「やっぱり…」
「しょーがねーだろ、育ち盛りなんだから…ったく、凄い勘してんな…」
 開き直る切原の度胸も、或る意味凄い。
「誰でも気付きますよ…青学にも似た人、いますし」
 誰なのかは、敢えて言うまい…
「夕食はちゃんと食べたんでしょう?」
 桜乃の確認に頷きながらも、切原は必死に己の窮状を訴えた。
「足りねーって! 特に今日は練習時間以外でもサーブの特訓したしよ…あー、力入んね…」
「もう…」
 ため息をつきながら、桜乃は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。
 幽霊と思っていたが、実は大したことではなかった…アクシデントのお陰で、さっきまで感じていた恐怖も消えてしまったし…後はこの、空腹に苦しむテニス少年の問題だけである。
 むーっとふてくされている切原に、桜乃はしょうがないと苦笑した。
「…明日の食事に支障ない分だけ、分けてあげます」
「マジで!?」
「みんなには内緒ですよ?」
「するする!! 内緒にする!」
 途端に上機嫌になって目をキラキラさせる相手に、桜乃はもう一度苦笑すると、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと冷蔵庫見てみますね」
「おう…」
 二人は冷蔵後に向かい、並んで扉を開くと中身の確認を始めた。
「えーと…これと…これ…パンは少しゆとりがあったから大丈夫かな。他のも、ちょっとレンジであっためたら大丈夫…」
「……」
 何となく、冷蔵庫を開いてから切原の反応が悪い…というか、返事がない。
「切原さん…?」
 もしかして中身に夢中になっているのかと気になって顔を上げると、そこでばったりと彼の視線と合う。
 違う、冷蔵庫の中を見ていたのではない。
 こちらを見ていたのだ。
「え?」
「う、あ…いや…」
 明らかに狼狽している。
 こちらをちらちら見ながら、それでいて、視線を逸らしたり…怪しさこの上ない。
「どうしたんですか? やっぱり、我慢します?」
「い、いや、我慢はしねー…その…アンタ、髪下ろしたら、そんな感じなのな…」
「え…っ」
 相手に指摘されて、はっと気付く。
 もうベッドに入っていたのだから当然だが、今の自分の姿は確かに髪を下ろした状態で…更に言ったらパジャマ姿なのだった。
 今までの暗がりではなく冷蔵庫の室内灯で照らされ、相手にもそれが明らかになってしまっていた。
 如何に知り合いとは言え、男子の切原にそういう姿を見られてしまったのは、桜乃にとっては衝撃の事件だった。
「きゃ…! ちょ…ちょっと…あまり見ないで下さい!」
「わ…す、すまね…っても、しょーがねーって…」
 冷蔵庫が見えねーじゃん、と弁解しながらも、切原も実は、自分の心臓が激しく脈打っているのを自覚していた。
(うわ、やっべぇ…全然、雰囲気が…)
 いつものおさげではない、艶やかな黒髪がさらさらと流れる様は、昼間の彼女の印象とはまるで違う。
 それに、パジャマ姿の女性など、無論、身内以外では初めて見るものだ。
 何の飾りもないシンプルな薄いピンクのパジャマが、却って健康的で女性的な魅力を引き出しているような印象を受ける。
 女の子って…こんなに変わるもんなのか?
 確かに、コイツとは殆ど制服とテニスウェアの時ぐらいしか会ってないし、髪型なんかおさげ以外見たのは初めてで…
 ヤバイ…なんか、熱、上がってきた気がする…
 切原が頭を軽く振ったところで、桜乃はおおまかな食材を取り出し終わって彼に差し出した。
「これぐらいかな…足りますか?」
「お、おう…サンキュ」
 動揺を悟られないように、なるべく自然に切原は食物を受け取った。
「どういたしまして…でも、切原さん、勇気あるんですね」
「あ?」
「仁王さんのお話聞いても、ここに来るなんて」
 自分だったらとても出来ない、例えどんなにお腹が空いていても…と、少し尊敬の眼差しで相手を見上げたが、彼は全く意図していなかった少女の反応に目を白黒させた。
「仁王先輩の話? 何のコトだよ」
「え? あの、幽霊が食堂にって…」
「は? ありゃコートの話だったろ?」
「違いますよ、食堂の裏手に出るんです」
「……そうだっけ?」
 何となく、切原の顔がやや強張っている。
 それを見た桜乃は…
「…切原さん、人の話、聞かないって言われませんか?」
「い、いや…なんつーか…コートって単語しか耳に残ってないっていうか」
 やっぱり聞いていないんだ…と思ったその時…

 がたんっ!

「っ!?」
「きゃあ!!」
 食堂の裏手から聞こえた、物音…
 また、消え去った筈の恐怖が桜乃を襲い、彼女は殆ど無意識に目の前の切原にすがり付いていた。
「え…っ」
 すがられた方の切原が一瞬呆然とし、今の二人の状態を認識したところで、かぁっと全身が熱くなる。
「ちょ…」
 何かを言おうとしたが、見下ろした桜乃は目を固く閉じて小刻みに身体を震わせており、とても今離せる状態ではない。
(えーと…えーと…)
 どうしたらいいものか…と思いつつ、取り敢えずは落ち着かせてみようと持っていた食物を側のテーブルに置き、彼女の肩を遠慮がちに抱いた切原は、その感触に再び驚愕する。
(うわっ!…やわらけ〜〜)
 自分達、男子の身体とは全然違う…触れることすらためらわせる程に柔らかで、壊してしまうのではないかと、らしくもなく恐くなる。
 勿論、切原が女子の身体にここまで触れるのは初めてのこと。
 これまでは三度の飯よりテニスが好きで、正直、恋愛というものには無頓着だったし、学校でラブレターを貰っても、今ひとつピンとこなかった。
 貰ったことは嬉しくないことはなかったが、どうにもその女子に対し、付き合いたいと思ったことがなかった。
 しかし…
(どうしよう…何とか…この状況を何とかしねーと)
 自分の心が、何か、経験のない感情を覚え始めている…が、流される訳にはいかない。
 この子は、単に恐怖から自分にしがみ付いているだけで、ラブレターをくれたりしたワケじゃないんだから…

 がた…がたっ…がたんっ…

 また…!
「…・か、風…です、か…?」
 震える声で桜乃が尋ねたが、切原は正直に答えた。
「いや…そうじゃねぇ…確かに、外に何かいるんだ」
 幽霊かもしれないし…それ以上にマズイ奴かもしれない…
 辺りには誰もいない、しかし、もう誰かを呼びに行くゆとりもない…音はそれぐらい近くから聞こえた…
「竜崎、ここに隠れてろ。俺が見に行ってみる」
「切原さん!?」
 桜乃を裏口から遠ざけるように庇い、切原は彼女を振り返りながら言った。
「大丈夫だって…何かあったら、アンタ、走って先生の所に行って知らせてくれ」
「危険ですよ…!」
 桜乃の引止めには応じず、切原は食堂に立てかけてあった箒を握り、取り敢えずの武器とする。
「ここ離れたら、向こうの誰かが入って来るかもしんねぇ…心配すんなって、俺もすぐに殴りかかるワケじゃねぇよ、ちゃんと様子見るから」
 そして裏口へと動こうとした切原は…桜乃の腕によって引き止められてしまう。
「!?…おい?」
「……」
 もう一度腕を動かして振り解こうとしても、やはり彼女は離してくれない。
「…で…ださい」
「あ?」
 何かを言った相手に聞き返した時、二人の視線が間近で合った。
 訴えかける桜乃の瞳が、僅かに涙で潤み、月光が遠慮がちにそれに輝きを与えていた。

「…ひ…とりに、しないで下さい…」

「っ!!」
 どくんっと心臓が一際強く脈打ち、全身が総毛立つ。
 まずい!と思いながらも、切原は彼女の手を振り払えない。
 ラブレターをくれたワケじゃない…告白されたワケじゃない…・けど、この手を離すのが惜しい。
「…くそっ…分かったよ」
 思いを振り払うように強い口調で言うと、彼は逆に桜乃の小さな手をぎゅっと強く握り締めた。
「え…」
「じゃあ、一緒に来い。俺の手、しっかり握って離すなよ。ちゃんと守れるようにな」
「は、はい…」
 頷いた少女を背後にまわらせ、切原はいよいよ裏口へと歩いていく。
 ドアの鍵をゆっくりと開け、一呼吸おいて静かにドアを押し開け、彼は息を止めて静かに外の様子を覗いた…
「…ん?」
 目を凝らし、ドアの小さな隙間からきょろっと辺りを見渡した切原は、或る場所に目を留めると、緊張の表情から一転、楽しげなそれに変わった。
 背後でまだ恐怖に震えている桜乃の肩を数回叩くと、しっと人差し指を口元に当てて注意した後に、彼女にも外を見るように促す。
『左、見てみろ。静かにな…』
「…・?」
 促されるままに、覗いた桜乃の視界に入ったのは、もこもこした球体が複数、食堂脇の生ゴミ置き場で動いている光景だった。
 月光に照らされたそれらは生ゴミを夢中であさっており、その特徴的な形態と尻尾から、どうやら狸の親子であると推測できた。
「……」
 正体を見たところで、桜乃はドアを閉め、切原を振り返る。
 向こうも、全てが分かったことで安心した笑みを浮かべていた。
『…出ようぜ。驚かさないように、静かにな』
『はい』
 闖入者に遠慮しながら、二人はこっそりと食堂を後にする。
「そういや、都会に野生の狸が下りてくるってテレビで見た事あったなー…悪いな、付き合ってもらってさ」
「い、いいえ…あの…ありがとう…ございました」
 食物を両手に抱えて笑う少年に、少女は顔を俯けて礼を言う。
 それは恐怖によるものではなく、今更だが、少年にとった行動への恥じらいだった。
「…・あー…っと」
 微妙な空気に目線を上に少し泳がせ、切原は不意に思いついたように桜乃に申し出る。
「…ついでだから、部屋まで送るぜ」
「え?」
「あーいや、もう大丈夫だとは思うけど、よ…何か、アンタ見てるとちょっと不安になるし…この先だろ?」
「は…はい…お願いします」
 それから二人は何も言わず、少女の部屋の前まで歩いていった。
 話題を探しているうちに着いてしまう程の距離だった…のに、随分長い寄り道だった気がする。
「じゃあな、また明日。よく休めよ」
「はい…有難うございました、切原さん。おやすみなさい」
 ぺこりと礼をして、桜乃はドアの向こうへと消え、その場には切原だけが残された。
「……」
 何の意味も為さない筈なのに、何故かそうしたくなって彼は彼女のドアに額をひたりと触れて目を閉じた。
「……ちぇっ」
 心底、残念そうに切原は呟いた。
「…アンタが…ラブレターくれたら良かったのに…」

 そうしたら…俺だって……


 それから数日が過ぎ、合宿が終わった当日は、立海の他のメンバーも泊まっての宴会だった。
 翌日、合宿所を後にした切原達は、複数の車に分かれて移動していく。
 切原の乗った車には、泊まりにきた先輩達と、桜乃が乗り合わせていた。
「…で、結局幽霊の正体は狸だったんスよ」
「何じゃそうか、つまらんのう」
 切原が仁王にそう説明し、向こうはちぇっと舌を鳴らしながら窓の外の風景を眺めていた。
「……」
 桜乃は、じっと静かに座り、切原達を笑って見つめている。
 流石に、あの時彼とずっと一緒にいたのだとは言えず、説明は全て切原に任せることにしたのだ。
「……」
 そんな桜乃に何かを感じたのか、仁王がふーんと彼女を見つめていると、そこに不意に丸井が声を掛けてきた。
「おい、ところで仁王。お前昨日、俺の所に寝惚けて来てたろい? 迷惑なんだよ、折角気持ちよく寝てるトコにさぁ…」
「…何じゃそれは。俺は行っとらんぞ?」
「え…?」

 ざわっ…

 何か…また嫌な感じが桜乃と切原の背中を走った。
「ええ? だって、俺のトコに来た後にさぁ、ず〜っと廊下をふら〜っふら〜って往復してたじゃん」
「じゃから知らんと言うとる。俺には夢遊病の気はないぞ」
「え〜? でも、白いパジャマで白い髪してたし。そんな色の髪ってお前ぐらいじゃん」
 尚も食い下がる丸井に、仁王は決定的な証拠を突きつけた。
「昨日は騒ぎ疲れてブレザーのままで寝ちまったから、パジャマなぞ着とらん…そいつの、本当にパジャマだったんか? 白装束とかじゃ…」
「へ…」

「………」

 全員がしん…と静まり返った直後、再び桜乃の悲鳴が車の中に響いた。
「いや―――――――っ!!」
「わぁっ! お、落ち着けって竜崎!!」
 恐がる桜乃を、当然のように切原が必死に宥め、落ち着かせようとする。
 わいわいと賑やかになった車の中、その元凶になった二人の先輩は、影でこっそりと頭を突き合わせていた。
「…お主もなかなかのワルよのう、仁王」
「なーに、演出じゃよ、演出。こうでもせんと、可愛い後輩はなかなか成長出来んじゃろ? 詐欺師の本領発揮じゃ。それに俺、こういう詐欺は大好きなんよ」
 こそっと切原達の様子を見ると、向こうは騒ぎながらも何気に良い雰囲気である。
 それを確かめ、二人の仕掛け人は再び顔を見合わせると、悪戯っぽく笑っていた…






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