恋の分け前


「腹減った…」
「お前、今さっき朝食食ったばかりだろうが…」
 立海大附属中学三年生の丸井ブン太とジャッカル桑原は、今、砂浜に立って目の前に広がる海原を眺めていた。
 今は朝食時間が終わった一時…自由に過ごしていい時間帯になるので、彼らだけでなく他の生徒達もちらほらと砂浜に姿が見える。
 彼らは、本来この期間はテニス合宿を行っている筈だったのだが、その地に向かう途中の客船で台風に見舞われ、ここまで救命ボートに乗って何とか辿り着いたのだ。
 そう、一番有り体に言うと、自分達は遭難している真っ最中なのだった。
 命が無事で、身体にも怪我を負った者は一人も出なかったのは幸いだった。
 辿り着いたこの島にも、人が住めるような簡素な住居、豊富な水、食料などがあった事も有り難い。
 後は何とか誰かが自分たちを見つけてくれるまで、ここで一致団結し、生き抜いていけばいい…事は分かってはいるのだが。
「食いモンが足んねい!!」
 そう、それが彼、丸井ブン太にとっての最重要問題だった。
 日本にいた時から彼の食欲は並ではなく、それは日常の食事でもおやつでも間食でも変わりはない。
 そんな彼にとって、食材の確保、節減が大前提でもあるこのサバイバル生活は、他の生徒よりも一際ストレスが高いものだと言えよう。
 だからと言って自分だけ我侭を言う事も出来ない…その程度の分別は弁えているつもりだ。
 しかしながら肉体的な欲求の抑制は如何ともし難く、食事を摂ったばかりにも関わらず、彼の胃袋は早くも抗議の声を上げていた。
「あああ…ハンバーグ定食と豚カツ定食と焼肉定食が食べたい…デザートはパフェとクレープとプリンアラモードで…」
「言うな、聞くだけ空しくなる」
 どうやら空腹を耐えているのは丸井だけではないらしく、ジャッカルも渋い顔をしながら腕を組んでいた。
 どちらも、いや、ここにいる生徒全員が食べ盛り、育ち盛りの男の子なのだ、それも当然の話だろう。
 しかし、一人だけ…彼らと少々事情が異なる人物がこの合宿に加わっていた。
 それは…
「あれ? お早うございます、丸井さん、桑原さん」
「おう、竜崎か」
「あー、おはよーおさげちゃん」
 そこを通りがかった一人の少女が、二人に挨拶し、彼らもまた親しげにそれを返した。
 親しくはあるが、実は彼らは同校の生徒ではなく、女子の方は青学の一年生で名を竜崎桜乃という。
 テニスは嗜むものの、今回の合宿の参加メンバーではなかった彼女が何故ここにいるかと言うと、同じ船に乗ってバカンスに行く予定だったのである。
 しかし、台風の影響で、彼らと同じ遭難の憂き目に遭ってしまったという訳だ。
 今は男子生徒達に混じって、彼女も生きていく為に色々と協力して作業を行っている。
 皆が美味しい食事にありつけているのは偏にこの娘の腕前に拠るところが大きく、その点では彼女は丸井にも非常に感謝されていた。
 それに、海側で共同作業を行っていく内に、元々が子供っぽくてやんちゃな丸井と、最年少の桜乃は特に意気投合し、仲良しになっていた。
「おさげちゃん、今日の朝メシも美味かった〜、あんがとなー」
「そうですか、良かったです。折角の食材ですから美味しく作って残さず食べてもらいたいですからね」
「はは、食べ物が余るなんてのは考えられないな…特にコイツに関しては」
 ジャッカルが相棒を指し示すと同時に、丸井が縋る様な目を桜乃に向けた。
「なぁおさげちゃん…食事の量、もっと増やせねぇの?」
「う〜ん…増やしてあげたいのは山々なんですけど、どうしてもこれだけの大人数だと…それに、新しい食材が獲れなかった時の事も考えると、考えなしに使う訳にもいきませんからね。どうしても足りなければ、海側の責任者の跡部さんと相談してみたらどうでしょう?」
「やっぱそーなるか〜〜…」
 かっくりと項垂れて、しおしおしお…としゃがみこむ丸井に、桜乃が不安げに声を掛ける。
「だ、大丈夫ですか? 一応、生きるに足る分は配給しているつもりですけど…」
「心配するな、コイツは日常生活で食いすぎなんだ、少しここでまともな量ってのを身体に覚えさせた方がいい」
 ジャッカルがそう言ってフォローしたが、それでも桜乃は丸井を気遣いつつ、あ、と思い出した様に自分のポケットを探った。
「あまりお腹の足しにはなりませんが、これ、要りますか?」
 そう言って取り出されたのは、未開封の、スティック上に梱包されたキャンデー二本。
 よく売店のレジ付近に置かれているようなものだ。
「要る!!!」
 久し振りに目にする、見た目鮮やかな色彩の包装紙に丸井は一も二もなく飛びついた。
 桜乃はそれらを一本ずつ、未練もない様子で丸井とジャッカルに手渡す。
「他の方には内緒ですよー」
「うんうんうん!! 誰にも言わねー!」
 言ったら分け前減るからな!とちゃっかり考えている丸井の隣では、ジャッカルが申し訳なさそうに相手とキャンデーを交互に見つめていた。
「い、いいのか? 全部貰ってしまって…」
「はい、バカンスに行った先で食べようかなって思ってたんですけど、こんな事になってしまうとそういう気にもなれなくて…皆さんはよく動かれますから、甘い物とかいいんじゃないですか?」
「そりゃそうだが…」
「もっとない!?」
 ジャッカルの会話に割り込んで、更に丸井がおねだり攻撃を仕掛けてくる。
 こうなったら、殆ど餌を漁るハイエナ状態…に見えなくもなく、桜乃は苦笑しながらも少し考えてから答えた。
「そうですね…荷物の中に、まだお菓子とガムが残っていたと思いますよ」
「ガム!? それホント!?」
「ええ…でも、風船を作れるタイプじゃなかったと思いますけど…それでも良かったらお譲りします」
 その瞬間、丸井の中での桜乃の地位が、一気に急上昇した。
 何しろ彼の好みのタイプは物をくれる人…しかも食べ物とあれば更に倍率ドン。
 加えて、こんな入手困難な非常事態にくれるとあれば、それはもう拝み奉ってもいいぐらいだ。
「マジで!? 貰う貰う!! ありがとーおさげちゃんっ! もし食いモン以外で困ったことがあったらいつでも言ってくれい! 出来るだけ力になっからさ!!」
 元気良く請合う丸井に、桜乃はそうですか?と嬉しそうに笑った。
「じゃあ、あの…もし皆さんが外を探索に行かれた時に、おばあちゃんを見つけたら、私にもすぐに知らせて下さい」
「!…あ」
「…そっか、おさげちゃんは竜崎先生の孫だったっけ」
 この合宿は生徒達だけで行われる予定ではなく、各校の引率の教師が無論計画にも携わり、参加していたのだが、桜乃の祖母である竜崎先生を含めた大人達全員が、遭難の際に行方不明になってしまっていた。
 彼らと同級で「参謀」と呼ばれている男は、ほぼ間違いなく彼女たちもここに漂着していると言ってはくれたのだが、言葉だけで姿が見えないと不安に思うのは当然の心理だ。
 しかもこの少女はかなりのおばあちゃんっ子でもある為、祖母が行方不明であるという事実は、自分自身が遭難したという事実以上に心の負担になっている。
 こんなに素直で優しい子だから、余計にそれが不憫で仕方ない。
「分かった、心配するな。ちゃんと覚えているから」
「俺達も出来る限りで先生たちの行方を捜してみるから、お前も気を落としたらダメだぞ、竜崎。元気を出せよ」
「はい」
 きっと、二人だけではなく、生徒全員が思ってくれているだろう事だったが、彼らは改めてその決意を桜乃に表明し、彼女とは一旦その場で別れた。
「…身内がいなくなったら、そりゃ気落ちもするよな」
「あんまりその話題は彼女の前では振らない様にしよう。俺達と違って、あいつは繊細みたいだからな…早く見つかってくれるに越したことはないんだが…」
「うん」
 そのジャッカルの意見には丸井も異論はないらしく、素直にこくんと頷いていたのだが…
「…あ、お菓子いつ貰いに行こっかな〜」
「……お前ほんっとうに人の話を聞いてんのか?」
 どうしても相手の真剣度を信じられないジャッカルだった……


 以後も、特に大きな事件もなく生徒達は日々生き抜いていたのだが、大きな事件がないという事は、教師達の行き先も依然不明だという事実に他ならなかった。
 そんなある日のこと…
「おりょ、どしたんだいおさげちゃん、あんま食べてねーじゃんか」
「あ、丸井さん。いえ、私食べるの少し遅いんですよ…そうだ」
 既に夕食を全て食べ終わった丸井は、まだ食堂に座っていた少女に声を掛けると、彼女は顔をそちらに向けて申し訳なさそうに笑った。
「丸井さん、まだ食べられます? ちょっと、箸つけちゃいましたけど、もしお腹空いてたら…」
 食べませんか?という最後の誘いを聞く前に、既に丸井は身体を乗り出して相手をじっと覗き込んでいた。
「いいの!?」
「ええ、私はもうお腹一杯ですから。ちょっと多く取り分け過ぎたみたいで」
「じゃあ貰う! 勿体ないし、俺も腹減ってるし!」
「夕食、終わったばかりですよ?」
「量の問題!」
 くすくすと笑う桜乃の視線を物ともせずに、あっという間に丸井は残っていた食事の全てを食べ終えると、そこでようやく人心地がついたのか、改めて相手を見つめた。
 細く華奢な身体は確かに女性特有の柔和な線を描いており、薄着の所為でそれは一層強調されている。
(ほそっこいな〜〜、女って小食だけど、やっぱ身体が小さいからか? まぁ今回はそのお陰でラッキーだったけどな、俺には)
「…あ、あの、何か?」
「! わり、別に…えーと」
 つい、相手をじっと見つめてしまっていた事に気付き、丸井は慌てて誤魔化すように頭を掻いた。
「えと…あ! そうだ!」
 そして思い出した様に相手にこっそりと耳打ちする。
『あのさぁ…朝に話してたお菓子なんだけど…』
「あ! そうでした!」
 話すだけ話してすっかり忘れていた、と桜乃も思い出した様子で丸井に小声で返す。
 流石にこういう話を周囲に漏らすわけにはいかない。
『ごめんなさい、うっかりしてました。食器を片付けた後は私は時間ありますけど、丸井さんは?』
『OK、OK! じゃあさ、終わるまで待ってるから。そんなに急がなくていいぜい?』
『分かりました、終わったら、私のロッジでお渡ししますね』
『あ、それとも手伝おうか?』
『大丈夫です、そんなに大変じゃないですよ』
 そんな密約が交わされ、丸井は桜乃が手際よく食器を洗って片付けていく様を、少し遠くの広場から窺っていた。
(しかしよくあれだけちこまか働けるよなぁ…まぁ俺達の練習程じゃないだろうけど、イマドキの若い子にしちゃ珍しいんじゃないのかい?)
 自分も若いのにしれっとそんな事を考えている若者が、うーんと唸る。
(作った物も美味いし、掃除もこなすし、文句言わないし…こんな大変な時に、自分の分のお菓子とかガムとかあっさり俺にくれちゃうし…すっげぇいい子じゃん?)
 きっと、自分以外でも同じ様に考えている奴いるんだろうな〜と思ったところで、もやっとした感情が彼の心に生まれた。
(あ、あれ? 何だよい、それって別にいいことじゃんか…何で、こんなに不安になる必要が……お菓子だってもう、今日俺が貰うし、先に取られる心配もないのにさ…)
 あれかな? まだお菓子貰ってないから、完全に安心出来てないからかな?と自分なりに解釈しているところに、ようやく一仕事終えた桜乃が向かってきた。
「ご、ごめんなさい丸井さん。お待たせしました、行きましょう」
「ん、あ、おさげちゃん、そ、そんなに待ってねーからさ、気にすんなよい」
 いつまで考えても答えが出るとは思えなかった悩みを丁度良く止める事が出来て、丸井は内心ほっとしながら桜乃と合流し、彼女のロッジへと向かった。
「わりーな、何か、押しかけなくても良かったかも…」
「いいえ、別に見られて困るものもありませんし、こんな状態で来た場所ですから、散らかりようがありませんし」
「……」
 既に自分の住んでいるロッジは、結構散らかっている状態なんですけど?
 丸井は、今自分が割り当てられているロッジの内情を思い出して無言になる。
 確かに他のメンバー達もいるし、彼らの分の荷物も責任の一端を担っているが…
「どうしました?」
「い、いやいやいや、そ、そうだよな…散らかるってもなぁ…」
「ですよね。掃除も楽でいいですけど」
 更にぐっさーっと胸に手痛い一言を受けてしまった若者が返事に窮している間に、二人は桜乃のロッジに到着し、その中へ入った。
 確かに、桜乃の言葉の通り、何もない…おそらく荷物は部屋の片隅に置かれているバッグの中にまとめられているのだろう。
(なーんか身につまされるなぁ…)
 怒られない方が心に響くってこともあるんだなーと若者が実感している間に、桜乃はそのバッグに近づいて、中をごそごそと漁り始めた。
「えーと、えーと…あった」
 中もしっかり整頓されているのか、さして時間もかけずに、桜乃は目的のお菓子類を全て持ち出して丸井へと見せた。
 キャンデーが入った袋が数種類と、ガムが数本、そしてポテトチップス系の袋。
「おおおおお…」
 キラキラキラ…と瞳を輝かせた若者が、最早崇拝レベルで桜乃を見る。
「よ、予想以上に大量なんだけど…どんだけ貰っていいの?」
「あ、全部いいですよ」
「え!?」
 まさか全て貰えるとは流石に思っていなかったらしい丸井は、信じられない様子で桜乃を凝視する。
「……俺、そんなに金は…」
「いえ、借りるつもりはないですから」
 そんなあこぎな…と苦笑しながら彼女は手際よくそれらをビニル袋に入れると、相手へと差し出した。
「どうぞ? 私から貰ったことを言わなければ、どなたかと分け合ってもいいですから」
「い、いや…多分、俺だけで消費すると思うけど…」
「くす…お腹壊しても知りませんよ?」
「大丈夫、日頃から鍛えてるし」
 自信満々な相手にもう一度笑うと、桜乃はこくんと頷いた。
「喜んで頂けて良かったです…じゃあ、私は広場に戻りますけど…」
「あ、俺も…一回これロッジに置いてから、行こうかな」
 取り敢えずここから出ようと、二人は再び外に出た…ところで、
「丸井さん」
「ん?」
「明日から、もし私が食事を残しそうだったら、その分を丸井さんのお皿に予め乗せておいてもいいですか?」
と、桜乃が意外な申し出をしてきた。
「え!?」
「…ちょっと、私には多すぎる気がして…」
 御迷惑ですか?と訊く少女に、若者はぶんぶんぶんと首を横に振る。
 とんでもない、大歓迎だ。
「な、何か俺、貰ってばっかだけど…いいの?」
「ええ、いいですよ」
 頷いた相手に、丸井はすっかり上機嫌になる。
「おおラッキー!! サンキュー!」
 大喜びで礼を言い、途中、行き先の関係上別れた丸井の背中を見送っていた桜乃は、それが見えなくなったところで浮かべていた笑顔を消し、上空を見上げた。
 月も星も美しく輝いていたが、それも彼女の心の曇りを晴らす事は出来ない。
「……おばあちゃん、今日も見つからなかった…」
 ひそりと呟かれた声は、誰にも聞かれる事はなかった。



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