生意気兄貴と風邪っぴき
「…ん」
ふと、越前リョーマは薄暗がりの中で目を覚ました。
ここは自分の部屋…の自分のベッド。
いつもと同じく、昨日、宿題を終わらせてそのまま、部活の疲れも手伝って眠りに落ちた彼は、うっすらと目を開けて夜が明けて間もない時分であると察した。
(…あれ?)
何でこんなに朝早く目が覚めたんだろう…それとも、外が雨とかで日光が少ないとか?
いつもはどちらかと言うと寝坊する事が多い自身の珍しい事象に、リョーマは不思議に思いつつもぞりと枕元の目覚まし時計を取り上げた。
(何だ…まだ六時ぐらい…)
二度寝出来るな…と思いつつ、目覚まし時計を元に戻し、再び掛け布団を引き上げて眠ろうとしたところで、彼はある変化に気がついた。
「…カルピン?」
いつもなら、自分の布団の上や中に潜り込んで一緒に寝ている筈の愛猫が、いつの間にかベッドから姿を消している…と思っていると、
かりかりかり…っ
いた…カルピンだ。
ベッドから降りて、部屋のドアの前で座り込み、ドアを前脚で引っ掻いている。
「? どうしたの、カルピン」
トイレなら自室の中にあるから、何か他に気になることでもあるのだろうか…
そう思いつつもまだ完全に眠気を振り払えていないリョーマは、ベッドから起きようかそのまま寝ておこうか迷っていたが、今度はドアの向こうの廊下から忙しない足音と声が聞こえてきた。
『少しは落ち着いたみたい…』
『そうか…けど流石に今日は学校は無理だな。病院に連れて行って、一日休ませよう』
『そうね』
「…!」
ドア越しでも分かる両親の会話の内容を聞いて、リョーマはは、と緊迫した表情になるとそのままむくりと起き上がった。
今の話、もしかして…カルピンも何かを感じ取ったのか…
寝起きがあまり良くない少年が、珍しくいつもよりはっきりとした頭でベッドを降り、そのまま着替えずに廊下へと出ると、丁度居間へと急いでいる父親の背中が見えた。
「オヤジ?」
「ん?…っとと、リョーマか」
呼ばれ、振り向いた父親の南次郎は、普段なら息子をからかうところが、今日は大真面目な顔で相手に言った。
「桜乃が熱出した。学校は休ませるから、お前、先生に言っといてくれ。後、夕方は俺もちょっと留守にしなきゃならんから、桜乃の様子を見といてやってくれ」
「どうしたの?」
普段は反目し合っている親子も、身内の危機に際したら流石にそれもどうでも良くなるらしく、以後も真面目な会話は続いた。
「明け方に急に身体が辛くなったらしくてな…熱が凄いし、何度も吐いてる。あ、お前は暫く近づくなよ。下手に感染したらマズイぞ」
会話の最中に、南次郎は何度も居間がある方へと視線を向ける。
おそらく桜乃はそこにあるソファーで横になっているのだろう、自室にいないのは、居間の方が手洗いに近いということもあるからか。
「……」
桜乃は越前リョーマの妹である。
二卵性双生児である彼らは生まれた時からずっと一緒で、たまに喧嘩はやりつつも、普段は仲の良い兄妹なのだ。
尤も、兄のリョーマは極めて勝気で小生意気な性格なので桜乃に対しても何かとつれない態度を取る事も多いのだが、そこは流石に血を分けた妹だけあり、「はいはい」と軽く流しながら上手く付き合ってくれる。
多くを言葉で語らなくても理解してくれる妹の存在は、リョーマの中では決して小さいものではなかった。
そんな出来た妹の桜乃だが、唯一残念な事に、彼女は兄と比べて非常に身体が弱かった。
小さい頃からリョーマが父からラケットを握らされていたのとは対照的に、桜乃はスポーツの類は殆ど積極的にやった事はなかったのも、それが大きな理由だったのだ。
住まいが米国から日本に移ってもそれで体質が大きく改善する訳もなく、相変わらず桜乃はか弱いままだったが、今日の様な騒動が生じているのを見たのはリョーマも久し振りだった。
日本に移住して、学校に行き出して、少し経過したところで気が緩んだ隙を突かれてしまったのだろうか…?
「…桜乃?」
近づくな、と言われはしたが、気にならない筈もなく、リョーマはそのまま居間へと向かい、ソファーの場所まで歩いてゆく。
やはり思った通り、彼女はパジャマ姿のままソファーで横になっており、その身体の上にタオルケットが掛けられていた。
眠ってはいないだろうが、辛いのか、瞳は閉じられたままだ。
元々色白だったが今日の肌の色は熱の所為でかとても赤く見える…しかし血色がいいとかそういう意味での色合いではないことは分かった。
「ほあら〜…」
ソファーの下で鳴いたカルピンが、てしっと前脚をかけて伸び上がり、桜乃の方を覗き込むと、鳴き声を聞いた少女がゆるゆるとその瞳を開いた。
「……カルピン…」
消え入りそうな声で呼びかけ、細い腕を下ろして猫の頭を撫でてやった桜乃は、そのまま声と共に消えてしまいそうな儚さだった。
昨日までは自分とカルピンの軽い取り合いをして遊んでいたのに…と思いつつ、リョーマが桜乃に声を掛ける。
「桜乃、大丈夫?」
「リョーマ…うん、大丈夫だよ」
「……」
大丈夫って顔じゃないだろ、と思いながらもリョーマはそれ以上は突っ込まない。
いつもそうだ。
本当は大丈夫じゃないのに、辛いのに、家族に心配させまいとそんな強がりを言う。
今だって、辛くて泣いただろう涙の跡が、しっかりと頬に残っているのに。
「…兎に角、今日は学校休みだね。先生には俺が言っとくけど、何か伝言とかある?」
「……あ」
「なに?」
「私の鞄の中に宿題のプリント入ってるから…それ、提出してくれる?」
「分かった」
幸い二人は同じクラスの生徒でもあるので、そういう伝達はスムーズに行える。
そうしている内に、二人の母親がその場に来て、先ずはリョーマに声をかけた。
「リョーマ、悪いけど今日の食事は何処かで買って頂戴。これお金ね。お母さんはこれから、桜乃を病院に連れていかなきゃいけないから」
「うん」
流石にこういう事態だと、弁当など作っている余裕はないだろう。
リョーマは素直に母親が差し出した札を受け取ったが、そこに桜乃の弱弱しい声が割り入ってきた。
「病院いや…」
「何を言ってるの、水も飲めない状態なのに…」
「やだ、行きたくない…」
病弱の妹にとっては病院は馴染みのある場所ではあるが、それとその場が好きになるというのは全くの別問題だ。
寧ろ馴染み深くなった所為ですっかり病院嫌いになった桜乃は、それからも病院に行く事を散々渋っていたが、見ていたリョーマが仕方なく口を挟んだ。
「桜乃、行かなきゃダメだよ。凄く顔色悪い」
「でも…」
兄の言葉には多少難色を示しながらも素直に耳を傾けた桜乃に、リョーマはひょいっとソファー下にいたカルピンを抱えて相手に抱かせてやった。
「ほら、今日はカルピン貸してやるから」
「う〜…」
いつもは愛猫の所有権を絶対に譲らない兄が珍しくカルピンを妹に渡すと、病院に出かける準備が整ったらしい母親の邪魔をしないように、リョーマは居間から離れて自室へと足を向けた。
何だかんだとあってそれなりに時間が経過してしまったから、そろそろ学校に行く準備をしなければ…しかし幸い今日は朝練には遅刻しないで済みそうだ。
部屋に戻り制服に着替えると、彼は一度桜乃の部屋へと入って行った。
自分の部屋とは明らかに異なるインテリアは、流石に女の子らしい暖色系の色でまとめられており、すっきりと整頓されている部屋は見た目にも心地良い。
そこの机の上に置かれていた妹の鞄を開けて、リョーマは頼まれていた宿題のプリントを抜き出すと、そのまま自分の鞄の中へと放り込んだ。
「これで良し…と…後は…」
そして桜乃の部屋から出た後は洗面所で身嗜みを整え、リョーマは登校するべく玄関に向かった。
「じゃ、行ってきます」
靴を履いて挨拶をしたところで、居間からとたた〜っとカルピンが走ってくる。
「ほあら」
「…ダメだってカルピン」
しょうがないなとリョーマは相手の身体を抱え、方向転換させると、居間へ戻るように軽く押し出した。
「今日は俺の代わりに、お前が桜乃見てなきゃ…ちゃんと傍にいてやってよ」
そうじゃなきゃ、アイツ寂しがるだろ、とさり気なくシスコン精神を垣間見せると、少年はカルピンが居間に戻ったことを確認して学校へと向かって行った。
青学 男子テニス部部室内…
「おりょ? リョーマ、今頃朝メシか?」
「? なんだ、桃先輩か」
「…相変わらず先輩に対して尊敬するって気持ちがねぇな。どうせ桜乃ちゃんと喧嘩でもして、食事作ってもらえなかったんだろ」
部活が始まる前、何処かのコンビニで買ってきたのだろう惣菜パンをむしゃむしゃと食べていたリョーマに、二年生の桃城が声を掛けたが、向こうはいつになく無表情で反応も薄い。
「……喧嘩だったら別にいいんスけどね」
「…何だよ、何かあったか?」
「…桜乃が倒れて病院行きになっちゃった」
「!!」
ざわっ…
桃城だけではなく、その場で二人の会話を耳にしていたレギュラー達が一斉にリョーマに注目した。
「桜乃ちゃんが?」
「…大丈夫なのか?」
大石と海堂が心配そうに尋ね、リョーマは朝分の食事を全て食べ終わったところで首を傾げた。
「多分…いつもみたいにちょっと身体壊した感じッスね」
「いつもって…桜乃ちゃん、何か病気持ってんの!?」
初耳!とばかりに菊丸も後輩に迫ったが、向こうはそれについてはすぐに首を横に振った。
「病気じゃなくて…ちょっと身体が弱いってだけ。今回のも多分、風邪とかひいて調子崩した感じだから、休んだら治るんじゃないッスか?」
「そうか…身体が弱いというのは今後の学校生活にも色々と支障が生じるだろう。良ければ俺が特製ドリンクを作って…」
「ノーサンキューっす!」
乾の申し出に、リョーマは青くなりながら即座に断りを入れた。
向こうはあくまでも好意での申し出であって、危害を加えるつもりは毛頭ないのだろう、それは十分に分かっている。
しかしそれでも世の中、受け入れられるものと受け入れられないものがあるのだ。
「桜乃は小食だし、薬みたいな味の物も大嫌いだから、先輩のドリンクは合わないっすよ」
「そうか、残念だ…彼女がウチの部員だったら、もう少し強制力もあったんだが」
(ああ良かったなぁー!! 彼女が女で、あんな飲み物飲まされて死なずに済んでほんっと良かった!!)
レギュラーの一部達の心からの叫びが無音で教室にこだまする中で、物腰柔らかな若者・三年生の不二がくすりと小さく笑った。
「アレは、僕はいけると思うけど、どうやら人を選ぶからね…でも風邪なら汗をかくのもいいよ。僕が何か作って差し入れようか? 辛い料理は割と得意なんだ」
(即死攻撃第二弾っ!!)
柔和な顔で、無自覚で怖い事をさらりと言った若者に、更に周囲のレギュラーが恐れ慄く。
「…アイツ虚弱なんで、不二先輩レベルの刺激物食べたら胃から血が出るッス」
「うーん……そうか、普通の人と同じ様に考えたらいけないね、確かに」
(フツーの人でも十分ツライ苦行だと思います!)
後輩の当たり障りない断りも、無言の周囲の叫びも、友情の表れと言えばそうだろう。
何とか妹を一部の先輩達の魔の手から全力で守り切ったリョーマは、トレードマークの白の帽子をすぽんと被り、朝練に備えたが、そんな少年に、これまでのメンバーのやり取りを見ていた部長の手塚が声を掛けた。
「病院に連れていくことがはっきりしているなら、取り敢えずは安心だな。大事にするように伝えてくれ」
「ウイッス」
「午後の部活は参加しても大丈夫なのか? 御家族が家にいらっしゃるなら問題ないだろうが…」
「一応、昼に親に連絡とって、それから決めるッス。向こうがもし仕事抜けられそうになかったら、今日だけ休んでも構わないッスか?」
「無論だ。予定が決まれば俺でも大石でも構わない、教えてくれ」
「了解ッス」
二人の会話が終わると、再び桃城がリョーマに絡み出した。
「何だよ何だよ、大事な妹ちゃんが苦しんでんだから、もっと心配そうな顔したらどうよリョーマ」
「べーつに、タダの風邪でしょ」
普段の相手の様子から間違いなく彼がシスコンだと気付いているらしい桃城が茶化したが、あくまで後輩はクールな対応に徹している。
一方では、リョーマが離れていったところで、不二がさり気なく手塚に近づいてこそりと声を掛けていた。
「良かったの?」
「ん?」
「ああいう場合は、彼の部活への参加の確認より、『見舞いに行こうか』ぐらい言わないと」
「…? 何故だ? 越前がいるならそれで問題はない」
「……」
「?」
困惑の表情を浮かべた不二に、その理由が分からず手塚も微かに首を傾げたが、向こうが先に諦めたらしくくるりと背を向けた。
(越前じゃないけど、まだまだだね、手塚も)
きっと今までガチガチに固い人生を送ってきたから、その手の感情にも気付けずにいるんだろうな…結構、損してると思うけど。
親友の、本人も知らない真実に気付いているらしい天才はそこは無言に留め、改めてあの一年生ルーキーに注目した。
問題の少年は、今度は桃城の絡みから外れると、寿司職人の息子である河村へと近づき、何やらこそこそと話しこんでいた。
『…なんスけど』
『あ、それなら簡単だよ。えーとダシの材料はこれで…玉子と三つ葉と鶏肉は…』
(あの子はあの子で本当にもう…)
間違いなく、家で臥せっている妹の為に鶏雑炊のレシピを教わっていると見た。
ツンツンしたい年頃なのかもしれないけど、妹に関してはどうしてもツメが甘くなってしまうらしい。
「……ふふっ」
まぁ、だからこそ弄って楽しむ甲斐もあるってものだけどね…
心の内で何か怪しい事を考えたらしい不二が声を微かに漏らして笑う。
「!?!?!?」
その瞬間、ぞわっとリョーマは言い知れない悪寒を背中に思い切り感じ取り、思わず周囲を見回してみたが、残念ながら先輩の目論見には気付く事は出来なかった…
$F<Field編トップへ
$F=サイトトップへ
$F>続きへ