そんな事を言われると、本気で抱きついて甘えたくなる…
衝動を必死に抑えながら、切原は相手の触れてくる手の感触に意識を集中した。
今日だけのメイド、だから、この貴重な感覚を絶対に忘れない様に…
少しだけ物悲しさを覚えつつも、彼は相手の優しく触れてくる手のもたらす心地良さに夢中になった。
細く弱弱しい手だと思っていたが、なかなか上手くツボを押さえてくる。
「アンタ、上手いな」
「えへへ、そうですか?」
「ああ…すげぇ気持ちよくて…何か、眠くなっちまいそう」
そう言っている若者の声音に、すでに眠気が混じっているのが分かる。
心地良さそうに微笑み瞳をとろんとさせている姿が、背中側からでも容易に想像出来、桜乃はくすくすと笑った。
「少し、お休みになりますか?」
「んー……でもなー」
すぐに頷きそうになりながらも、その眠気に誘われつつ切原はちゃんと頭で考えていた。
相手の誘いに乗ってしまって昼寝を決め込んでしまえば、彼女はきっと邪魔をするまいと傍から離れていってしまうだろう。
眠っている間は関係ないとは分かってはいても、それでも、出来るだけ傍にいてほしい。
何とか、眠っている間にも彼女をここに引きとめる手はないだろうか…?
この子がここから動けないように、何とか…
(…あ)
そう長い時間考えることもなく、切原は一つの名案を思いついた。
(け、けどなぁ……ホントにいいのかなコレ…犯罪、じゃないにしてもちょっと)
これだ!というナイスアイデアなのだが、何故か彼はそれを実行に移すまでたっぷり十秒は迷って…そして、遂に実行に移す事を決定した。
「…じゃあさぁ…膝枕、してくんね?」
「え…!?」
予想通り驚いている桜乃に、切原は少し照れ臭そうに頭を掻きながら尚も頼んでみた。
いつもならすぐに引っ込めた願いかもしれないが、今日は自分の手許には最強のカードが握られているのだ。
「だからさ、膝枕。ご主人様の命令ってことで一つ。そこのベッドにアンタが腰掛けて、俺が寝たら出来るじゃん」
そう、今の自分は彼女のご主人様なのだ。
ようやくこの立場を利用する事に徐々に慣れ始めてきた切原は、眠気で理性の箍が緩んできている事も手伝い、桜乃に傍のベッドに座る事を促した。
「…ええ、いいですよ」
驚きはしたものの、その願いについては許容範囲だった桜乃はすぐに頷き、言われた通りにベッド脇へと腰を下ろすと、ぽんぽんと膝の上を軽く叩いた。
「さぁどうぞ、ご主人様」
「ん」
促され、切原はそのままごろんとベッドの上に横になり、桜乃の膝枕の上へと頭を乗せた。
普通の枕などとはまるで違う感覚と温かさに、感動さえ覚えて溜息を漏らす。
「うわ…すっげぇ気持ちいい〜〜」
「うふふ、そうですか?」
眠気の所為なのか、それとも嬉しさで舞い上がっているのか、切原は更に相手におねだりした。
「なぁなぁ、頭なぜて」
「え?」
「頭、優しく撫でてくれよ」
「…ふふふ、はい」
自分が言った通りに甘えてくる年上の若者に、桜乃は嬉しそうに笑って手を伸ばした。
さわ…さわ…さわ…
(う、うわ…触っちゃった…切原さんの髪の毛…)
膝枕もして、髪にも触って…自分、もしかして物凄いコトしてる?
この人の家に行って、普段の姿が見られるだけでも嬉しいと思っていたのに、ここまで役得でいいのだろうか?
(…でも)
どきどきしながらも、桜乃は喜びと共に、一つの不安も抱えていた。
(……私じゃなくても…他の誰かでも、こうやって甘えるのかな…)
甘えてくるのは、相手が私だからじゃなくて、何でもいう事を聞くメイドさんだからなんだろうか…?
悩む桜乃に、なぁ、とまた切原が声をかけてくる…かなり眠気が入った声だった。
「は、はい?」
「……もし、さ…」
顔を横に向けて視線を合わさずに、その若者はぼそぼそと小さな声で相手に尋ねた。
どうやら、眠気はかなり深刻なレベルで彼を侵しつつあるらしい。
「…俺がアンタに…キスしろって言ったら…アンタは、さ…」
「え…!?」
確かに小さな声だった…が、聞き間違えるほどの声でもなかった。
桜乃は、相手の台詞を間違いなく聞き取ったと確信し、同時にぼっと頬を一気に紅潮させてしまった。
キスって…それって、もしかして…!
どう答えたらいいのかすぐには思いつかず桜乃が考えあぐねている間に、しかし切原は自分からその発言を取り消してしまった。
「…いや…やっぱいい、今の、ナシ」
「え…?」
「相手が何でも言う事聞くからって…それはやっぱ違うじゃん…卑怯だよ、な…」
「…ごしゅ……切原、さん…」
つい、相手の名を呼んでしまった桜乃だったが、返ってきたのは何とも心地良さそうな寝息だった。
「…ぐぅ」
「ええ…!?」
もしかして、さっきの大胆な発言から、ずっと寝言!?
(ね、寝言…? 何処から何処までが!? で、でもキスって…やっぱり…)
ただの知り合いに…キスなんて、ねだらない…よね?
それからもぐうぐうと呑気に眠り続ける御主人様とは反対に、座ったままの状態でありながら、メイドはなかなか落ち着いてくれない動悸を抑えるのに必死だった。
結局、五時少し前に切原は目を覚まし…そのまま桜乃は元の服に着替えて、玄関先で暇を告げていた。
まだ切原の家族は帰る気配はないが、戻るまでそう時間は要しないだろう。
桜乃の姿を見られたら、きっと向こうは賑やかに騒ぎ立てるに違いないから、まぁタイミングとしては良かったのかもしれない。
手放さなければならない事は、非常に残念ではあったが…
「あの…お邪魔、しました。えと、切原さん、一日遅くなりましたがお誕生日、おめでとうございました」
「あ、ああ…その、ありがとさん」
向かい合って挨拶を交わす二人ともがやけにぎこちなく、特に切原は、歯切れが悪くなっている少女の様子を見ながら、心に嫌な汗をかいていた。
(うわ…や、やっぱ俺……アレ、夢じゃなくて、言っちまったのか…?)
朧気に覚えている、桜乃に対する大胆な要求…夢だと思いたかったが、生々しい相手の脚の感触と、浮かんでくるその時の少女の恥じらう姿は、夢と呼ぶには余りにもリアリティが有りすぎた。
(って事は、もうバレてるってコトだよなぁ…)
いつも天然なこいつがここまで赤くなってるって事は、そうとしか思えないし…じゃあ、自分がやらなきゃいけない事ももう、分かってる筈だよ、な?
このままここで何も言わずに別れてしまえば、何となくマズイ気がする。
お互いにもう一歩踏み込むことが、時間を置くことで難しくなってしまうかもしれない…
そんな見えない危機感が、切原の背中を遂に決断の時へと押し遣った。
「ええとさ…昼寝の時のコトなんだけど……あの時の俺の言葉は、ナシってことで…」
「…!」
瞳を見開いてこちらを見上げてくる相手に、切原は必死に自分の気持ちを表す言葉を探しながら、それを唇で紡いだ。
「そのっ…メイドだからとか、そういうんじゃなくてさ! アンタが嫌ならしょうがないけど、もし良かったら、今度はメイドだからってことじゃなくて、俺と一緒に…!」
ああ、まだるっこしい…!
どう言えば良かったんだっけ、こういう場合…もっと、もっと簡単に確実に、相手に気持ちを伝えられる言葉があった筈なのに、テンパって出てこない…!!
「だからその…っ」
過呼吸に陥りそうになりながら切原が必死に言葉を繋げていたところで、遠くの空の向こうからサイレンの音が響いてきた。
「…っ!」
突然聞こえてきた騒音に、はっと切原が顔を上げる。
外で遊ぶ子供達に時刻を告げるサイレン…という事は、今が、タイムリミットの五時、か…
「あ…」
メイドとかそういう『ごっこ』遊びは関係ない、と言いながら、ほんの少しだけ心の奥で寂しさを感じてしまった。
これでもう、彼女は今日の役割から外れて、元の知己という立場に戻ってしまうのか。
「…五時、過ぎましたね」
「……まぁ、な」
玄関の門を振り返る形で顔を背けた桜乃に、力なく切原が応じる。
答えをくれないってことは…やっぱり、軽蔑されちまったかな…
「じゃあもう、命令とか、関係ないですよね」
「……ああ」
確認を取った少女に、同じく小さく返した切原が視線を脇へと逸らし…その隙に、するりと首に両腕が回された。
(え…?)
そのまま、ぐい、と首に回された腕に引かれる形で切原の上体がやや前屈みになったかと思うと…
ちゅ…
「!?」
爪先立ちで限界まで伸び上がった少女が、優しく己の唇を彼女のそれで塞いでいた。
(え…!?)
咄嗟の事で訳が分からず、信じられず、切原の大きな瞳が更に大きくなったが、彼が我に返った時には、もう桜乃は顔を離していた。
但し、そのまま真っ赤になって俯き、切原の胸の中に留まる形で。
「え……アン、タ…」
「…命令だからじゃ、ないですよ…その、ちゃんと五時過ぎて…したんですから」
「!!」
これって、これって…成就でいいって…コト?
真っ白になった頭で考えながら、切原の腕がゆるゆると上がり、そっと相手の身体を抱き締める。
もっと素早く、獲物を逃がさない獣の様に動きたかったが、身体まで心のショックが伝染したのか、いう事を聞いてくれなかった。
(うわ…俺の腕、震えてる…)
幸い、相手の少女は野生の駒鳥の様に慌てて腕の中から逃げ去る事も無く、するりと大人しく腕の中におさまってくれたが、相変わらず恥ずかしいのか俯いたままだ。
無性にそれが勿体無くなり、切原は片腕だけ相手の身体から離し、それをそのまま彼女の頤に運んで上向かせた。
「顔、もっと見せて」
「あ…」
俺のものになったなら、もっとちゃんと俺に見せてよ…アンタを。
そう望み、その望みのままに相手の顔を間近で見た切原は、いよいよ歯止めが効かなくなっていく自身の心を自覚していた。
顔を真っ赤にして、瞳を潤ませて、伏目がちになっている少女の愛らしさを至近距離で見てしまったら、普通の男だったら堪らないだろう。
切原もまた、それの例外ではなかった。
「好きだ…桜乃」
そうだ…この一言が言いたかったんだ…俺。
ようやく思い出した若者は、それを告白できた喜びを噛み締めながら、今度は自分から少女へと唇を重ねた。
「…っ」
初めて…いや、さっきの彼女からのを数えたら二度目のキスは、最初よりずっと長く深かった。
相手の様に内気で遠慮がちなそれでは、とても満足できなかったのだ。
ようやく唇を離してから、切原は幸せそうに相手の肩に自分の顎を乗せる形で甘えながら言った。
「なぁ…これからずっと、恋人として傍にいてくれよな…メイドじゃなくてさ」
「は…はい……赤也、さん」
ようやく、恋人らしく名前を呼んでもらい、切原は嬉しそうに笑った。
「へへ……すげぇ嬉しいプレゼント」
一番俺が欲しかったもの…やっと、手に入れた……・
「そー言えば」
あれから日が幾日か過ぎ、切原は学校ではいつもと同じ日常を過ごしていた。
「よく考えたら、先輩方の俺へのプレゼントって、元手ゼロでしたよね。予算分、またどっか食べに行きません?」
「んー?」
放課後の部室、切原はふと思いついた事を銀髪の若者に言っていた。
「何の話じゃよ」
あの少女にメイド服を手渡したという詐欺師は、呑気にテニス雑誌を開いており、そんな相手に、だから、と切原は細かく説明を入れた。
「だから、アイツがウチに来てくれたのがプレゼントだったなら、お金掛かった訳じゃないっしょ? せいぜい仁王先輩の趣味のメイド服借りたぐらいで」
「ちょっと待ちんしゃい、いきなり人を変態呼ばわりするんは感心せんの」
そこで初めて雑誌から視線を外した相手だけではなく、他のメンバーも切原に注目した。
「だって、アレ、仁王先輩から受け取ったって言ってたッスよ」
「……ああ」
そして、ようやく思い出したらしい幸村が、ぽん、と手を叩いた。
「そうだった、言うの忘れてた」
「? 何がッスか」
不思議そうに尋ねた後輩に、幸村の隣に居た柳が答えた。
「お前への予算分は、無事にもう消費を済ませているぞ」
「へっ? だって…」
まだ何も…と言い募ろうとした切原に、丸井がとんでもない事実を突きつける。
「だからさ、仁王がおさげちゃんに預けたメイド服…アレ」
「…………え?」
そして柳生が続けて補足。
「幾ら仁王君でもそこまで変態じゃありませんからね。貴方へのプレゼント予算で彼女の身体に合うメイド服を購入し、預けたんですよ」
「何やら含みのある言い方じゃのう、柳生よ…」
相方に突っ込んでいる仁王の前で、切原が雪像の様に白く固まる。
なに…?
じゃあ、俺への先輩方のプレゼントって……あのメイド服!?
動けないでいる後輩に、ショック療法だとばかりに幸村がさくっと止めを刺した。
「君へのプレゼントだから、気に入ったなら君が着てもいいんだよ」
「着ねーよっ!!!!!」
恋の成就の切っ掛けになった彼らの心遣いに、一度は感謝しようと思った切原だったが、この時点で即座にそれは却下された。
「じゃあやっぱり、これからも彼女にあれを着せてメイドプレイを…」
「アンタらやっぱ絶対潰すーっ!!」
「楽しみだなぁ」
啖呵を切りながら、内心ではちょっぴり『それもいいかも』と思ってしまった切原が、それを押し隠しながらぎゃんぎゃんと騒いでいる様を、やれやれと真田達が遠くから眺め遣っていた。
「…嫌なら捨ててしまえばいいだけの話だろうが」
「真理だな弦一郎。確かに嫌なら捨ててしまえば片がつく……そう、『本当に』嫌なら、な」
しかしそうしようとしないということは…つまりそういうコトだ。
「……」
今更ながら贈り物の選択を誤ったかもしれん、と悩む保護者の向こうでは、相変わらずあの若者が賑やかに先輩達相手に騒いでいた……
了
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