
 沈黙した相手に、桜乃が不安げに問い掛けた。
『…やっぱり引いちゃった? 重すぎた、かな、ここまでしちゃって…』
『…いや、俄然やる気が沸いて来た』
『え?』
 引く訳がないだろう…好きな女性にそこまでされて。
 大学生にならないと、彼女と一緒にいることを向こうの家族に許してもらえないかもしれない…しかしそれは逆に言えば、無事に合格することで相手の身内を納得させられるということでもある。
『これでもう、俺が不合格になる可能性は全て消えた』
 万全の態勢をもって、勝負に向かおう。
 その誓いの通り、柳はその年の推薦の中でも最高点を出し、難なく大学への進学を果たしたのだった。



 それから、無事に桜乃の祖母への面通しも済み、二人の逢瀬の場所は学校内の図書室からここへと移っている。
「ええと、三冊ですね…はい、どれも期限内の返却です」
 二人は、蔵書を受け渡す際に視線を合わせ、互いに微笑み合った。
 立海でもそうであった様に…
「あ、柳さん。頼まれていた予約図書が入っています。今日、借りていかれますか?」
「ええ」
 就業時間内はしっかりと司書としての顔で働く桜乃に、柳も同じく来館者として返し…さりげなく辺りを見回しながら確認した。
「今日も開館は七時までですか?」
「はい…では、予約図書二冊こちらになりますね、他には何か」
 桜乃が図書を二冊差し出してくれたところで、柳はそれを受け取りながらそっと相手の手を軽く握った。
「…!」
「…では、閉館後の貴女を一緒に予約しておきたい」
 ひそりと呟かれた恋人の甘い言葉に、桜乃は真っ赤になりながら辺りの人々が誰も自分達を見ていない事を確認して、嬉しそうに笑った。
「…いいですよ」
 立海にいた時と今はあまり変わらない…しかし、館が閉ざされた後になれば大きな変化が二人を待っている。
 互いに堂々と腕を組み、仲睦まじい恋人達の姿そのままに、同じ道を歩いてゆくのだ…






前へ
柳編トップへ
サイトトップへ