結局、リョーマ達の両親はどうしても帰りが遅くなってしまうということで、リョーマはその日の部活動は已む無く休むという形を取った。
『身内の危急ということなら止むを得まい。明日以降も問題があるようならすぐに連絡をしてくれ、但し、報告がないまま休んだらグラウンド十周だ』
『分かったッス』
多分、明日以降は何とかなるだろうと思いながら、部長とそんな会話を交わし、リョーマは放課後、ダッシュで自宅へと戻った。
途中でスーパーに立ち寄って、慣れない買い物を済ませ、また別の場所にも立ち寄って…それでも健脚の少年が急いだだけあって、割と早い時間には帰宅を果たすことが出来たのだ。
そして、家に帰った後の彼が何をしているかと言うと…
「それでねそれでねリョーマー、お医者さんが凄く怖い顔のおじさんで、全然笑ってくれなくて…! 点滴三本も打たれて痛かったよう〜〜〜〜…!!」
「……」
ぐつぐつぐつぐつ…と音をたてている土鍋の前に立っていたエプロン姿のリョーマは、先程から延々と聞こえる妹のささやかな愚痴を聞きながら、うんざりという顔で目を閉じていた。
確かに、妹は今日一日とても辛い思いをしただろう。
熱もあったそうだし、水を飲んでも吐く程に体調を崩し、朝見た時もかなりへろへろの状態だった。
それだけ辛い思いをしたら、八つ当たりまでにはいかずとも多少の愚痴は零したくもなるだろう、こちらとしても、愚痴を零せるだけ元気になったという事が分かるなら別にいい。
しかし…
「…あのさ、桜乃…」
遂に、耐えられないとリョーマはくるっと振り向き…そのまま自分の足元に視線を下ろした。
「人の足に縋りついて愚痴零すの、やめてくれる?」
「だってだって身体に抱きついたら危ないって言うから〜〜〜〜!」
視線の先では妹が床に身体を投げ出した状態で、ひっし!と自分の両足に腕を絡ませ、思い切り抱きついていた。
「危ないよ、火、使ってるんだし……えーと」
これぐらいかな…と当たりをつけたところで、リョーマが小皿に鍋の中の汁を掬って取り、口元に運ぶ。
「…ん、まぁまぁ」
ぺろっと舌を出しながらそんな評価をすると、彼はそれから鍋の中に溶き卵を落とし、お玉で中身を小振りの椀に注ぐと、最後に三つ葉をちょいと散らした。
「ほら、ご飯。少しでも食べときなよ」
「わぁー…!」
そこでようやく兄が作っていたものを目の当たりにした妹は、予想以上の出来栄えに驚きの声を上げた。
「雑炊だー、美味しそうー!」
「おかわりあるよ」
妹からの素直な賞賛を受けて、ふふん、とリョーマが誇らしげに笑う…が、その後に桜乃があれ?と首を傾げた。
(リョーマお兄ちゃん、和食は確かに好きだけど、そんなに料理の腕は良くなかった筈なのにな…)
「…なに?」
「う、ううん、何でもない」
見た目はまぁまぁよく出来た鶏雑炊だけど、実際に味の方は分からないよね…と思いなおしつつも、桜乃はそこは何も言わなかった。
そして、二人ともが席に着いて夕食のひとときとなったのだが…
「いただきまーす」
「うん」
合掌して、挨拶を済ませた後、いよいよ桜乃がレンゲで雑炊を掬い、ぱくんと一口。
「……」
不安げにこちらを見てくるリョーマに、桜乃はにっこりと笑いかけた。
「これすっごく美味しいよ、リョーマ。沢山食べて、早く元気になるからね」
「ふ、ふぅん…? 良かったじゃん」
「うん」
「………ねえ、桜乃」
「ん? なぁに?」
「…やっぱり何でもない」
「?」
何かを言いかけた兄はしかし結局それを語る事はなかった。
(まぁいいか……もう少し内緒にしておこう、ダシは河村先輩から譲ってもらったコト)
実はリョーマが帰る間際、先輩の河村が彼の店に立ち寄るように言ったのだ。
何かと思って立ち寄ると、彼の父親が全て理解している様に、雑炊に使うダシ汁を準備してくれていたのだった。
どうやら、朝練の時にリョーマが尋ねてきた事で何をするのか察した河村が、先に電話で父親に事情を話して手配してくれていたらしい。
『妹さん、風邪なんだって? 美味いモン食わせて、元気にしてやんなきゃな』
最初は遠慮しようかとも思ったのだが、河村の父のそんな言葉を聞いて、リョーマは素直にダシを受け取った。
テニスに関しては天才的な能力を誇る少年だが、家庭科技能については妹と比べて明らかに難があることは自覚している。
ここで変なこだわりを持って何かを作ったとしても美味しいものになるかは分からないし、そんなものを病床の妹に食べさせる訳にもいかない。
ここは有難く、相手の好意を受け取ることにしよう。
かくして、玄人と素人の見事なコラボレーション作品が出来上がったという訳だった。
「おかわりー」
「ん」
食欲も少しずつ戻って来たらしい妹に、リョーマも安心した様子でおかわりをよそう為に立ち上がる。
(おダシの提供元……お兄ちゃんの交友関係を考えたら、河村先輩かなぁ)
実は、桜乃は兄が隠している事実に薄々気付いていた。
(おダシはホントに完璧! これは市販のダシじゃ出ない味だわ、絶妙なバランスで旨味成分を引き出してるし、料亭に出しても通じそう…でもご飯はちょっと固いかな…卵もふわとろじゃないし、鶏さんの茹で方も今ひとつ……ここまでダシとその他の具材のレベルが噛み合ってないのも凄いけど…でもお陰で大体読めちゃった)
どちらもそこそこのレベルだったら分からなかったかもしれないが、明らかな格差がついていた分、寧ろ予想はし易かった。
しかし出所は何処であれ、自分の兄が自分の健康を気遣って持って来て料理してくれたことには変わりない。
その心遣いを汲み、桜乃はそれについては何も言わなかった。
それからおかわりもして十分にお腹を満たし、桜乃はほう〜と満足げな溜息を漏らした。
「ご馳走様でしたぁ〜」
「食べたら早く部屋に戻って寝なよ、まだ全快してないんだし」
「点滴打ってもらったからもう大丈夫だよー。部屋で一人でいてもつまらないもん…」
ちょっとだけ我侭を言ってみる桜乃に、意外にもリョーマはそれを咎めるでもなく、何かを企んでいる様な笑みを浮かべた。
「ふーん、じゃあ丁度良かった。俺も暇だし、ちょっと相手する?」
「? 何の?」
問うた妹に、彼がぴらっと出して見せたのは…
「言付かってるよ。病院から処方された薬、食後にきっちり飲ませるようにってね」
本日、受診した病院から処方された薬一式が入っている薬袋だった。
「きゃーっ!」
慌てて逃げようとした桜乃だったが、流石に反射神経もピカ一のリョーマから逃れられる筈もなく、彼女はあっさりと彼に捕まってしまう。
「あ、あ、あ、明日から飲みます明日からっ!」
「だーめ、学校まで休んだしそんなコト言える立場じゃないだろ」
「ふええ〜んっ! 苦いのやだぁ〜〜〜!!」
「俺だってやだよ。けどこの薬はちゃんと身体の為になるんだからいいじゃない」
俺なんか、下手したら劇薬紛いのモノ飲まされる危機に、日々晒されてるんだから…
表立っては言えない苦悩を心の中で吐露して、リョーマは何とか妹に指定された分の薬を飲ませると、そのまま相手を部屋に送って寝かしつけたのである……
深夜……
「…う?」
リョーマに寝かしつけられた後、ずっと眠っていた桜乃が不意に目を覚ました。
いつもとは異なる睡眠リズムの所為で、覚醒が促されたのかもしれない。
少なくとも、熱が出たとかそういう身体の不調によるものではなく、寧ろ、汗をかいたせいかすっきりした感じもする。
「…っ!」
夜の闇に目が慣れてきたところで、桜乃は額に乗せられていた濡れタオルと、ベッドの脇にいた人物に気付いた。
兄のリョーマが、ベッドにうつ伏せる形で寝入っている。
その足元には、同じくカルピンが丸くなって眠っていた。
(リョーマ…あれからも看病してくれてたんだ)
普段はつれなくても優しい兄の心遣いに感動した少女だったが、そのまま彼を放っておく訳にもいかない。
時計を見ると、もう午前を回っている。
きっと両親から寝るように注意を受けてはいただろうが、そのまま居座ったか、一度自室に戻ってまた来てくれたのだろう。
しかし、このまま放置してしまうと、今度は彼が身体を冷やして風邪を引きかねない。
(や、やっぱり起こした方がいいよね…)
気持ち良さそうに寝ているのを起こすのは忍びないけど…と思いつつ、桜乃は上体をやや起こし、手を相手の肩に置くとゆさゆさと軽く揺すった。
「リョーマ、リョーマ…」
「…ん」
揺すられて、兄がぼんやりと目を開け、頭を起こして周囲を見回す。
もしかしたら自分が何処にいるのか分かってないのかもしれないと、桜乃がまた声をかけた。
「リョーマ、もう遅いから自分のベッドに行って寝た方がいいよ」
「ん…桜乃?」
どうやら、本当に状況を忘れてしまっているのか、彼はまだ寝惚け眼できょろきょろと周囲を見回している。
「…夜?」
「そうだよ、私はもう大丈夫だから…リョーマもそのままの格好だったら辛いでしょ」
「……面倒くさい」
「え?」
眠気の取れていない声でぼそっとそう言うと、リョーマはいきなり桜乃の掛け布団をびらっと捲り、のっそりと自分も彼女の隣に潜り込んで来た。
「え、ちょ、ちょっとリョーマ!?」
「今日はちょっとここで寝かせて…ふあ〜あ…」
自室に戻るのが面倒だとばかりに相手のベッドの半分を占領した兄は、欠伸をした後で自身の腕を相手の首の下に回し、ぐい、と抱き寄せる。
「ん、あったかい…」
所謂、腕枕…しかもぺったりと密着状態。
「え、え…リョーマ!? ダメだよ、風邪移っちゃう…!」
「いい」
兄妹とは言え流石にこの密着の度合いは気恥ずかしく、桜乃は相手の健康も考えて諌めたのだが、向こうは構わずにぐりぐりと頭を擦り付けてきた。
「……ウチのクラスでも、結構流行ってたんだよね、風邪…」
「ふえ…?」
「何処のどいつか分からない奴らに移されるぐらいなら、桜乃の風邪の方がいい…」
「そっ、そういうのはちょっと違うんじゃ…っ」
「ぐぅ…」
「〜〜〜〜〜!」
妹の意見そっちのけで、兄は既に夢の中。
これはもう、起こすのは無理と見た。
(も〜、しょうがないなぁ…あ、でも確かにあったかい…)
流石に筋肉がある男の子は違うなぁ…と妙な感心をしながら、桜乃もとろとろと目を閉じ、再び安らかな眠りに就いた。
生意気でも心強い兄が傍にいてくれたら、怖い夢も見ないし安心して休むことが出来るだろう……
そして翌日には、無事に桜乃は体調を回復し、リョーマ本人もまた、風邪を移される様な結果にもならなかった。
ただ一つ困ったことと言えば、娘を溺愛している南次郎が、リョーマが桜乃と一緒に寝ていた事実を知り、またも大人気ない喧嘩を息子と繰り広げて桜乃を大いに悩ませることになったことだろうか……
了
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