帝王の恋患い(中編)
同日夕方…桜乃がスパに出かけて約一時間後のこと…
「忍足―、ここボーリングもあるんだってさ。ちょっとやっていこうぜ、人数いるし盛り上がりそうだし」
「食ったばかりやのに元気やなぁ、宍戸」
「いいじゃん、折角来たんだし」
「まぁええけどなぁ、じゃ、申し込みに行かなあかんのやろ?」
「あ、俺、行って来ますよ」
その充実している設備が売りで、人気を誇るスパに、氷帝の元テニス部レギュラー達が揃って訪れていた。
都内の一画に建てられたその施設は、面積も広く様々な店が入っている。
娯楽施設は言うに及ばず、スパも数多くの種類の温泉を楽しめるということで、老若男女から幅広い支持を受けていた。
客の人数も多いのだが、施設が広いお陰かそんなに混んでいる印象も受けず、若者達も悠々とそこのフロアーを歩いていたのだが、内一人の宍戸が、彼らをボーリングへと誘ったのだった。
実は彼らは、氷帝のテニス部活動の帰り道。
今は参加は義務ではない立場だが、いつもの習慣が抜けないのと、テニスが楽しいという理由で、後輩たちと一緒に身体を動かしてきたばかりなのだった。
「跡部が来ないのは意外だったよなぁ。まぁタダのチケットくれたから懐は痛まずに済んでるけどさ」
その通り。
いつもなら同じ元レギュラー達と共に行動してイニシアティブを取るのが常の帝王が、今日はその姿を見せていない。
その為、彼に付き従っている樺地もここにいない。
忍足の相棒でもある向日が呑気に言った傍で、次に三年に進級する日吉が、相変わらず眠っている芥川を抱えながら跡部の不在について言及した。
「あの人が参加しないなんて、珍しいですね…てっきり率先して来ると思っていましたが」
「ああ…それに、何となく最近元気ないだろアイツ…何かあったのか? 忍足」
尋ねた宍戸に、忍足はさぁ〜と首を大袈裟に傾げてみせた。
「知らんなぁ…もうすぐ高校に上がったりするし、何かと忙しいんちゃうか?」
同じテニスを通じた仲間達とは言え、『実は見たこともない女性に恋をして…』などと簡単にばらせる筈もない。
そして…彼が倒れてしまったことは、尚更誰にも言う事は出来なかった。
今日の帰りがけに鳴った携帯は、跡部の家からのもので、彼の親友の中でも一番縁のあった忍足に知らせが来たのだった。
驚き、早速跡部の家に向かおうとしたところで、その電話口が賑やかになり、倒れたという跡部本人が出た。
『ちょっと眩暈がしただけだ。余計な事はみんなには一切言うんじゃねぇ…いいな』
この俺様が倒れただなんて知られたら、千年先まで笑われる、と相変わらずの俺様論だったが、本心が彼らに心配をかけさせたくないという事ぐらいすぐ分かる。
親友なのだから…だからこそ、相手を裏切る訳にもいかなかった。
話をよく聞くと、部活後に家に戻った途端倒れてしまったらしいが、早急に跡部家御用達の病院で精密検査を行い、大事はないという診断だったらしい。
とは言え、大切な御曹司を預かる屋敷の者としては、クラスメートであり親友でもある若者には連絡を入れておきたかったらしく、あの携帯への電話に繋がった訳だ。
「ま、生徒会長はそれなりにお付き合いも色々あるんやろ。卒業しても引継ぎとかは色々と忙しいやろうからなぁ」
上手く誤魔化したところで、今度は向日が忍足に質問した。
「侑士もさぁ、今日は部活に来なかったじゃん。何してたんだよ放課後にすぐにいなくなって。俺、相手探すの大変だったんだからなー」
そんな彼がどうして今は他の部員達と一緒にいるのかと言うと、跡部家からの連絡を受け、それを切ったすぐ後に、今度は向日から部活後全員でスパに行こうという誘いがあったのだ。
本当は今の気分では行きたいとも思えなかったのだが、跡部から『とにかく、何事もなかったように振舞え、勘付かせるな』とも言われていたので、仕方なく同席する運びとなったのだ。
「やからすまんかったって…今もちゃんとお詫びに付き合うとるやん」
立海に足を伸ばしていたと言えば、勿論その理由についても語らなければならず、それを誤魔化したとしても後々面倒なことになりかねない。
曲者はそこでも本来の目的については語る事無く、なぁなぁで済ませていた。
「忍足も跡部も最近ヘンだぞー」
流石に長年付き合っている相棒は鋭い。
更に深く突っ込まれそうになり、内心どうしたものかと悩んでいた若者だったが…
「場所、取ってきましたよ。十七レーンだそうです」
絶妙のタイミングで、ボーリングの申し込みをしてきた鳳が戻って来て、向日の興味は途端にそちらへと向いた。
「おっ、でかした!」
(ホンマにでかした!)
助かったーと思いつつ、忍足は移動を始めた彼らの群れから一時離れる。
「どうしたんですか?」
「ん、ちょっとそこで飲み物買うていくわ、先行っとって? 十七やんな? すぐに追い付くから始めとってええよ」
「そっか」
「大丈夫ですよ、まだ靴とかも借りないといけませんし。急がなくてもいいですから」
「おおきに」
鳳のフォローも入り、忍足は彼らがボーリングの施設内に入った一方で、近くの壁際にずらりと並んでいた自動販売機の前をうろうろと歩き回った。
「んー……どれがええかなぁ」
こっちのメーカーにしようか、いや、こっちの方のも珍しいし試したい物が…と暫く悩んでいたが、ようやく今回のターゲットを決定する。
決めたところでごそっとポケットを探り、硬貨を取り出そうとしたところで…
「…あ」
ちゃりーん……
うっかりして、百円硬貨を床に落としてしまう。
それは硬質の床に落ちて音をたてながら自分から離れていき、若者がゆっくりとそれを追い掛ける。
目でそれを捉えながら、向こうのスピードが落ちたところで拾おうと思っていると、丁度そこに誰かが歩いてきて、硬貨と相手の足がぶつかった。
「あ」
「あら」
現場を忍足が確認している間に、向こうも自分の足にそれがぶつかった事に気付いて、一足早く硬貨を拾い上げた。
「…お金、落とされましたよ」
「ああ、おおき…」
礼を言いながらそれを受け取ろうと手を伸ばした忍足が、相手の顔を見た瞬間、微かに身体を揺らした。
(うわっ…!)
思わず心の中で声を上げる。
女性なのは声ですぐに察しがついていたが、その姿に彼は思わず目を留めてしまった。
相手は入浴後の女性で、腰の下まである長い髪をしっとりと湿らせている。
上がってからそんなに時間が経過していないのか、つるんと滑らかな肌がほんのりと桜色に染まって非常に色っぽい。
瞳はくるんと大きく、日本人らしい深い彩のそれがこちらを真っ直ぐに見つめていた。
(かっわええなぁ…同じ中学生やろか…)
そんな事をぼんやりと考えていた彼の前で、相手の顔を見たその少女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ……そして、懐っこい笑顔を浮かべた。
「まぁ…忍足さん」
「は!?」
何で、自分の名前を呼んだんだ、この子…っ!?
もしかして、俺のファン…!?
忍足は氷帝の中でも跡部に勝るとも劣らない女子からの人気を誇っている。
彼自身、まだ特定の恋人は持ったことはないが、自分がそういう人気者であるという自覚はあり、それ故に最初はそんな疑問を抱いたのである。
しかし、その可能性はすぐに彼自身によって否定された。
(いや…そんな筈はない…こんなに可愛え子なら、覚えとるはずや…それに、氷帝の中でもこんな子見たことないで…)
思考の時間はそんなに長いものではなかったのだが、百円硬貨を受け取るまでには十分過ぎる程の時間である。
相変わらずぼーっとしている様子の忍足に、その娘は小首を傾げて再度声を掛けた。
「あの、忍足さん? どうかしましたか?」
「あ、いや、そのっ……ええと…君…」
何とか言葉を繋ぎつつ、誤魔化しつつ、忍足は必死に相手が誰なのか思い出そうと試みた。
見たことあるような無いような…このデジャヴは…?
「き、奇遇やなぁ…こんな所で」
「そうですね、またお会いするなんて」
当たり障りの無い言葉を選びながら、忍足は少女の素性について何とか思い出せないかと必死に脳を活性化させる。
向こうは、忍足がもう自分を認識してくれているものと思っているらしく、改めて名乗るような様子も無いまま、硬貨を忍足の掌へと乗せた。
「え、ええと……」
さてどうしよう…と考えあぐねていた時だった。
『竜崎さーん!』
「あ…はぁい?」
「っ!?」
何処かから別の女子の声が聞こえると、その少女が返事をした。
竜崎…竜崎…竜崎!?
(なに〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!)
天を突き破らんばかりに驚いた若者だったが、まじまじと相手の姿を見て、そこでようやく確認するに至った。
そうだ…彼女だ…!
あのおさげ姿じゃないから全然…本当にぜんっぜん分からなかった!!
(ウソやああああっ!! この子、こんなに派手な子やったん!?)
普段がクイーンオブ地味!だったから、本当に思考の欠片にも浮かばなかった!!
あかん、こらもう氷帝一のフェミニストの名を返上せなならん…!と真剣に考えている間に、フロアの向こうから今度こそ見慣れない女子が複数人歩いてきた。
どうやら彼女と一緒に来ていた友人達の様だ。
「飲み物買ったー?」
「え…ちょ、あれってもしかして、忍足さん!?」
「そうよ、氷帝の忍足さんだわ!」
どうやら忍足の人気ぶりは氷帝だけに留まるものではない様で、彼は早速、桜乃と一緒にここに来ていた立海の女子達に囲まれてしまった。
「きゃー! 格好良い〜」
「今日はお一人でいらしたんですか!?」
「ちょっと竜崎さん、ずるいわよ〜? 忍足さんを独り占めしようだなんて」
みんながきゃいきゃいと騒いでいる中、桜乃はすっぽりとその騒動の中から抜けて、ぽえ〜っと彼のもてっぷりを観察していた。
「う、ううん、独り占めはしてないんだけど…」
何とかそれだけを断り、はぁーと溜息をつきながら相手を見上げる。
「凄いモテモテですねぇ…流石、忍足さん」
「いやあの…助けてくれへんの?」
「嫌なんですか?」
「いや、嫌っちゅうわけやないけど……困ったなぁ」
「うふふ…」
くすくすと笑みを零す桜乃の姿は、再び忍足を混沌の海へと突き落とす。
(か…わええやん…こんなにこの子が可愛えやなんて、誰も知らんのとちゃう…ん…?)
何か…何かに気がつきそうだ…
この事実を…自分はずっと探していた様な……
「……あああっ!!」
跡部の会った女性…まさか、まさか〜〜!!
周囲の女子達の驚きにも構わず、忍足は大声を上げて桜乃へとずんずんと近づき、がしっと腕を掴んだ。
「お嬢ちゃん!?」
「は、はい…っ?」
「もしかして、今の格好で、跡部に会うたことはないか!? あの花見の日に!!」
おそらく…いや、間違いなく彼女が答えだ…!
跡部はあの日、確かに謎の女性と会っていた…夢でも幻でもない、現実に存在する女性と…!!
「お花見…うーん…」
忍足に問われ、桜乃は困った顔をしながらも必死に記憶を探って答えてくれた。
「私は、おさげを解いた記憶はありませんから…でも、お酒を飲んで眠ってしまった時の事は覚えてないんです」
「……そうか」
彼女の言う事は信用できる…そもそもウソをつくような子じゃない。
もしウソをついている人間がいるとしたら、そいつは…そいつらは……・
「……」
暫く無言になった彼は、いきなりにこ、と笑って桜乃に言った。
「いや、すまんかったな、驚かして…あんまりおさげじゃないお嬢ちゃんが見違えて見えたから」
「はぁ…そんなに違いますか」
本人が一番分かっていない…と思いつつ、彼はそこで携帯を取り出した。
「なぁ、折角ここで会えたことやし、ちょっと記念写真撮らしてもろてもええかな…そこのお友達の美人さん達も一緒に」
色男から美人さんと言われ、きゃ〜〜〜っと騒ぐ友人達を引き合いに出されては、桜乃も断るに断れない。
まぁ、自分一人ではなく、集合写真の様な感じなら、そんなに恥ずかしくもないし…
「い、いいですよ?」
「じゃ、ちょっと並んでや」
そして彼は、携帯に決定的な証拠を収め、そして彼女たちと別れた。
(……もう一度、確認する必要がありそうやな…)
今度は逃がさへんで…いよいよこっちものんびり出来んことになってきたんやから…
$F<Field編トップへ
$F=サイトトップヘ
$F>続きへ