そんな小さなトラブルが起こるのも、大学生活におけるちょっとした刺激のスパイス…と誰かが言うかもしれない、しかし…
(大学生活という並ラーメンに、胡椒一瓶丸ごとぶちまけた様なトラブルって…)
 多分、そうそうないだろうな、と桜乃は考えながら学食で買ったパンを片手にぼんやり考えながらキャンパスを歩いていた。
 あれから、もう殆ど会わないだろうと思っていた切原に、桜乃はほぼ毎日会うようになってしまっていた。
 何故かは分からない…偶然か、或いは必然か、それもはっきりとはしない。
 しかしあれ以来、何故か切原は追われている時には必ずと言っていい程、桜乃の目の前にいきなり現れては、匿うように頼むようになっていた。
 一度だけ…と思ってはいたが、困っている人に頼まれたら断れない性格だった事も災い(?)し、桜乃はそれ以降、幾度となく切原を真田の魔手から救っている。
 面倒であれば切り捨ててもいいのだが…どうにもそれについては気が進まなかった。
 相手が先輩という立場もあるかもしれないが…やけに気になるからだ。
 先輩、後輩という立場に関係なく…他の男子生徒達よりどうしても意識してしまう…そして、彼に会う度に感じる動悸は、決して驚きによるものだけではないとも、薄々感じていた。
(…何だか最近は、私まで真田先輩に目を付けられているような気が…)
「竜崎」
「はい」
 不意に呼びかけられ、振り向いた先には、今考えていた厳格な方の先輩が腕組みをして立っていた。
「……やっぱり」
「何だ?」
「あ、いえ、何でもありません…どうしたんです? 今日は切原先輩とは会っていませんよ」
 最早、断り方も慣れたものである。
「うむ…すまんが少し時間はあるか?」
「え? ええ…別に…何です?」
「いや…俺の親友からアドバイスを貰ってな」
 傍に寄り、自分の方へと身体を向けてくれた桜乃に、真田は自分から頼んでおきながら、不可解だという表情を露にする。
「赤也を捕まえたいなら、アイツを追いかけるのではなく、お前と楽しそうに話すのが一番だと…俺にも訳が分からん」
「私もさっぱりです…誰方ですか、そんな事を仰ったのは」
「クラブで参謀的な役を担ってくれている男でな…アイツの言葉は十分に信用に足るものなのだが、今回の件については少々疑念を抱いている…お前と話して、何故それがアイツを呼び出す事に繋がるのか…」
 うーむと唸る真田だが、そう言われても桜乃本人もさっぱり理由が分からない…
「…二人で切原先輩を捕まえる作戦を立てていると思われて、それを阻止しようと向かってくるとか?」
 桜乃の意見に、真田は何を言うかとばかりに渋い顔を浮かべてみせた。
「いつもお前はアイツを庇ってばかりだろうが…その位は俺でも見抜いているぞ?」
「う…すみません」
 ついつい切原には甘くなってしまっている裏事情を、どうやら向こうもお見通しの様だ。
「…まぁ、アイツもそんな後輩を持てたという事実については、喜ぶべき事かもしれんな」
 厳しく見えて、実は切原の成長を何より喜んでいるのかも知れない真田の心に、桜乃は嬉しくなって首を傾げ、微笑んだ。
「ふふ…切原先輩って、幸せですね。こんなに後輩思いの先輩に恵まれて」
「か、からかうな、竜崎…」
 和気藹々としたムードの中で二人がそんな事を語らっている時だった…
「竜崎!?」
「きゃっ…!」
「むっ…」
 予言的中…
 真田の親友が下したアドバイスの通り、そこに二人の間に割り込む形で、切原が飛び込んできた。
(うわぁ―――――っ! 本当に来た〜〜〜〜!)
 何処から走って来たのかは分からないが、随分と焦っていたのか、息が荒く、肩が上下している。
「え…切原先輩?」
「何だよ、真田先輩と何話してたんだ?」
 何となく、いつもよりきつい表情をしているのは、気のせいだろうか…?
「あの…」
「赤也、この間の日誌の記録、なっとらん! 今日の内に必ず書き直しておけ」
 切原の雰囲気に違和感を感じていた桜乃が戸惑っている一方で、真田はそんな事は知らないとばかりに早速用件を切り出した。
 それに対し、ほんの少し怯んだ様子を見せた切原だったが、何とかその場は頷いて了承の意志を見せる。
「わ…分かったッスよ…で、他には?」
「ん?」
「…竜崎とは他に何話してたッスか?」
「何を言っとるんだお前は…ただの雑談だ。話すほどのこともない」
「けど、コイツ笑って…」
「うん?」
「……いや、いいッス」
 尚も食い下がろうとした若者は、疑問の瞳を向けてきた先輩にそれ以上の発言を控えると、ちらっと桜乃の方へと鋭い視線を向けた。
「…日誌、訂正しときますんで…コイツ、ちょっと借りていいッスか?」
「ふむ? 俺は用も済んだし、特に構わんが…竜崎の都合も考えろよ」
「はい…竜崎、ちょっと」
「は、はい…あ、真田先輩、失礼します」
「うむ」
 少し慌しい挨拶になったが、取り敢えずは先輩に最低限の礼儀を果たして、桜乃は切原について歩き出した。
「何ですか? 切原先輩」
「…さっき、真田先輩とナニ楽しそうに話してたんだよ」
 またその話題…?
 自分、何か気に障るようなことをしてしまったのかと不安になった桜乃は、何とか誤解を解こうと相手に説明する。
「本当に何もありませんってば…切原先輩って良い先輩に恵まれてるって話してただけですよ」
 その言葉を聞いて、切原の足が止まり、それに続いて桜乃のそれも止まる。
「…は? 何だよそれ」
「だから、切原先輩がいつも気にかけられてていいなってお話ですよ。真田先輩、厳しそうに見えても、本当は凄く優しいですよね」
「そんなの別に…アンタだって優しいじゃんか…それに、さ、俺は…」
 何かを言いかけたところで、今度はまた別の誰かがその会話に割って入ってきた。
『おーい、竜崎―』
「え…? あ…」
 声を掛けてきたのは、少し離れた場所にいた同部の生徒だった。
 無論、桜乃と同学年であるため、切原は見た事が無い男の学生だ。
「すみません、切原先輩、少しだけ待ってて下さい」
「う…」
 急いで切原にそれだけ断ると、桜乃はそちらの男性の方へと走って行ってしまった。
 引き止める理由もなく、切原はただその場に留まり、彼女が見知らぬ男性と何かを話しこんでいる様子を伺うしかなかった。
「……」
 桜乃が手にしていたファイルから数枚のレポート用紙を差し出している様子が見える。
 どうやら、講義の内容か、それに近いものについての情報を相手に提供している様だ。
(……相変わらず優しいヤツ…)
 けど…今はその優しさが癪に触る……俺に向けた優しさと、そいつに向けた優しさは、同じものなのか…?
 お前にとって、俺と、そいつは…イコールで結ばれる様な同等の存在なのか…?
 そんなの、俺は…
 思う切原に、桜乃が再び駆け寄って来た。
「すみません、切原先輩。ノートの一部を書き写させてほしいって人が…少ししたら返してもらえますから、先に何処かで待っていてもらえませんか…?」
「……やだね」
「え…?」
「…俺を優先しろよ、相手が誰でも」
「はい…? え、ちょっと…」
 ぐい、といきなり腕を掴まれると、桜乃はそのまま引っ張られる形で、近くの校舎棟に連れて行かれ、その玄関の支柱の影に連れ込まれた。
 普段から臨時的な行事で使用される場所だからだろうか、棟内もその玄関先にも人影はまばらであり、二人に気を向ける学生達は皆無に等しい…まぁ、貴重な昼休みなら当然だろう。
「き、切原先輩!? どうしたんです?」
「どうもしてねぇよ…アンタに会ってから、俺はずっとこうさ…アンタが知らなかっただけ」
「知らな…って」
「誰にでも良い顔するんじゃねぇよ…俺にだけ笑ってくれてたらいいのに、他の奴らにまでそんな笑顔を向けて…正直ムカつく」
 相手の一方的な要求に、勿論桜乃は面食らいながらも反論する。
「そんな横暴な…」
 しかし、その意見の全ての台詞を言うことすら許されなかった。
「横暴結構! アンタに関しちゃ、ナニ言われたって構わねぇよ…俺を差し置いて誰かがアンタを傍に置くなんて、許せねぇんだ!!」
「っ…!!」
 その言葉が、只の好意からくるものではない事をすぐに察した桜乃は真っ赤になった。
 それまで相手を見上げていた視線がさっと下に下ろされ、顔も俯き、上げられなくなってしまう。
 そんな彼女に、切原は言ってしまった勢いで更に想いをぶつけていく。
「俺を見ろよ、俺だけ見て、俺のコトだけ感じて…俺だけ好きになって」
「切原…先輩…」
『あれ? 竜崎―――――っ、何処だ―――――――?』
 遠くで、レポートを貸した学生が桜乃を呼ぶ声が響いている。
 咄嗟に、桜乃はそちらへと視線を向け、その場を離れようと試みた。
 切原が嫌いではない、拒むつもりもない…実はこっそり嬉しいとさえ感じている。
 ただ、今のこの激しく荒れてしまった感情のまま、相手と向き合うのはあまりにも恥ずかしかった…答えるまで、少しでいい…時間が欲しかった。
「よ、呼ばれてます…から…」
 踏み出そうとする相手を、切原は前を身体で塞いで行く手を阻み、肩を抱いて捕まえる。
「せんぱ…っ」
「行くな…!!」
「けど…っ」
『竜崎―――?』
「!!」
 自分達のすぐ傍…ほんの数メートル先をあの男が視線を動かしながら歩いていることに気付いた切原は、桜乃を相手から隠すように柱の更に影へと連れ込み、そして…彼女の声を塞ぐように唇を重ねた。
「…っ!!!」
 驚かない筈はない。
 瞳を見開き、しかし声を漏らす事は出来ず、桜乃はせめて相手の腕をぎゅうときつく握り締めた。
「〜〜〜〜っ!!」
 僅かに離れた男の唇から、呻くような、苦しげな声が漏れるのを、彼女は確かに聞いた。
『何処にも…行くなよ…』
「……」
 あまりに苦しそうで、切な気で、責める言葉すら見失う。
 結局…唇を離されても、桜乃は最早何も語らず、自分を探している学生に答えることもなく、そのまま遣り過ごしてしまった。
 探す声が遠くなっていくに従い、二人の耳に聞こえる喧騒も更に小さくなっていき、暫くして、切原はゆっくりと俯けていた顔を上げつつ身体を離した。
 勢いに乗り、自分勝手な気持ちで相手の唇を奪ってしまった事実は誰よりも自身が知っている。
「……りゅう…ざき、その…」
 ぎゅうう〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!
「ひぎぎぎぎっ!!!」
 何かを言う前に、切原は桜乃から左頬を思い切り抓られてしまった。
「!?!?」
 不届きな男の頬を自由にしたところで、相手の娘はむーっと拗ねた表情も露に若者を非難した。
「言うだけ言って、ちょっと勝手過ぎるんじゃないです!?」
「う…っ…わ、り…けど…」
 本気なんだ、と続けようとした彼に、向こうが先制攻撃をかける。
「勝手なコト言って、肝心なコト、言ってくれてませんよ…?」
「え…?」
「人に好きになれって言っておいて…切原先輩は…まだ何も…」
 言ってくれてない…でしょ?
「!」
 相手が何を言わんとしているのか察し、今度は切原がぎょっとした目で桜乃を見る。
「え……竜崎…?」
 反応が今ひとつの男に、痺れを切らせた様に懸想の相手がつーんとそっぽを向いた。
「…人のファーストキス奪っておいて、勝手過ぎます……振・り・ま・す・よ?」
 最後の一文字ずつ切りながらの脅迫に、切原は戸惑う暇も与えられず慌てて声を上げた。
「う、あ…! 分かった! そのっ……好き、だっ! アンタだけが、大好きだからっ!!」
 図らずも大声で告白することになってしまった男は、宣言後に顔を真っ赤にし、同じく拗ねた顔で桜乃を見つめる。
「〜〜〜っ…クソ、言ったぜ、これでいいだろ!? お、俺だって、初めてだったんだからな!?」
「…我侭な言い方は相変わらずですけどね」
 ふぅ、と半ば呆れた様に小さく笑うと、娘は徐に顔を寄せ、今度は自分から切原にちゅっとキスをした。
「!!!!!」
「…いい、ですよ……私も切原先輩、大好きですから」
「竜崎…!」
「けど、他の人にわざと冷たくするなんて酷い事は出来ません…私がこういうコトをするのは切原先輩にだけですから…それで許してくれませんか?」
 先手を打たれてしまい、桜乃からのキスに喜んでいた若者はうっと詰まりつつも…少し悩んで仕方ないと首を振った。
「……まぁいいぜ、俺を名前で呼んでくれたらな」
「え…?」
「俺がお前にとって特別だって証…妥当なトコロだろ?」
 どうあっても桜乃からは特別扱いしてほしいらしい若者の提案に、相手は首を傾げ、にこっと笑った。
 そして、少し恥ずかしそうに身体をもじ…と揺らせつつ…
「…赤也さんがそう言うなら、そうしますね…?」

 ずきゅ――――――――んっ!!!!!

「お、おう…それで、いいぜ……桜乃」
 見えない弾丸で心臓を打ちぬかれた様な衝撃と、初めて感じる言い表せない幸福感に、軽い眩暈を感じながら我侭な若者は頷いた。
 本当、だよな? 現実、だよな?
「…なぁ、抱き締めていいか?」
「え…?」
「へへ…何だか夢みたいでさ…もう一度確かめたいんだ」
「…くす…どうぞ?」
「サンキュ」
 愛しい女性にいきなりキスをした大胆さと、意志を確かめる繊細さを持ち合わせた若者は、承諾を受けて子供のように嬉しそうに笑い、ぎゅっと相手を抱き締める。
「なぁ、桜乃」
「はい…?」
「…好き」
「…はい」
「ずっと好き、だからさ…きっと世界で一番、俺が…」
「私も、ですよ…赤也さん…」
 誰も見ていない二人の世界は、それからも彼らを優しく静かに包み、緩やかな時を刻んでいた…






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