恋の旋律


『いよいよ全国大会準決勝まで駒を進めたで。流石俺…って言いたいトコなんやけど、正直俺にはまだ出番がない。全く、大体先輩方が活躍しすぎやっちゅうねん。そろそろ若いモンに道譲ってのんびり隠居でもしてくれてたらええのになぁ。けどま、東京では他にも色々とやりたいこともあるし、せいぜい堪能させてもらうわ。先ずは目当てのCDを探すこと、後は…まぁ望みは薄いけど、可愛い女の子でも探してみよか』


 都内、某CDショップにて…
「っほ〜〜〜、さっすが東京、店がここまで大きいと、品揃えもちゃうわな」
 或る一人の若者が、大手のCDショップに立ち寄り、店内の全ての棚を珍しそうにゆっくりと見て回っていた。
 明らかに関西人と分かる話口調で、全てのフロアーを見て回っている割には、表情に表す感動は薄い。
 短髪の黒髪、耳には幾つものピアス、顔立ちは整っており、十分にイケメンと呼ばれる男の部類には入るだろう。
 彼はCD店の中でも自前のイヤホンを付け、それを繋いだCDプレーヤーでお気に入りの曲を聴いていた。
 今日、この店に来たのは、この曲を作曲したバンドの過去のアルバムと、別のバンドの新作を探す為だ。
 自分の活動拠点である大阪にも大きな店はあるが、残念ながら探しているアルバムがイギリスのややマイナーなインディーズだったという事もあり、行きつけの店では取り扱っていなかったのだ。
 取り寄せるにしても結構な日数が掛かるという店員の説明を受けた時、彼はそれを注文するという選択肢ではなく、東京に試合に来た時に、暇を見つけてCDを探す、という選択肢を選んだ。
 若者の名は財前光、四天宝寺中学男子テニス部の二年生レギュラーである。
 先輩達に対しても歯に衣着せぬ物言いをすることで校内でも有名な男であるが、別に彼自身は特別な事をしているという意識は無い。
 先輩、後輩の違いは基本的に生まれが早いか遅いか、というただそれだけだ。
 別に能力値で決められている訳ではない…のなら、それに必要以上に気を遣う義務など無いというのが財前の考え方だった。
 まぁ敬意を払って挨拶はしよう…しかし、不出来な先輩に頭を下げる謂われは無い。
 幸い今のところ、レギュラーの中で軽蔑する様な先輩はいないが、もし万一そういう輩が現れた場合は、自分は遠慮なく容赦なく、その者を叩き、潰し、蹴落とすつもりだ。
 そんな彼の気概を知ってか知らずか、部長を始めとする他レギュラー達は、財前の大胆で生意気とも言える発言や行動にも寛大な意志を示してくれている。
(しっかし、結局今まで大した見せ場もないまま来てもうたからなぁ…そろそろ暴れたいっちゅうのも正直なトコなんやけど…ブログで愚痴ばかり零す訳にもいかんし…)
 もし最後まで大した見せ場がないままだったら、自分がここに来た意義は、CDを探しに来たことぐらいか…
(そらあまりにもあんまりっちゅうもんやで…ああ、後は、可愛え女の子を見つけるっちゅうコトか、けどまぁ、たかだか数日の滞在でンな虫のええ話、ある訳ないよなぁ…)
 それに、別にそんなに必死こいて探すなんてつもりもないしなぁ…と呟きながら、取り敢えず財前は、第一の目的である目当てのCDを本格的に探し始めた。
(ここがジャズ、ここは…ソウル…インディーズは…あそこか)
 棚に所々突き出しているプレートの案内を読みながら、彼はそれ程に苦労もせずに目的の棚へと辿り着く。
「ああ〜、ここやここや…えーと…」
 目的のバンドの名前を見つけ、アルバムの名前を確認して、先ずは探していた内の一枚を引き出した。
 大阪では手に入らなかったものだから、これはやはり外せない。
 さて、もう一枚は新譜に近いものだから、置いている可能性は高いのだが、実はそれを買うかどうかは財前自身、まだ決めていなかった。
 友人に曲の質の高さを噂で聞いてはいたが、まだ買うと決定した訳ではない。
 CDの中の全ての曲が好みだという保証もないので、出来れば試しに聴いてみたいのだが…
「…おっ」
 棚の近くに店員手作りのメッセージカードを見つけ、それを読んだ財前がにっと笑う。
『…の新譜、只今試聴中』
(ラッキーや! じゃあそれで決めさせてもらお)
 そうと決まれば試聴、試聴…と、彼はいそいそとそれを試聴出来るフロアーを探した。
(…お、あそこか)
 少し先に行った壁に備え付けられているCDプレーヤーに、目的のCDが収納されているらしい。
 いざ出陣…とそちらへと向かった財前だったが…
「…んん?」
 よく見ると、その試聴用のプレーヤーの前に一人の人影が…
(何や、先客か…?)
 出遅れたか…と思ったが、まぁ今日は特に用事もないし、少しばかり大らかな気持ちで待ってもバチは当たるまい。
 ゆっくりとプレーヤーの前に歩いて行った若者は、その先客の姿が明らかになるにつれて、怪訝な顔をした。
(何やあれ…ウィッグじゃなくてホンマもんの髪の毛?)
 まぁ、ウィッグのおさげなんてもんは常識的にないやろうし、と考え直しながらも、彼は相変わらず微妙な表情を浮かべていた。
 あれ程に長いおさげは初めて見る…一体、何歳ぐらいから伸ばしたらあんなになるのか?
(重そうやな〜〜〜…しっかしイマドキおさげなんて、珍しいんやないか? 却って目ぇ引きそうやけど…)
 しかもあんなに長いなら尚更だ…と思っている背後の男性に気付きもせず、そのおさげの少女はずっとプレーヤーの前に立って何かのCDを熱心に聞き入っている。
 黒のヘッドフォンを大事そうに押さえ、少しもそこから動く様子はない。
 試聴用のプレーヤーには通常、入っているのは一枚のCDだけではない。
 大体は、複数枚のCDを交換出来る仕様になっており、自分が聴きたいと思ったCDに振られた番号などを選んで、試聴するのが一般的だ。
 自分の目当てのバンドは外国のインディーズだし、彼女の様な少女が聴く様なものとも思えない…となると、おそらくは他のCDを選んで聴いているのだろう。
(…ただ見とるのも暇やなぁ…ちょっと散策させてもらおか)
 しかし、下手にここから離れたら、また別の誰かに順番を取られてしまうかもしれないと思った財前は、さりげなく場所を移動して、彼女の隣の棚を見て回ることにした。
 ここ辺りは…ヒーリングやBGMの音楽が主体の様だ。
 自分も全く聴かない訳ではないが、何となく退屈なイメージがある為好き好んで来る様なフロアーではない。
(うーん…早いトコ動いてくれんかな…って、ついでにどんな顔しとるんか、見てみるか…)
 これも一種の暇潰し…相手に気付かれんように見る分には構わないだろう、と、財前はごく自然な動きで棚のCDを見遣りつつ、すぅとその視線を横の女子に向けてみた。
「……」
 その姿を視界に捉えた瞬間、財前の顔は意外なものを見た様な表情へと変わり、棚へと伸ばしていた手がぴたりと止まった。
(え…?)
 視線が、自然と相手に固定する。
 動かせない。
(ちょ……)
 それでも、財前は無理やり、一度は視線を逸らした。
 あまり長く見つめると、その気配で相手がこちらに気付いてしまう…その懸念だけが、今の男の心を支配していた。
「…っ」
 一度外した視線を、今度は最初の倍以上は集中し、気を遣い、再びこっそりと相手へと戻す。
 彼女は…まだ何も知らないで、一人、静かに音の世界に聞き入っていた。
 瞳を閉じて、外の世界を遮断して。
 刻まれる旋律に、まるで夢を見ているように微笑みながら。
 それは確かに、只の日常の世界の一風景。
 何処にでもいる少女が、何処にでもある店に立ち寄り、ただCDの音楽を聴いている姿に過ぎない。
 なのに。
 財前の目には周囲の風景など既に全てが切り取られ、彼女の姿しか見えなくなっていた。
 喧騒を逃れる為に耳につけていたイヤホンからの音楽すら、もう聴こえない。
 聴こえてはいるのだろうが、脳が聴こうとしていなかった。
(…何ちゅう顔しとるんや、この子…)
 音楽を聴くだけで、こんなに良い笑顔出来るんか…?
 見とるこっちまで、何か、胸がざわついてくる……
 只の女の子やんか。
 ただの長いおさげの子ってだけやのに、何で俺、目を離せへんのや…!

『…――――』

「っ!!」
 動揺している男の前で、その娘は瞳を閉じたまま、唇を開いた。
 何かを呟いているのか…囁いているのか…
 何をしているのかはすぐに分かった。
 彼女が聞いている音楽…その音を拾いながら口ずさんでいるのだ。
 どんな音を…いや、どんな声を…彼女は紡ぐのか…
 知りたいと思った瞬間、脳は再び聴覚を覚醒させ、自分が今流しているCDプレーヤーの音楽を拾い上げ始めたが、彼は何の躊躇いもなくイヤホンをぞんざいに外してしまった。
 違う、今聴きたいのはこの音じゃない…!!
 外しても、店の客や店内のBGMが作り出す喧騒が彼を包んだが、それでも若者は意識を集中させて少女の声を拾い上げようとした。
「…LaLa…LaLaLa……」
 微かな…本当に微かな声だった。
 例えるのなら、胸で眠る幼子に、耳元で子守唄を紡ぐ母親の様な…
 優しくて、穏やかで……少しだけ恥じらいの色も混じった、そんな声が聞こえた。
 歌の歌詞ではない…只、聴こえてきた音楽の旋律をなぞる様に。
 所々、あまりに声が小さい為に、空気を震わせるだけの音も混じっていたが、それでも財前は少女の声を耳にすることが出来た。
 へぇ…こんな声なんや、この子…
 女の子らしい、高くて、小さい……でも、何や心地ええわ…
 その音の流れを拾い上げながら、財前は彼女が聴いている音楽を想像する。
 静かなメロディーやな…やっぱBGMやろか…けど、悪くない…ホントの曲は、どんな感じなんやろ…
 少女が音を紡いだのは、ほんの数秒の間…それから彼女は再び無言になり…やがて試聴を終えたのか、ようやくその瞳が開かれた。
 ゆるりと夢から覚めたように瞳を開いた娘は、見つめている財前にはまだ気付かず、目の前のプレーヤーを眺めている。
 そして財前は、こちらに意識を向けない少女だけに、注目していた。
 閉ざされていた瞳が開かれたことによって、ようやく彼女の本当の表情が明らかになる。
(……可愛えやん)
 人の顔の印象は目で決まることが多い。
 顔の造りが同じでも、目が違えばそれだけで印象ががらりと変わる。
 そして、その娘の瞳は、財前にとって、彼女の印象をより強く決定付けるに十分な効果を持っていた。
 大きくくるんとした瞳は日本人特有の漆黒の色に染まっており、潤いに満ちた柔らかな輝きを見せていた。
 特に手を加えられていないだろう睫も長く、その印象を際立たせている。
 顔だけで、瞳だけで人の性格など分かろう筈もない…のだが、少なくとも見た目では、悪い人間ではない…だろう。
(…って、アホちゃうか、俺! 見た目で人判断したら、大体痛い目に遭うっちゅうねん!! てか、何で見ず知らずの女にここまで感情移入せなあかんのや〜〜〜!!)
 よく考えたら、そもそも自分はここに目当てのCDの試聴に来た筈!
 確かに最初に暇潰しにしようと思ったのは事実だが、その為に本来の目的を忘れたら元も子もない!
(せ、せやな…ここは心を落ち着けて、彼女が行ったらさっさと試聴を…)
 何故か深呼吸をしながら心を落ち着かせ、財前は再度外した視線をまた少女に向けた。
 相手はようやくヘッドフォンを外し、自分が聴いていたCDの飾られていたジャケットを、指で触れながらずっと見つめていたが…
「……・」
 無言のまま、少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべると、そのまま指を引き、くるんと身体の向きを変えた。
「…っ」
 変えた先に財前が立っている事に初めて気付いた少女は、は、と彼の顔を見上げ…すぐに俯いて視線を逸らす。
 その頬が見る見る内に赤く染まっていく。
 おそらく、自分が試聴し、声を出して曲を口ずさんでいた姿を見られたと思ったが故の、羞恥心によるものだったのだろう。
 その予想は確かに正しかったが、勿論財前はそんな事を明かしたりはしない。
 少女は何も言わず、軽く見知らぬ男に向けて会釈しながら通路を通り過ぎ…そのまま振り返る事なく店を立ち去ってしまった。
 そして、財前だけがその場に残され、彼は暫く少女の後姿を見つめた後で、試聴用プレーヤーの前に立つ。
 自分の目的としていたCDに振られた番号は一番…だったが、彼はそのボタンをすぐには押さず、そのまま再生ボタンを押してヘッドフォンを被った。
 彼女がつい先程まで聴いていたCDの音が、流れ込んでくる。
 綺麗な音…ヒーリングに近い音楽だ。
 民族楽器とシンセサイザーの融合した独特の音が、優しく流れるように、鼓膜を刺激してくる…
 ああ、彼女はこれを聴いていたのか…
(…あの子が歌っていた曲は…)
 あのメロディーラインは覚えている…何曲目だろう…
 財前は早送りのボタンを押して、そのメロディーを探し始めた。
 二曲目…いや、違う、こんなメロディーではない。
 三曲目…これも違うな、リズムが違いすぎる…
 次、次…とじっくりと注意深く聴きながら、何回目かのボタンを押した後…
「…あ」
 これだ…このメロディー…
(……めっちゃエエ曲やんか…)
 聴くだけで、穏やかな海に漕ぎ出した様な、そんなイメージの曲。
 流れるフレーズが繰り返し繰り返し…少しずつ大きく、力強く響いてくる。
 まるで、波の様に…
 しかし、それは強引な強さというものではなく、まるで自然の雄大さを示すような…大袈裟かもしれないが、人が神と讃える存在を表す様な、そんな曲だった。
(綺麗やなぁ、けど何となく彼女のイメージにも合う様な…何て曲やろ…)
 純粋にその曲に興味が沸いた男は、あの少女がした様に飾られたジャケットを取り上げ、裏返して曲目を確認した。
 示された曲の名前は…
「…Aphrodite」
 アフロディーテ…泡から生まれた美の女神…
「〜〜〜〜〜!!」
 かたんっ!
 何故か、物凄く気恥ずかしくなり、思わず若者は乱雑な動きでジャケットを元の場所に戻してしまった。
 たった一人で勝手に顔を紅潮させながら、彼は口元に手を当てて狼狽する。
(いや、ちゃうし! そっ、そんなに神様程に綺麗じゃなかったやろ! 人間やし!!)
 そりゃあ、確かにイメージに合うなぁとは思ったが…自分、そこまで狙っていた訳では…
(……はぁ、アカン。こらもう早いトコ精算して出た方がええな)
 いつまでもこんな所で右往左往していても埒が明かないと、財前はやや疲れた足取りでレジへと向かって行った。
 そして、数分後には、CDを入れた袋を手に提げて、自動ドアをくぐり、外の歩道へと歩き出していたのだが…
「………はっ!!」
 ふと我に返って、慌ててその買ったばかりのCDが入った袋を開けてみたら…
 あの少女が聴き、自分も試聴した例のCDが入っていた。
「うわあぁぁっ!! 何いつの間に買うてんねん俺っ!!」
 更によく見たら、試聴して買おうと思っていた本来の目的であったバンドの新譜がない。
 予算はCD二枚分だった筈、つまり…これでご破算。
 自分自身から強烈なノックアウトパンチを受けてしまった財前は、その後、ホテルの部屋へと戻った後も、外には出ずに引き篭もったままだった……



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