愛のデリバリーサービス(後編)
それからも、メイド任せの優雅な時間を過ごしているのかと思いきや……
「……」
切原は何をするでもなく物凄く微妙な表情を浮かべてリビングに座っていた。
朝食を食べ終えた後、片付けようと思ったらそこにまた桜乃が来て、「やりますよ〜」と洗い物もこなしてくれた。
今は、洗濯物を干し終えて、風呂場とトイレの掃除も終わり、客間の掃除をしてくれている。
その働き振りには文句のつけようがなく、自分も貴族みたいな一日だ!と最初は喜んでいたのだが……
(な…何していいか見当もつかねえ!!)
思い切りこの時間を利用してゲームでもやればいいと思っていたのだが、いざその時になってみると、物凄く後ろめたい気がしてしまったのだ。
好きな女性が、自分の為に一生懸命に掃除や洗濯に勤しんでくれているのに、それに胡坐をかいてゲームをする程に彼も非常識ではなかった。
かと言って、手伝おうと思って手を出しても、相手にすぐに止められてしまう。
何と言うか…身の置き場が無い…
(ああもう! ご主人様って何やったらいいんだよ!? ドラマとかじゃふんぞり返ってタバコ吸ったり酒飲んだりしてるけど、俺まだ未成年だし!!)
どうしよう〜誰か教えてくれ〜〜〜…と思っていた彼だったが、ふと何かを思い立ち、携帯を取り出すと、何処かにメールを打ってぴろりんっと送信した。
どうやら、何らかの打開策を思いついたらしい。
(何か気は進まないんだけど、あの人ぐらいだよな…この状況に慣れてるの)
跡部邸…
中学生であり、跡部財閥の御曹司でもある跡部景吾は、その日も優雅に豪邸とも言える自宅で過ごしていた。
「じい、これからの予定はどうなっている?」
「はい、景吾坊ちゃま。十分後には、先日ご契約頂いた会社社長が役員と共にご挨拶にお見えになり、それから…」
淡々とスケジュールを述べる執事の報告を聞いていた跡部は、そこで自分の携帯がメールの着信を知らせたことに気付き、それを取り出して開いた。
送信者は、あの立海の二年生エース…メールのやり取りをする事は滅多にない相手だ。
(何だ?)
疑問に思いつつ、肝心のメール本文を開いてみる。
『メイドが傍で働いている時って、どうやって過ごしたらいいんスか?』
「…?????」
「景吾坊ちゃま、如何なさいました?」
「いや…」
思い切り首を傾げて思い切り眉をひそめた主人に、執事が不安げに声をかけたが、相手はそう返事をするしかなかった。
説明しようにも、これをどう説明すべきなのか…そもそも質問の趣旨が分からない。
(メイドが傍で働いている…何だ? ウチの様な家のことか?)
当たっているし、外れてもいる…が、この質問内容で、今の切原の状況を察しろというのが土台無理な話なのだ。
(そういう事を言われてもな…普通に過ごせばいいだけの話だろうが)
跡部家の様な家が日本の一般家庭と同列に並べられる日など、そうそう来ないに違いないが、跡部はあっさりとそう結論付けた。
(まぁ取り敢えず、今の俺の予定でも送っておくか…)
メール返信があったのは、送信してから二分後のことだった。
『取引先の接待』
「この帝王、マジで役に立たねぇ―――――――――――っ!!!」
凄まじい言い掛かりをつけて、切原が怒りに任せてばーんっ!と携帯を放り投げる。
そうじゃない!! 根本的に話が違う!!
「だーもーっ!! いいっ! 最初から期待したのが間違ってた!」
目の前にその帝王がいなかったのは、せめてもの幸運だっただろう。
怒りで肩を激しく上下させていたところで、リビングに掃除が一段落したらしい桜乃が戻って来た。
「ご主人様?」
「は、はいぃ!?」
どっちがご主人様なんだか分かりゃしない…
自分の不甲斐なさを嘆きつつ返事をした相手に、桜乃がにこりと笑って伺いを立てる。
「客間のお掃除終わりました。リビングのお掃除を始めたいんですけど、いいですか?」
「あー…はいはい、すぐどきますんで、はい」
リビング…ここの掃除を始めるとなれば、自分がうろちょろしていたら邪魔になるだろうと、切原はすごすごすご…とその場を後にする。
(うーむ…ご主人様ってのも結構大変なんだな〜…)
そして、彼は一度自室に戻った。
ベッドと勉強机と、本棚と…まぁごくごく普通の学生の部屋だ。
しかし、今のこの場所は、床にテニス雑誌やゲーム攻略本などが乱雑に散らかっており見るも無残な状況。
「……はっ!」
その惨状を見て、重大な事実に気付いた。
待てよ…アイツ、多分リビングとかの掃除が終わったら、他の部屋の掃除もする気満々だよな…ってぇ事は、時間が経ったら間違いなく俺のこの部屋も掃除しに来るってことで…
「わわわわわっ!!」
『ご主人様』の生活について呑気に考えている場合じゃない! 掃除だ掃除っ!!
それが本末転倒な行為であるとは思いもせず、未熟な『ご主人様』は慌てて床に放っていた雑誌などを拾い上げ、久し振りに自室の掃除に取り掛かった。
「うわ、雑誌本棚に入らねぇや…くっそ、じゃあ古いもので要らないのを出して…っと。えーと、見栄えがいいように順番を…」
急いで、人に見せられるように…でも少しだけこだわりも見せつつ、切原はこれまでの人生の中で最も熱心に自室の掃除に取り組んでいた。
ここまで必死に真剣に部屋の片づけをしたのは人生で初ではなかろうかと思うほどの奮闘が暫く続き、同時にどたんばたんと少々賑やかな騒音が彼の部屋から漏れだしていた。
そして、やがて外から声が聞こえると同時に、ノックがされた。
「ご主人様、お昼ご飯が出来ましたよー」
「はははは、はいはいはいっ!」
大慌てでドアに寄った切原が、頭がかろうじて覗けるぐらいにぎりぎりの幅でそれを開き向こうを見ると、桜乃がまるで日常そうしている様に微笑んでいる。
「…昼メシ?」
「簡単なものですけど作りました。お腹、おすきですか?」
もうすっかりメイドも板についている様子であり、切原の狼狽えっぷりとは大違いである。
「あ、いや、サ、サンキュ…」
何とか礼を言って、切原は桜乃と一緒に再びリビングに戻った。
そこのテーブルにはまたも、湯気がまだ上がっている出来立ての手作り料理が後光を放っていた。
「……」
「冷めない内にどうぞー」
「…アリガトウゴザイマス」
いいのか? こんな充実した休日過ごしても…と誰に気を遣っているのか分からないまま彼は促されるまま席についた…ところで、桜乃の分が準備されていない事に気づいた。
「あれ? アンタの分は?」
「あ、私は後で頂きます。メイドがご主人様と一緒に席についたらおかしいじゃないですか」
「…」
そりゃそうかもしれないけど…傍で見られて食べるってのも落ち着かないし、かと言って彼女をどこかに追いやるわけにもいかないし…
(やっぱ…一緒に食べたいよなぁ…ん? 待てよ)
今日は…俺がそういう願いを言ってもいいんだよな、よく考えたら。
誕生日プレゼントだもんな…でもって、今日限定だけど俺の立場が上なんだもんな。
そこで、初めて彼は「ご主人様」らしく攻めの思考に転じた。
「えーと…お、俺が命令したらさ…アンタ、言うこと聞いてくれんの?」
「はい、今日は切原さんが私のご主人様ですから!」
にっこりと迷いなく応じてくれた少女に、その勢いに乗るように切原が命じる。
「んじゃあさぁ、俺と一緒に昼メシ食ってよ」
「え?」
「一人でもそもそ食っても美味くねーもん。だから命令、俺と一緒に昼メシ食って、話し相手になれ」
よくよく考えたら、別に主人じゃなくても、単にいつもの関係でも通じてしまう様な要求だったが、初めて「ご主人様」の命令らしい命令を出せたことで切原は大いに胸を張り、桜乃も笑って頷いた。
「はい、畏まりました、ご主人様」
(で…でもまだやっぱムズムズするっつーか…)
身体に流れる庶民の血は如何ともし難い…
それを身を持って体感しながらも、若者は何とか少しでもご主人様らしく振舞う素振りを見せつつ、自分の食事を準備した桜乃とテーブルを共にして、昼食を再開した。
「…アンタさ」
「はい?」
「料理に掃除に洗濯にって…すげぇ頑張ってるけど、嫌じゃなかったか?」
「何がですか?」
「いや、だからほら…人ん家の家事だなんて、やったって面白くねーじゃん、幾ら先輩達から頼まれてたっていってもさぁ」
「そうですか? 私は楽しいですよ」
何でもない、と言う様に桜乃はにこりと笑って本心からそう答える。
「そ、そお?」
「はい」
「…ふーん…まぁアンタがそう言うんなら別にいいけど…俺としてもアンタなら…」
「はい?」
「いや、何でもない」
断った後で『しまった』と思った。
ここで上手く話を繋ぐことが出来たら、自分達の関係も一歩前進したかもしれないのに…
(ま、まぁしょうがねぇか…次の機会に…)
そう考えている切原に桜乃が呼びかけてきた。
「あの、ご主人様、一応これだけ済ませておきました」
「ん?」
差し出されたのは、例の家事メモ。
その項目の中、洗濯やアイロンがけを含めたほぼ八割が終了を示すチェックを入れられていた。
「後は、残っている部屋の掃除を済ませて、お洗濯もの取り込んでアイロンかけたらほぼ終了になりますね。五時までには余裕をもって済ませられると思いますよ」
自分なら三日かかってもこなせたか分からない家事を、着々と済ませている少女に、切原は驚きの声を上げた。
「すげー! 何コレ!? もうこれだけ終わったのかよ!!……って、え? 五時…って?」
「ああ、すみません、お伝えしてませんでした。あの、私のメイドの期限、今日の五時で終わりだって幸村さんが…何かよく分かりませんけど、遅くなったら君が危険だって」
「……」
「夕方五時って言っても、まだ明るいからそんなに危険でもないんですけどね…約束は約束ですから、今日は五時でお暇させて頂きます」
(あンの先輩ども〜〜〜〜〜っ!!)
向こうが言っていた危険=自分であることを察した切原だったが、それを桜乃の目の前で暴露する訳にもいかず、せめて心の中で悪態をつく。
別にやましいことなんかしない!
あ、でも手を繋ぐとかキスぐらいまではちょっと考えたこともあるけど…いやいや…
(…つうか、俺、完全に先輩方の手の上で踊らされてね?)
テニスだけではなく、こっちでも戦わないといけないのだろうかと悩みつつ、彼は桜乃の不思議そうな眼差しを受けながら、複雑な気持ちで昼食を食べ続けていた……
それから切原は再び自室に篭り、桜乃は残っていた家事を片付けるべく再び奮闘していたが、丁度三時を過ぎた頃に全ての片がついた。
「ふぅ…終わったぁ」
アイロンをかけた衣類をぴしりと畳んで重ねて置き、アイロンのコンセントを引き抜いて、桜乃は大きく伸びをした。
これで指示されていた家事は全部こなしたし、切原が家族に責められることもないだろう。
大きな声では言えないが、今日の家事は自宅でやるより遥かに気合を込めたのだから。
(…最初に声を掛けられた時はびっくりしたけど…役得だったなぁ)
誰にも言ってない秘密を思い返し、桜乃は一人で微かに頬を赤くする。
(メイドってことで、切原さんの家に来て…普段の姿を見ることが出来たんだもんね)
学校とか部活の中での彼ではない、日常生活の中での彼の姿…
(相変わらず、やんちゃだったけど…切原さんらしい)
実は切原だけではなく、彼女もまた相手に対しては恋慕の情を抱いていた。
そんな桜乃にとって、あの幸村達からの連絡は、正に渡りに船だったのだ。
『竜崎さん、悪いんだけど、今度の土曜に切原のメイドになってくれない?』
どうして自分が選ばれたのか…実は切原が自分に恋心を抱いているとは夢にも思っていなかった桜乃は、当然そこで疑問には思ったが、あまり質問を重ねると向こうの頼みそのものが却下されるかもしれないと危惧し、余計な問いは一切しなかった。
このまま相手方の頼みを引き受けたら、自分は一日…短い時間ではあるが、切原の傍に理由をつけていることが出来る。
そして、彼の助けになる事が出来る。
下手に接触したら何処から企みがばれるか分からないということで、残念ながら切原本人への誕生日当日のお祝いメールは禁止されてしまったのだが、今日の埋め合わせ分で元は十分に取れただろう。
それに、顔を見てちゃんと言いたかったし、その願いも一日遅れだが果たすことが出来る。
(メイドっていうところがちょっと残念だけど…我侭はダメよね…でも、メイドみたいな口調でも、何となく奥さんっぽい…)
そこまで考えたところで、はっと桜乃は我に返って、一人激しくうろたえた。
(きゃ〜〜〜〜っ!! な、な、何考えてるの私っ! そうじゃなくて…今日は私はメイドさんなんだから、切原さんの、ご主人様の為にならなくちゃ…!!)
そうよね、ちゃんと五時までしっかりと働かないと…と考えつつ、桜乃は壁に掛けられていた時計を振り仰いだ。
三時を少し回った頃…昼食が終わってから、彼はまだ一度も自室から出てくる様子が無い。
(…中にいらっしゃるから、お掃除も切原さんの部屋だけしていないんだけど…押しかけてやるのも失礼よね…でも、お茶ぐらいは差し入れても…)
今日の五時になったら、自分はこの家を出て行って…メイドでもなくなり、次に呼ばれることがあるかどうかも分からない。
今のこの時間…少しでも長くあの人の傍にいられるなら…
(お茶の差し入れなら、お部屋に伺っても変じゃないわよね…うん、変じゃない…)
自分に言い聞かせるように心で繰り返しながら、桜乃はお湯を沸かしてお茶をいれ、それを切原の部屋の前へと持参した。
向こうからは、特に何かの音が聞こえてきたりはしていない。
「あの…」
『…はい?』
向こうから、呼びかけに応える様に彼の声が聞こえてきて、桜乃はノブを捻ってドアを開けた。
その視線の先に横を向く形で勉強机が置かれ、切原が座っている。
「わぁ…綺麗に片付いているんですね、ご主人様のお部屋」
「ま、まーな…」
さっきまで、戦場だったんだけどな…とは勿論言わず、切原は真面目に机に向かっている。
ゲームから慌てて机に移動したという気配は一切ない…ずっと机の前に座って、殊勝に勉強をしていた様だ。
「お茶を淹れました…一息つかれませんか?」
「ん、あ、ああ…サンキュ」
間接的な入室の許可を受けて、桜乃はトレーに乗せたティーカップを彼の許へと運び、静かに机の上に置いてやった。
どうやら、今は苦手な英語の勉強をしていたらしい。
「凄いですね、ちゃんとお勉強もなさってて…私、てっきりゲームをなさっているんじゃないかと」
「ま、まぁな、試験も近いし、やることはやらねーと」
「ご立派ですー」
純粋な気持ちで褒めてくれる相手の眩しい笑顔から視線を背け、切原はくぅっと心の中で涙を流す。
(ああ、純粋な尊敬の視線がメチャクチャ痛いっ…!!)
きっと彼女の目がなかったら、間違いなくゲームに手を伸ばしていただろうなーと思いつつ、その気弱なご主人様は受け取ったお茶を早速啜って一息つくと、何気なく右手で拳を作ってとんとんっと自分の左肩を叩いた。
「肩、凝ってるんですか?」
「んー、ちょっと英単語の書き取りやってたからさ」
「そうですか」
桜乃の納得の言葉が聞こえてきてから、拳を肩から離した切原はすぐにその両肩にさわりと何かが軽く乗せられる感触を覚えた。
「へ?」
軽く背後を振り返ると、そこには両手を自分の肩に乗せているメイドの姿。
「じゃあ、マッサージして差し上げますね」
「え!? い、いや、そこまで…っ」
実は、普段からやってないから慣れてないだけ…と正直に言うことも憚られ、言葉を濁している内に、桜乃はもみもみもみ…と切原の肩を優しく揉み解し始めた。
「いいんですよ、今日ぐらいは甘えてください」
「〜〜〜〜」
$F<切原編トップへ
$F=サイトトップへ
$F>続きへ