怪談一夜
合宿所で過ごす夏の日は暑い。
毎日毎日うだるような暑さの中、桜乃は相変わらず選手達の練習を支えるべく、ボランティア活動に精を出していた。
「切原さん、お水です…あら?」
トレーニングルームに水分補給のためのミネラルウォーターを届けに行くと、そこで彼女は久しぶりの面々と会った。
「よう、邪魔しとるよ竜崎」
「おさげちゃん、いい子だなー、手伝いかい?」
切原の先輩である仁王と丸井が、ベンチに腰掛けていた切原の前に立ち、楽しげに談笑していた。
こちらに気付き、二人ともが気さくに手を上げて挨拶してくれるのを見て、桜乃も軽く会釈しながら入室する。
桜乃は青学の学生で、彼等は立海の学生だが、過去の縁で今は良き先輩と後輩のような関係となっている。
「こんにちは、仁王さん、丸井さん。切原さんの応援に来て下さったんですか?」
桜乃の言葉を、二人は速効で否定した。
「いやぁ、単なる遊びじゃよ」
「そ、そ。大した用じゃねぇって、暇潰しだよい」
「……いい先輩もって幸せッスよ」
けっと顔を背けてすねてみせる切原に、桜乃は笑ってミネラルウォーターを差し出した。
「お疲れ様です。はい、どうぞ」
「あー…あんがと。竜崎は優しいねぇ、誰かさん達とは大違いだ」
せめてもの後輩の皮肉に、仁王は寧ろニヤリと面白そうに笑い、ぎゅ、と相手の右手を握り締めて身体を寄せる。
「ほーう…そうか、赤也。お前さん、俺に優しくしてほしかったんか…」
「っっ!!!!」
生理的嫌悪感が一気に全身を駆け抜け、切原はオリンピック選手以上の猛ダッシュで仁王から遠ざかると、ばんっ!と壁を背にして震えながら訂正した。
「すんませんっ!! 俺が間違ってましたっ!!」
「あははは、やっぱおもしれーなー切原ぁ」
「退屈せんのう」
「………」
笑っていいところなのだろうか…
桜乃はどうにも微妙な感じに、強張った笑みを浮かべるしかない。
「んー、しかし竜崎。身体は大丈夫か? 何となく顔が赤いぞ」
「え?」
ふ…と桜乃が自分の頬に手を遣り、丸井と、そこに戻ってきた切原も彼女の顔を覗き込む。
「あ、ホントだ」
「うん、赤い」
「ああ、さっきまで外を歩き回ってたからですよ。体調は全然大丈夫ですよ?」
にこ、と笑う桜乃に、仁王達も笑ってそうかと頷き返した。
「あまり無理はするなよな、おさげちゃん。ここ最近、天気予報も猛暑猛暑のオンパレードだし」
「そうそう、キツイ時は赤也こき使ってくれていいぞ。先輩の俺達が許しちゃる…って、そうじゃ、暑いと言えば…やっぱ暑気払いよな」
不意に思い出した様に仁王が人差し指をたてると、切原と桜乃の二人を見下ろし、彼は小さな声で不思議な質問をした。
「…お前さん達は、もう見たんかの?」
「見たって…?」
切原が首を傾げ…
「何をですか?」
桜乃が無邪気に問いかけた。
二人の様子で、全く知らないのだと悟った仁王は、今度はにやっと意味ありげな笑みを浮かべ、二人に向けてにゅっと首を突き出す。
「ほう、その様子じゃまだのようじゃのう…まぁ、知っとった方が覚悟も出来てええじゃろ」
「覚悟って…何だか物騒な話みたいっすね」
早速、訝る切原は身体を引いて警戒しているが、桜乃はきょとんと仁王を見上げて尋ねた。
「何か、危険なものがあるんですか? 合宿で…」
「ん〜〜、まぁ、実害があると言えばあるのかないのか…」
「どっちだよい」
分かんねぇ、と丸井がぷーっとガム風船を膨らませる。
どうやら、その話を知っているのは、この場では仁王一人らしい。
「そうか、じゃあ教えちゃる。ここの合宿所にはのう…出るんじゃよ、これが」
そう言いながら、仁王は両手をだらんと前に下げて、妖しい雰囲気で笑った。
ずざっ!!!
真っ先に後退したのは桜乃だった。
先程までの穏やかな表情から一転、顔は青ざめ強張っている。
切原も何となく顔色が悪い気がするが、かろうじて姿勢を保っていたのは桜乃の手前だったからだろうか?
「え〜〜? 嘘だろい仁王。俺そんな話聞いたことねーし? 大体ここってすっげぇ新しい施設じゃん。そんな死人が出るような事故もなかったしさぁ」
いかにも疑いの口調で言いながら、また丸井は新しいガム風船をぷーっと作成するが、指摘された仁王は全く動揺せずに続けた。
「まぁ事故はない、施設が新しいんも事実じゃ。しかしの、確かに噂はあるんよ? ここの食堂の裏手で、毎夜毎夜、幽霊がさまよっとるってな…テニスをしたくても出来んかった病弱の子が、死んでなお、遊び友達を求めてコートのあるこの場所で相手を探して…」
「きゃ――――――あああああああっ!!!!」
これ以上は聞くに堪えない…という悲鳴と共に、桜乃がその場からダッシュで退散する。
「おわっ!? 竜崎!?」
切原が声を掛けるが、最早それすらも耳には入っていない様子で、あっという間に彼女はトレーニングルームから姿を消してしまった。
「…やり過ぎッス、仁王先輩」
「可哀想だろい、あんなに怯えさせちゃ…」
流石にこの時ばかりは、切原と丸井の非難には仁王も反論出来ずにぽりぽりと頭をかいた。
「いや、まさかあそこまで反応するとは…」
「大体、仁王先輩も人が悪いッスよ。そんな作り話で女の子恐がらせるなんて…」
ぷいっと背を向ける後輩に、銀髪の先輩は、しかし真面目な顔で答える。
「何を言うとる、赤也。今の話は本当じゃ、ここの合宿所の噂は周囲の人間には結構知られとるんじゃぞ?」
「…えっ?」
今度こそ、切原の顔がざあっと青ざめた…
昼の間は…まだ良かった。
恐がっていても、周りには誰かがいてくれるわけで、それに頼りになる日の光もあったから。
しかし夜になると、誰かと一緒というわけにもいかず、個人で一つの部屋で過ごさなければならないのだ。
テレビを見て一夜を過ごすなどという荒業をしてしまえば、次の日に支障をきたし迷惑がかかるし、何より睡眠時間は重要だ。
分かっている、分かっているはずなのに……
(…眠れない……)
夜のベッドの中…桜乃はずーっとまんじりともせずに天井を見上げている。
時計の秒針の音すらも気になり、とても眠れる感じではない、その上…
(どうしよう…・トイレ、行きたくなってきた)
最悪である。
個室にトイレがある程に合宿所は贅沢な造りではない。
そして彼女の部屋から最寄のトイレは、あの問題の食堂を通り抜けなければ行けないのだ。
(うう、恐い……でも、行かないと…)
ベッドの中でたっぷり十分は悩み、遂に桜乃は決心する。
(すぐに行ってすぐに帰ってこよう…大丈夫…大丈夫…)
噂は噂だし、必ず何かを見るとは限らない…
自分を必死に奮い立たせながら、桜乃は部屋のドアを開け、暗い廊下へと一歩を踏み出した。
しんとした廊下を通り問題の食堂を一気に駆け抜け、桜乃は何とか女子トイレに辿り着くと、急いで用を済ませて元来た道を引き返す。
良かった…!
後は部屋に戻ればベッドの中で…眠れるかどうかは分からないけど、とにかく…
がたんっ…
不意に聞こえてきた、原因不明の音…
「っ!!」
来たっと瞬間思った時には、自分の足が固まってしまっていた。
おとぎ話で石になってしまう主人公がいるが、まさに今の自分の足がそんな状態だ。
(どっ…どこから…!?)
辺りを見回し、音の聞こえてきた大まかな方向を探った桜乃は、その部屋を見て一瞬気が遠くなる。
食堂…
よりによって、あの話の現場である。
そこから聞こえてきた音は、一度だけだったが、更に桜乃はその視線の先に見てはいけないものを見てしまう。
(…・な…なに…っ…あの、光…っ)
ぼう…っと、食堂の窓の向こうに、人の頭ぐらいの光が宙を飛んでいるのが見えてしまい、少女は一気にパニックに陥ってしまう。
もしかして、人魂…!?
死んでしまった人が…本当に相手を探して……
「ひ…・っ!」
思わずその場に屈みこみ、頭を押さえ、がくがくと震える少女は、最早逃げることなど不可能だった。
足が竦んで動かない…・身体を立たせることすらも出来ない…
どうしよう、どうしよう、どうしよう…!!
助けて、助けて、助けて…!!
誰か!!
ぽんっ…
不意に、自分の右肩に誰かの手が置かれた。
見えない誰かが…自分に気付いた…このまま連れて…
「いやあぁぁ……っ!!」
悲鳴を上げた自分の口を、相手が掌で強く押さえつけ、声を塞ぐ。
幽霊なのか、実体のある人間なのか、訳が分からなくなった桜乃はいよいよ恐怖で涙さえ浮かべ、必死に抗おうとしたが、そこで聞こえてきたのは明らかに生身の人間の声だった。
『竜崎…! 竜崎っ! 落ち着けって! 俺だ俺!!』
「〜〜〜〜〜っ!!……え」
その声は……
「…っ」
思わず振り向いた桜乃は、もう悲鳴を上げるのも忘れていた。
今の声には聞き覚えがある…・とても小さい声だけど、間違いない…!
「…切原さん!?」
『し―――っ!! 静かにしろって!』
今度は悲鳴ではなく驚きの所為で大声になってしまったのだが、相手は人差し指を立てて、焦った様子で桜乃に言った…やはり、小さな声で。
「……っ」
生身の人間に会えたことと、それが見知った相手だったことが、徐々に桜乃に冷静さを取り戻させてゆき、何とか彼女は切原の希望に応じるところまで落ち着くことが出来た。
『…切原さん…何してるんですか、こんな所で…!』
『い、いや〜、その〜〜〜…っと、とと…こっち来い、こっち』
『え? え?…』
半ば強引に手を引かれ、桜乃は切原と、問題の食堂に入っていった。
望んだ訳ではないのだが、相手が返事を待たずに入ってしまったのだから仕方がない。
「…あっぶねーあっぶねー…先生方かと思ったぜ」
食堂に入り、切原は自分と同じように桜乃も屈みこませると、ようやく普通の声を出しつつ息を吐いた。
食堂の電気は消されたままだが、かろうじて入ってくる月の光が、相手の朧な姿を浮かび上がらせる。
表情の詳しいところは分からないが、声を頼りにしたらさほど支障はない。
「…ところでアンタ、何やってたんだ? あんな所で屈みこんで、腹でも壊したかって思ったぜ」
「ちっ…違います! ちょっと…食堂の中で、怪しい光が見えたから…ど、泥棒かと思って」
流石に幽霊とは言いづらく、桜乃はそこは適当に理由をつける。
すると向こうは、へっ?と一瞬怪訝な表情を浮かべ、それはやがて気まずいものに変わると、す〜っと不自然に視線を逸らすにまで至った。
「そ…そっか…そりゃ…悪いコト、したなぁ…」
「……」
ぴ――――――んっ!
少女の頭の中で、自分の何かのアンテナが激しく反応する。
もしかして…
素早く彼女が視線を相手の全身に走らせると、彼の右手に懐中電灯が握られているのが見えた。
「切原さん、それ…」
あれだ、あれがあの謎の光の正体だ!
「え…っととと!」
慌てて隠そうとしても、もう遅い。
こうなったら女の勘は止まらない。
桜乃の頭の中で、不完全のジグソーパズルの欠片が恐ろしいスピードで組みあがってゆく。
深夜、誰にも見られず、健全な男子がこんな場所に来てやる事と言ったら…
「き〜り〜は〜ら〜さ〜ん…?」
「な、何だよ…」
「…つまみ食いしようとしてましたねっ!?」
「ぐっ…!!」
ビンゴ!!
言葉に詰まる相手の姿が何よりの証拠だったのだが、それでも何とか相手は言い逃れを図る。
「べっ、別に違うって…! えーと…」
今更、下手な言い訳を考えている被告人に、桜乃は自分の特権を活かして止めを刺した。
「明日は私がお食事配給係です…」
「むぐっ!」
「嘘言ったら、お食事、五割カット!」
「すんません、その通りッス…」
あえなく、切原、完敗。
コート上の悪魔も、胃袋を人質に取られたら形無しである。
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