比嘉の面々の一部悪意のある心遣いのお陰で、桜乃は午後に休んでいたこともあり、夕方にはほぼ完全復活を果たしていた。
「お、竜崎、大丈夫か?」
「あ、切原さん。ご心配をお掛けしました〜」
夕食後、皆が落ち着いてくつろぐ至福の時間、桜乃は丁度入浴を済ませた後で知己である立海の二年生から声を掛けられていた。
「ま、風呂に入れるって事は大丈夫なんだろうけどさ…あまり無茶すんなよ、ウチの先輩達も随分心配してたんだぜ」
「まぁ…ダメですねぇ、やっぱりもう少し体力つけなきゃ…」
はぁ…と溜息をついて反省しきりの桜乃の様子を見て、相手の若者は心に冷や汗を流す。
(……そういう意味での心配じゃないってのは、言わない方が良さそうだなこりゃ)
あの沖縄の三白眼が桜乃を抱えて廊下を闊歩しているのを見た時には、ちょっとした騒ぎが辺りに生じ、まさか二人が良い仲なのではっ!?と疑惑が飛び捲っていたのだが…見たところそんな色っぽい話は皆無の様だ。
「とにかく、身体は大事にな」
「はい…あ、そうだ切原さん」
「ん?」
「ええと、どなたか、ドライヤーを使ってらっしゃる方、お見かけしませんでした? いつもの置き場所にないので、誰かが先に使っていると思うんですけど…」
「ドライヤー? うーん…誰かいたっけなぁ…」
予想外の質問を受けて、若者は首を傾げて考える。
「俺達野郎は大体短髪だからさ、そうそう使ったりしないんだよなー。ウチだったらせいぜい仁王先輩ぐらいだと思うけど、さっき見かけた時は別に…他の学校の奴らじゃね?」
「ですか…じゃあ、伊武さんとかかしら」
取り敢えず、自室に戻っている組以外の人間が集まるリビングに行って、ドライヤーを探してみようと、桜乃はそこへ足を向けた。
流石、設備が充実している合宿所だけあって、備品もかなり気合が入っている。
合宿所そのものがかなり広い造りなので、当然リビングも相応の人数を収容出来る面積を備えており、そこにはゆったりとくつろげるソファーや大画面液晶テレビなど、贅沢とも言える調度品が揃えられていた。
贅沢を推奨する訳ではないのだろうが、休むべき時は相応の環境で休ませる、というスタンスなのだろう。
「…あ!」
見つけた!
幸い、ドライヤーを使っている人物はすぐに見つける事が出来、しかもその相手は桜乃にとっても馴染み深い人物だった。
「知念さんだったんですか、ドライヤー使ってたの」
「ん…?」
ごーっと勢い良く吹き出してくる温風を髪に当てながらそれを乾かしていたのは、比嘉の若者だった。
いつも後ろで括っている髪が、今は解かれて風に煽られている。
(わー、何だかいつもと全然印象が違うなぁ)
普段も格好いいけど、今の髪を流した姿もなかなか…と思っていると、こちらをじーっと見つめてくる相手とまともに視線が合った。
「え…えーと…すみません。もし終わったら、次、貸して頂けますか?」
「………」
ごーっと音をたて続けているドライヤーを少し頭から離して少女の声を聞いた知念は、こっくりと頷きながら、スイッチを切った。
既に殆ど乾いていた彼の髪が風を失って素直に重力に従い、下へと流れる。
「あ、別に急がなくても…」
そう断ろうとした桜乃の前で、知念がぽん、と自分の座っていたソファーの前部を叩いた。
丁度、両足を開いた格好で出来ていた、その狭間の空間を。
「?」
なに?と首を傾げ見る桜乃に、相手は繰り返すようにぽんぽんと自分の両足の間のソファーを叩き、加えて自分が持っていたドライヤーを軽く掲げて桜乃を見た。
そこに見える、一つの催促。
(え……もしかして…)
まさか、とは思うけど…やっぱり、そういう意味でしか取れないんだけど…
(い、いいのかな……でも、折角だし…断るのも申し訳ないし…)
暫し、彼の前でゆらゆらと身体を揺らしていた桜乃だったが、意を決して、傍に近寄り…
ちょん…
と、知念の前に背を向ける形で座った。
周囲の男達が何だ?と注目を始める中で、知念が再びドライヤーのスイッチを入れ…そしてもう片方の手を桜乃のしっとりと湿った髪の中に差し入れる。
スイッチが入れられ、ごーっと再び煩い音が響く中で、若者の手が手櫛で桜乃の髪を梳きながら、それを乾かし始めていた。
『!!!!!』
恋人同士でもなかなか見る事が出来ない密接なスキンシップに周囲の空気が一気に凍る。
よく見たらほのぼのだ、確かにほのぼのな筈…なんだが……見ているこちらが逆に落ち着かなくなってくるのは何故なのか…!
そんな一種の異世界になってしまったリビングに遅れる形で入浴を済ませてきた立海メンバーと比嘉の面子が揃って歩いてきた。
「本当におさげちゃんに手ぇ出してないんだろうなー」
「しつこいやっし、何度も同じ事言わすな」
ぶつぶつと丸井と平古場が言い合っている中で、その集団がほぼ同時にリビングの方の異様な空気を感じ取る。
「んー? 何やってるんさ」
「何かあったのかな…?」
甲斐と幸村がごく普通の反応を示しつつ、全員揃っていよいよその場に来てみると、例の二人の密着ドライヤーシーンに見事に遭遇。
『…………』
五秒か十秒か…
詳しくは分からないが、とにかく暫くの沈黙が彼らを支配した。
きっとその時間の中で、目の前の光景が何なのかを大脳が必死に整理しようとしていたのだろう。
そして大脳がほぼ間違いない、と決定を下した瞬間、
「なんっだよアレは〜〜〜〜〜〜っ!!」
「わったーに訊くな〜〜〜〜〜〜っ!」
「俺が訊きたいくらいさーっ!!」
涙目で迫ってきた丸井に、甲斐と平古場が必死に言い返すが、流石に自分達でも予想外の展開。
「……穏便に済ませる為にも聞いておきたいんだけど、アレは沖縄のどこかの奇習かな?」
冷静を保って尋ねているつもりなのだろうが、幸村の声が明らかにトーンが落ちている。
対しそれに応じる木手の一言は、憎らしい程に落ち着いていた。
「ウチナンチューを何処ぞの謎の部族みたいに言わないで下さい」
と言う事は…そういうワケではないんだな。
「とっ…兎に角、アレは流石に止めさせた方が宜しいのでは…?」
どちらもそういう面に関しては超鈍感な二人だから、周囲の視線も気にせずに行為に没頭しており見ていて色々な意味で危なっかしい…
紳士がかろうじてそう忠告して、詐欺師もそれに同調した。
「じゃの…ちょっと目を引き過ぎじゃよ」
「あ、真田が…」
堅物な若者には刺激が強すぎたのか、我慢の限界だったのか…つかつかつかっと彼が知念の方へと歩み寄り、座っている彼を上から睨みつける形で声を掛けた。
「…何をふしだらな事をやっとるんだ、お前は。そのぐらいなら竜崎一人で出来ることだろうが」
「あ、真田さん。今晩は」
今のは勿論知念に向けての台詞だったのだが、桜乃は真田の怒りには全く気付いていない様子である。
喜ぶべきことなのか、懸念すべきことなのか…微妙である。
「竜崎もだ。あまりそういう事で他人の手を借りるのはどうかと思うぞ」
流石に男性とそういう事を…とあからさまに指摘する事は憚られたのか、真田は多少口を濁す形で桜乃にも苦言を呈し、それを少女はそのまま素直に受け取った。
「すみませ〜ん、人にしてもらうって凄く気持ち良いから、つい…」
「む…」
てへ、と恥ずかしそうに笑いはするが、そこに男女の仲に気付かれたが故の羞恥心は一切ない。
どうやら、本当にいかがわしい事はないようだ…と真田が判断してほっと胸を撫で下ろしていたところに、知念が断ってきた。
「…いつもやっているから慣れている」
「なにぃ!?」
いつもこんな事をしているのか!?と再び真田が声を荒げたところで、知念の説明が続いた。
「…妹の」
「あ、ああ…」
何だ、身内か…それなら…と安心しようとしたところで更に言葉は続いた。
「…人形で」
「……」
妹の人形?
それを毎日弄っている?
中学三年生の男子が?
「……」
最早、自分の常識内では理解不可能であり、真田はふらっとよろめきながら仲間達の処へと戻って行った。
「分からん……奴そのものがおかしいのか、奴の竜崎に対する態度がおかしいのかが分からん…」
「何か、がっぷり四つに組むだけ損だって話じゃないスかこれ」
ふらふらとよろめいている副部長の後ろから、あ〜あ、と切原がそれを不安げに見守っている。
「正直、テニススタイルよりあの男個人の生態が非常に興味深いのだが」
何者なんだ?と興味も露に視線で問うてきた参謀に、殺し屋はすっぱりと断言した。
「ヒト科です」
「すげー誤解受けてたな〜、俺ら」
「ま、永四郎の狙い通りって言ったらそうなんだろうけどな」
あれからまた色々と比嘉と立海で言葉の応酬はあったものの、元から不可解な行動や発言が目立つ人物に関わる事だったので、実のある話だったかと言うとそうでもなく…
それが終わったのも、彼ら双方が納得したという形ではなく、もう一人の中心人物である桜乃が、『そろそろ寝ます』と発言したからであった。
「立海の皆さん、比嘉に物凄く興味があるみたいですねー。あんなに熱心に話し掛けられることなんてそうないんですよ?」
(言い辛ぇー…)
本当はお前のコトが心配だったんだ、と真実を明かすに明かせず、甲斐と平古場は押し黙る。
「魚食った方がいいんじゃないか。あんなピリピリして」
田仁志が先程までの会話を見て素直な感想を述べるも、やはりそこにはしっかりと食料が絡んでいる。
「それなりに作戦としては効果はあった様で」
「はい?」
「いえ、こちらの話です」
その作戦に大いに貢献してくれた桜乃の問いかけを上手くかわしたところで、木手は自分達の歩いている廊下の先へと視線を遣った。
ここから真っ直ぐ行くと自分達の割り当てられた部屋に到着するが、桜乃はここから右に曲がった棟に部屋がある。
男子と女子、そのぐらいの隔離は当然為されている訳で、彼らは桜乃とはここで別れることになるのだ。
「では、お休みなさい…ん?」
別れようとしたところで、木手は知念が桜乃と一緒に右の廊下に足を踏み出すのを確認した。
「送る」
「そうですか、では私達は先に行ってますよ」
「…」
こくっと頷いて、知念は桜乃と一緒に彼女の部屋に向かって行った。
「すみません、知念さん、お気遣い頂いて…」
「…いや」
「?」
何となくいつもと違う相手の反応に、桜乃はすぐに気付いた。
普段が無口な分、彼女は彼の視線や表情、纏う雰囲気で相手の事を察する事がある程度は出来るようになっていた。
(どうしたんだろう、何か言いたそうな感じ…)
さっきまで立海の部員の皆さんとお話していた事かな…と考えを巡らせながらも、桜乃はその時は特に話を振る事はなく、それからも静かに歩き続けて何事もなく部屋へと到着した。
「有難うございました、知念さん…あのう」
「……」
さわ…
桜乃が知念に問い掛けようとした時、彼の指がすっかり乾いた少女の髪へと差し入れられ、彼女は少し驚いて相手を見上げた。
いつもと変わらない優しい色をした目の若者がこちらを見下ろしている…右手を自分の髪に差し入れたまま、真っ直ぐに。
そう言えば、あの時は立海の皆さんも入ってちょっと賑やかになってたから、ちゃんとしたお礼は言えてなかったかも…と桜乃は改めてその場で彼に微笑みかけながら礼を述べた。
「あ、髪、凄く気持ちよかったですよ。お陰ですっかり乾いて…」
「…わんぬうむやーになれ」
「はい?」
お礼の言葉を何かよく理解出来ない沖縄語で遮られ、無意識に桜乃が顔を上げると、その額に優しく知念が唇を触れさせていた。
(え…)
気付いた時にはもう唇は離されていたが、それはそのままふっと少女の鼻の頭を微かに掠っていった。
「…ち、ねんさん?」
これは…別に沖縄独特の行為じゃないよね…?
混乱する桜乃を、知念がぎゅっと抱き締め、再び小さく囁く。
「…寛」
「!」
自分の名前…それだけを言うと、知念は静かに相手の身体を離し、そのまま背を向けて立ち去っていった。
いつもの寡黙な彼らしく…挨拶はなしで。
「………」
暫く…それこそ彼の姿が見えなくなった後も随分と長い間、その場に留まっていた桜乃は、ようやくのろのろと動いて部屋のドアを開け、中に入った。
これは…やっぱりそういう事なのかしら……
自分が混乱していることを認識しながら、桜乃は真っ赤になってしまった頬の火照りを消す方法も分からず、部屋の中をうろうろと動き回る。
(た、多分そうなんだよね…でも、ああ、これって…多分…)
暫く無意味な歩行運動を続けている内に、徐々に思考も落ち着いてきて、桜乃はそこで知念の言っていた言葉でまだ理解していないものがある事を思い出した。
幸い、言葉は耳に残っている。
『わんぬうむやーになれ』
「え、ええと…うむやーって…?」
『わん』っていうのが『自分』という沖縄語だというのは分かるけど…やっぱり聞きなれていない単語についてはまだまだ理解不能…
桜乃は部屋に据付けられていたPCを立ち上げて、その単語について検索を掛けてみた。
文字を打ち込んで…そしてリターンを押す。
ものの数秒で、その文明の利器は彼女の疑問に対して答えを表示した。
『愛しい人 恋人』
「!!!」
ビンゴ。
つまり、そういう事だったのだ。
あの最後の瞬間、自分の名前を告げたのは…恋人として、これからはそう呼んでほしいという彼なりの要求だったのだ。
(きゃ〜〜〜〜〜!)
更なる追加効果をもたらした若者の爆弾発言に、桜乃はあたふたとベッドの中に潜り込んで、それからも暫くもこもこと悶えていた。
(ど、ど、ど…どうしよ〜〜……これって、これって…嬉しい、けど…)
どうやら彼女の心は既に決まっているらしいが、そこでも一つの問題が残っていた。
(…お、沖縄語で返事をした方がいいのかな…?)
どうしよう、どうしよう、と乙女が真面目に悩んでいる間にも平和な夜は更けていくのであった…
了
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