ワガママなコイビト
立海大入学式
「いよいよ、晴れて今日からここの大学生かぁ…」
晴れた空の下、竜崎桜乃は入学式を終えて、これから自分の母校となる場所をのんびりと見て歩いていた。
式に参加してくれた家族は、一足先に戻ってお祝いの準備をしてくれるという。
しかし、そのお祝いが終わって一段落した後は、近くのマンションでの一人暮らしが待っているのだが。
「初めての一人暮らしだから、なんだかドキドキするなぁ…日常生活も不安だけど、学校生活もどんな感じなんだろう…良い先輩とかに恵まれるといいなぁ…」
心からの希望を小さな声に乗せてそう呟いた時だった。
校舎の中を歩いていた彼女が曲がり角を曲がろうとした時、いきなり向こうから誰かが飛び出してきて、二人は見事にぶつかってしまった。
「おっと!」
「きゃっ、す、すみません!」
思わず謝ると、すぐに若い男の声が心地良く響いてきた。
「いや、今のは俺も悪かったって…」
体勢を立て直して見上げると、黒いくせっ毛をもつ長身の男が、申し訳なさそうにこちらを見下ろしてきている。
大きな猫の目の様な瞳が非常に印象的な若者だったが、おそらく自分よりは年上だ。
と言う事は、ここにいるということは、先輩にあたる大学生なのだろうか?
「お怪我、有りませんでしたか?」
「ああ、へーきへーき!……」
気遣ってくれる女性に笑った相手は、気を取り直して、んーと改めて相手を見下ろした。
「?」
「何だ、大学見学か? 随分気が早いじゃん」
「はい?」
「ウチの高校の学生だろ? それとももしかして、入学式に出たヤツの家族?」
「……」
もしかして…もしかしなくても…自分、立海の高校生と思われてる?
それは確かに…そんなに背も高くないし…童顔って言われてるけど…入学早々そう言われると、ちょっと凹むというか、気が抜ける…
無言になった桜乃の反応を受け、相手の若者は違うのか?と再度考え…
「…ありゃ? まだ高二だった?」
更にダメ押し…!
「…今日、入学しました」
「い!? もしかして、大学一年生!?」
「そです」
「〜〜〜〜〜! そ、そうなのか!? いや、そりゃあ…すまなかったなぁ」
思い切り失言をかましてしまった事を自覚したらしい相手は、実に気まずそうに視線を逸らして口篭ってしまった……のだが、
『赤也――――――――――――っ!!!』
「?」
何処かから聞こえてきた、やけに気合の入った呼び声を耳にした途端、目の前の若者の顔色がざぁっと真っ青になり、彼の意識から目の前の女性に対する興味は完全に失われた様子だった。
「やっべぇ!! マ、マジですまなかったな! 俺急ぐから! じゃあな!!」
「あ…」
挨拶もそこそこに、彼はダッシュでそこから逃げるように走って行ってしまった。
いや…おそらくは本当に逃げていたのだろう。
「全く…何処に行きおった」
あの大声が響いてさして時間が経過することもなく、その場にまた別の男が現れたのだ。
彼もまた長身だったが、逃げていった若者と比して非常に厳格そうな顔をしており、また、体格も鍛え上げられた男性のそれだった。
「…む? 大学見学希望者か?」
「……」
またか…
ダブルショックに更に凹みながら、桜乃は欝な表情で答える。
「…今日、入学しました一年生です」
「む!? そ、そうか…それは…すまなかったな」
(…謝り方がさっきの人と似てる)
冷静にそんな事を考えている間に、その男もすぐに先に走っていった男を追いかけるべく足を動かした。
「すまんな、急ぐので失礼する!」
「は、はぁ…」
曖昧な返事しか返せなかったが、その他に返す言葉も無く、唖然としたままに桜乃は二人が走り去っていった方角をずっと眺めていた。
「……」
あっという間に別れてしまったけれど…ここの大学の学生だよね…どう見ても…
という事は、彼らは学部は不明ではあるけれど、明らかに自分の先輩である訳で…学部がもし同じであった場合は何かとお世話になるかもしれない人達、なんだけど……
(…どうしよう…何だか無性に不安になってきた…!)
果たして自分は、ここで平和な大学生活を送れるのだろうか…
もしかして、この大学を選んだ時点で、何かを決定的に間違ってしまったんじゃ……
「う、ううん、まさか、そんな事はないでしょ…悪い人じゃなかったと思うし、二人とも…最初の人も、随分人懐こい感じの人だったし、挨拶もしてくれたし…確か、名前が…」
彼自身は名乗らなかったけど、追いかけていた人が叫んでいた名前が、確か…
(…アカヤ…赤也さん…か…良い人みたいだけど…何だか賑やかそうな人だったなぁ)
その第一印象が正しかったことを、彼女はそれから間もなく知る事になる…
立海大は中学、高校、通しての一貫校であるが、流石にそれだけの規模を誇るだけあり、施設もかなり充実している。
大学内も、大講堂から小会議室、実験室や勉強室…様々な用途に合わせての部屋が数多くあり、生徒の学業を補佐する上で非常に良い環境となっていた。
無論、講義によって移動させられる生徒側の多少の犠牲はつきものになってしまう訳だが…
「ふぅ…一番乗り〜」
その日の午前の授業が終り、桜乃は午後の講義が行われる教室にいち早く来て、窓際の席に着席していた。
そこはキャンパスの中でも一際広い庭園に面しており、景観が非常に美しいのだ。
「暫くは誰も来ないだろうし、ここでご飯食べてのんびりしよっかな…んー、それにしても良い天気、ちょっと窓開けて風を入れよっと」
外は他にも多くの生徒達がそれぞれののんびりとした時間を過ごしており、実に平和な光景だった。
窓を開け、風を頬に感じ、さて、ご飯を食べようとひとまず窓に背を向けた時、何かが物凄い速さでこちらに走ってくるような音が聞こえてきた。
「?」
何だろう…と呑気に思いながら、弁当箱を鞄から出したところでゆっくりと振り返ると…
だんっ!!
「っ!?」
「よっと…!」
一際大きな靴音を響かせて窓枠に乗りあがり、一人の男が教室の中に飛び込んで来る瞬間だった。
逆光で相手が一つの影として映っている分、より大きく、より異質なモノに見えてしまい、桜乃は思わず悲鳴を上げてしまう。
「きゃああああ!!!」
「う、わ…っ!! やべっ!」
彼女の悲鳴で明らかに慌てた様子の相手は、驚きながらも部屋の中に踏み込んで、何を思ったか彼女へと迫りその手を伸ばした。
「や…っ!!」
拒む女性の口を、しかし相手はしっかりと押さえてきたが、掛けられた声は意外と優しいものだった。
『しーっ! 何もしねぇって!! 頼むから静かにしててくれ!!』
(……えっ?)
一瞬戸惑った隙に、相手は更に部屋の中へと踏み込みながら、桜乃の傍に立ってはっきりと自身の姿を晒す。
それを見たところで、桜乃の瞳は大きく開かれ、ぱちぱちと数回瞬きをした。
(この人…!!)
いつか…そうだ、あの入学式の時にぶつかった最初の人…名前、確か……
(赤也…って言ってた…)
相手がそんな事を考えているとは露知らず、相手の若者は部屋の中と自分が飛び込んできた窓の向こうを何度も繰り返し見ており、明らかに何かに追われた様子である。
「悪い! ちょっとだけ匿ってくれ!」
「え…」
言うが早いか彼は桜乃を自由にすると、窓際の壁の隅へ走り、カーテンの陰に身を隠した。
そこは、確かに窓からは死角になる場所であるが…
「?」
多少驚きながらも桜乃が相手に目を向けると、彼はカーテンからこそっと顔を覗かせ、しーっと人差し指を立てるジェスチャーを見せる。
『喋るな』という意思表示とも取れるのだが…一体誰に対して…?
その答えはすぐにあちらから飛び込んで来てくれた。
「赤也――――――っ!!」
「ひゃああああ!!」
先程飛び込んできた若者よりも派手な怒声を上げて、彼が飛び込んできた窓の外から、また別の誰かが身を乗り出してきたのだ。
思わず叫んでしまった桜乃に、相手もまた驚いたらしく一度は身を引く。
どうやら、彼女という存在がいるとは思っていなかった様子だ。
「う!? す、すまん!」
「あ…」
何とか悲鳴を抑えて、怒声を上げた犯人を見ると、彼もまた記憶に残る男だった。
(に、入学式にあの人を追いかけてた人だ……まさかまだ追っかけっこ続いているって訳じゃないんだろうけど…)
向こうは桜乃についての記憶はあるのかないのか定かではなかったが、彼は今はそれよりももっと重要なことがあるとばかりにざっと教室の中を簡単に見渡した。
死角であるカーテンの隅の逃亡者には気付いていない様子だが…
「…ここに男が来なかったか? 途中で見失ってしまったのだが…」
「は、ぁ…」
そうでしょうね、ここにいますから…とは心の中で答え、桜乃は戸惑いつつも追いかけてきた男に尋ねた。
「…以前にも追いかけていらっしゃった様ですけど…何かあったんですか?」
「む? そうか? いや…単に自主トレをサボっていたから、きつく言っておかねばならんと思っただけだ」
言うだけで、そこまで追いかけるというのはやや不自然な気もするが…
「自主トレ?」
「テニスのな」
「ああ、成る程…」
それにしても自主トレをサボったぐらいでここまで鬼の様に追いかけなくても…余程この人が厳格なのか、それとも普段からそうしたくなる程に相手のサボリ癖が酷いのか、或いは両方か…
(…まぁ、犯罪を犯した訳じゃなさそうだし…)
あまり人を貶めることを好まない性格の娘は、今回は赤也という若者を助けることにした。
「確かにそんな感じの方がいらっしゃいましたけど…もうあっちに行ってしまいましたよ? どうせここには入れませんから」
「? 入れない? 何故だ?」
訝しんだ男に、桜乃は少し大袈裟なジェスチャーで自身の身体を抱き、恥ずかしがる仕草を見せる。
「それは…これから私がここで着替えるからです。次が体育実習ですから」
「!!!」
単純に相手がここに入ってこないようにとの牽制のつもりだったのだが、彼は自分が予想していた以上に激しい動揺を見せ、被っていた黒の帽子を慌てて引き下げ自身の顔を隠してしまった。
余程、純情な男だったと見える。
「すっ…すまん!! 失礼する!!」
それ以上詳しく追求するでもなく、彼は急いでその場から立ち去ってしまった…
少々反応が過剰ではあったが、結果として桜乃の思惑通りになった訳だ。
「…ふぅ」
微かに息を吐き、桜乃はそこのカーテンを引いて視界を遮る。
嘘ではあったが、それらしく見せる為のカモフラージュだ。
「…行きましたよ」
「サ…サンキュ…」
追っ手の魔手から逃げられた開放感からか、赤也という若者はその場でへたり込み、はーっと息を吐き出した。
「わ、悪かったな…俺もすぐに出てくから…で、でもちょっとだけいさせてくんね?」
「いいですよ、別に本当に着替える訳じゃないですから」
「え…そうなの?」
「はい」
「…アドリブ上手いな、アンタ」
「うーん、ちょっと微妙な褒め言葉ですね…って、もしもし?」
言いかけた桜乃は、目の前で身体が傾ぎ、そのまま床にぺたんと倒れてしまった若者に早足で駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「あー…エネルギー完っ全に切れた…腹減ったぁ」
「どれだけ追いかけられてたんですか……お昼ご飯、食べにいったら…」
「弁当はもう食った…売店や食堂は、真田先輩が張ってる可能性が高いから行けねぇし…」
「いっそ素直に怒られた方が、楽になりますよ」
「アンタは先輩の鉄拳制裁を知らないからそんなコトが言えんだよ…ってか、まるで犯人の取調べだな」
自分が犯人側だという自覚はあるんだな、と変な感心をしながら、桜乃ははぁと息を吐き、仕方ないという感じで提案した。
「…私のお弁当でよければあげますよ」
「!!」
がばっ!!
「きゃ…」
「マジ!?」
上体を起こし、物凄くいい反応を示した若者の瞳が普通よりより大きくなって桜乃を真っ直ぐに見上げてくる。
「はぁ…そんなに沢山の量じゃないですけど」
「いい、いい! とにかく少しでも腹が膨れたらいい!」
ここで行き倒れになられても困るし、と桜乃はあっさりと自分の昼食を相手に与え、彼は早速それを開いて口の中にかっ込んだ。
「うめー! うめー! 生き返る!!」
「良かったですね」
「ああ、マジで助かった! サンキュー!!」
それから彼は瞬く間に彼女の昼食を全て平らげ、ようやく人心地がついたと息を吐いた。
「いやー…美味かった」
「お粗末さまでした…赤也さん…でしたね」
「? あれ? 俺、アンタに名乗ったっけ?」
「真田先輩が叫んでましたから…赤也って、お名前の方、ですよね?」
「ああ、俺は赤也…切原赤也ってんだ」
「初めまして…でもないですか、これでお会いするのは二度目ですし」
「はい? そうだっけ?」
「…高校生じゃなくてすみませんでした」
「…ああ!!!」
桜乃の意味深な台詞で、数秒後、ようやく切原は相手との初対面の現場を思い出し、明らかにうろたえ始めた。
「う、あ…えーと、その節は〜…」
「ふふ、いいですよ、もう気にしてませんから、切原先輩…二年生ですか? それとも…」
「ああ、俺は二年…真田先輩は三年…えっと、アンタは?」
「はい、竜崎桜乃です」
名乗られ、切原は数回復唱して、うんうんと頷いた。
「竜崎…竜崎、か…よし、覚えた」
「宜しくお願いします…と言っても、これだけ広いキャンパスですから、あまりお会いすることもないかもしれませんが」
「あー…まぁそうだな…」
「あまり走りすぎて、怪我しないで下さいね」
二度も現場を見ていますから…と言いつつ、桜乃はにこ、と人懐こい笑顔を切原に向け、それを間近に見た男は思わず心拍数を跳ね上げてしまう。
(うわ…こんな顔で笑うんだ、この子…)
二回とも、追いかけられたすぐ後だったから、気付かなかったけど…結構可愛くないか?
自分の事知らなかったのに、無条件で助けてくれたりしたし…ふぅん。
「…え?」
「あ?」
「何ですか?」
見つめていた事を訝しがられ、逆に問われてしまった切原は、慌てて手を振ってその場を誤魔化した。
「い、いやいやいや、別に何でもねーから、何でも!」
「はぁ…」
「…っと、そろそろ俺行くわ! メシ、美味かった。匿ってくれてサンキュな!」
心からの感謝の笑顔に、とき…と今度は桜乃の胸が敏感に反応する。
(や、やだ…何でドキドキしてるんだろ…)
挨拶もそこそこに、切原は今度は廊下へと出て、何処かに走り去っていってしまった。
このまま、あの先輩に見つからずに逃げられたらいいのか、それともいっそ捕まった方が彼の為なのか分からないが…
(…何となく、逃げ切れない気がするのは私だけかしら)
不吉な思いを胸に抱えつつ、桜乃は切原を静かに見送っていた……
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