その次の日から、食事時の丸井のプレートにはささやかな変化が現れていた。
 毎食時、丸井は明らかに自分の取り分が他の生徒よりも多い事実に気付いていた…まぁ、元々そういう面には敏感な若者だったから、当然と言えば当然の話である。
 その余分は何処から来ているのか…それも十分に分かっていた。
(マジで小食なんだな〜〜〜…)
 最初は、女性の身体との相違を改めて確認する程度に留まっていたのだが、しかし、それが翌日以降もずっと続いたところで、流石の丸井もおかしいと、その不自然さに気付きつつあった。
(ぜってー変だ!…)
 何度目かの、自分限定割り増し定食を前にした時、彼は聞こえない声で叫んでいた。
 おかしいって、これ…!
 ここに来て少しずつ食材の確保には手馴れてきた自分達だが、それでも食事量が増えてきている訳ではない、あくまでも現状維持の状態だ。
 なのに、自分の取り分はあの日からまた更に増えている…つまり、更に彼女の食べる分は減っているという事だ。
 最初の取り決めの時にはほんの少しの余りを貰うつもりだったのに、今や彼女の取り分の半分は自分が奪っているんじゃないのか!?
 流石の丸井も、人を飢えさせてまで無神経に食べるコトは出来ない。
(アイツまさか…俺が腹減った腹減ったってばかり言ってたから、無理して俺に分けてんじゃねーの…?)
 だったら、そんな事はすぐに止めさせて、必要な分は食わしてやんねーと…
 ちら、と背後に座っている少女の様子を伺うと、彼女はいつもの様に座って、今は他のメンバー達と談笑していたが、何となく顔色が悪い。
 やはり、食べていない影響なのか…
(…今は目立つから言えないけど、午後の落ち着いた時にでも確認しないとな…)
 そう心に強く思いながら、実行を誓った丸井だったのだが……


(ああ、気持ち悪いなぁ…)
 桜乃は、炊事場でペットボトルに冷水を詰めながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
 幾つものペットボトルが、テーブルの上に水を入れられた状態で並べられている。
 様々な場所で活動している他の生徒達に水を提供してあげようと、いつも桜乃が自主的に行っている事だった。
(おばあちゃんの事考えたら、心配で食欲なんか湧かないよ…最近は眠れなくなってきちゃったし…やっぱり身体に力入らないのも当然よね)
 ここに来てサバイバル生活を始めて…未だに祖母が見つかっていない。
 それは徐々に少女の精神を蝕み、全ての欲求から彼女を遠ざけつつあった。
 気丈に他人にはいつも通り振舞ってはいるが、ここ最近の身体の違和感を、桜乃は確かに自覚している。
 理由は…食欲低下に伴う食事量の減少。
 不健康な生活になりつつある事は自分でも分かっているが、皆が獲って来た貴重な食材を残すぐらいなら、あの若者に譲った方が余程ましだと彼女は考えていた。
 自分には大した力仕事も出来ない、そんなに食事を摂れなくても支障はない。
 しかし彼らは、栄養不足で倒れるなどあってはならない…特にあの人は食欲旺盛だから、少しでも食べてもらわないと…
「………」
 ぼうっとした頭で、冷水にボトルをかざし、水を入れていた桜乃の意志を呼び戻したのは、背後から呼びかけてきた声だった。
「竜崎さん?」
「!」
 はっと我に返った桜乃は、その時初めて、自分が手にしたボトルに既に水が満たされ、飲み口からそれが溢れている事実に気付いた。
 あれ…私、何してたんだろう…勿体無いことしちゃった…
 貯水タンクからの配水を止め、ボトルを持ちながら顔をそちらに向けると、そこには丸井と同じ学校で、テニス部部長の幸村精市が立っていた。
「どうしたの?」
 穏やかな笑顔で尋ねられ、桜乃はぷるぷると首を横に振った。
「いえ、すみません、ちょっとぼーっとしていました」
 何だろう…幸村さんの声がちょっと遠く聞こえる気がするけど…
 少女が違和感を感じている間に、相手はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「水を分けてもらいに来たんだけど…いいかな」
「はい、いいですよ、じゃあこれ…」
 丁度、汲んだばかりの水を入れたボトルを相手に手渡そうと、桜乃がくるっと振り向いた時…その勢いに引っ張られるように世界までもがぐるりと回った。
(え…?)
 くらぁ…と、視界は目の前の幸村から何故か天井へと移っていき、夜が訪れた様に暗くなる。
(なに…?)
 不思議には思ったものの、思考が続かない…気が遠くなってくる…
『竜崎さん!?』
 すぐ傍にいる筈の幸村が遠くで呼んでいる様な気がしたが、それを最後に桜乃は瞳を閉じ、眠るように意識を手放してしまった。

「…あれ? おさげちゃん?」
 自分が海に食材を探しに行っている間にそんな事態が生じているとは知る由もない丸井は、ようやく空いた時間で桜乃に会おうと彼女を探したのだが、何故か姿が見えない。
「っかしーなー…いつもならここにいるのにさ」
「おい丸井、聞いたか?」
 広場から炊事場に足を踏み入れた彼がきょろっと辺りを見回したところで、相棒のジャッカルが傍に寄って来た。
「何だよい、ジャッカル」
 正直、今は桜乃を探すのが最優先で、丸井は相手の言葉を半分聞き流していたのだが…
「竜崎が倒れたらしいぞ」
 続けての言葉に、ぴた、と身体を止め、ゆっくりと振り向いた。
「…え?」
 呆然とする相棒に、ジャッカルは桜乃のロッジの方へと振り向き、指差した。
「ここで水汲んでて倒れかけたところを、幸村が偶然助けたらしくてな…まぁ、すぐに意識も戻って今はロッジで休んでいるらしいが、やっぱりこの生活は女子にはきついのかな、気の毒に……お?」
 そのジャッカルの視界の中に、今、自分が状況を説明している筈の赤髪の若者が背を向けて走っていく姿が映った。
 無論、こちらの説明そっちのけで彼女のいる場所へと向かっているのだ。
「…丸井…もう少し人の話を聞く癖は出来んのか」
 ジャッカルの呟きも聞く事もなく、丸井は真っ青になって桜乃のロッジへと向かったが、途中で幸村に出会ったところで足を止めた。
「幸村!?」
「ブン太…?」
「おさげちゃんは!?」
 開口一番そう尋ねた相手に、立海の部長は少し困った様子で笑った。
「大丈夫、軽い貧血みたいだ。でも今は眠っているから、お見舞いはやめてあげなよ?」
「……」
 相手が大事無いと聞いても、変わらず暗い表情で俯く部員に、幸村は全て察しているという様子で続ける。
「君がそういう顔をしているんじゃないかって、彼女が心配していたよ」
「え…?」
「…君に食事を譲ったのは、竜崎先生の安否が心配で、あくまで食欲がなかったからだそうだ。だから、気に病む必要はないって」
「……」
 無言を保つ仲間に、幸村はぽんと肩を叩く。
「食事をちゃんと摂る様に叱る役目は俺がしておいたよ。ブン太、女の子はか弱いんだ…身体だけじゃない、心だって大事に扱わないとね」
「う…」
 返す言葉もないとはこの事だ。
 ゆっくりと歩み去ってゆく幸村の背中を暫く見つめた後、丸井は痛みを抱えた面持ちのままに、少女の眠るロッジを振り仰いで、そこから動けずにいた……


「……ん…」
 桜乃が目覚めた時、昼間だった外はもうすっかり夜だった…が、部屋の中は持ち込まれていたランプで仄かな灯りで照らされていた。
 今の彼女はおさげを解いた姿で、目を開いた後も暫く動かなかった。
 暫く…と言っても僅か数秒だが、ここに至った経過を思い出したところで、彼女は何故ランプが灯っているのかと訝しく思う。
 あれから…幸村さんが運んでくれてから、誰かが持って来てくれた…?
「…え!?」
 何気なくベッドの隣へと視線を移したところで、桜乃の眠気は一気に吹き飛ぶ。
 丸井さん!?
「ぐぅ……」
 ベッドの隣に置かれていた椅子に、逆を向く形で座っていた若者が、その背もたれに抱きつく形で眠っていた。
 彼の存在にも驚いたが、その姿もいつもと異なり、テニスウェアーが土汚れに塗れ、所々、彼の身体にも泥が付着している。
 今日は、何か特別なトレーニングでもしていたのだろうか?
(ど、どうして丸井さんがここに…とにかくこの体勢じゃ辛そう、起こした方がいいよね)
 狼狽しながらも上体を起こした桜乃は、ベッドから身を乗り出す形で丸井へと手を伸ばし、その腕を軽く揺すった。
「丸井さん…? あの…丸井さん…?」
「んにゃ…?」
 揺り起こされた男は、顔を上げて寝惚け眼で桜乃を見つめ…徐々にそれが開かれ、全開したところで、椅子を倒しながら彼女に抱きついた。
「おさげちゃん!! 良かった〜〜〜っ!」
「きゃあああっ!」
 思わず受け止めたものの、華奢な身体で加速度のついた若者の身体を支えられる筈もなく、二人はそのままベッド上で重なってしまった。
「まっ…丸井さんっ!?」
「マジで心配したんだぜい、おさげちゃん! 全然起きねーから、もう目を覚まさないんじゃないかって…」
 相手は今の二人の状態を理解しないまま、嬉しそうに尚も抱きついてくる。
「い、いえ…起きました…目も覚めましたから…」
「……あ」
 まじっと見つめてくる少女の様子に気付き、続いて二人の際どい姿勢に気付き、丸井は慌ててベッドから飛びずさる。
「わわわわっ!! 悪いっ!!」
「い、いえ…」
 身を起こした桜乃はまだ視線を逸らしていたが、ランプの灯りに浮かぶその姿がこの上なく艶っぽくて、丸井も視線を合わせられなくなってしまう。
 やべ…このままだと俺、何か、とんでもないコトしちまいそう…!
「……あ、あのさ、おさげちゃん! 俺、アンタにお礼持って来たんだ!」
「え・・?」
 話題を無理やり変えようと、丸井は椅子の足元に置いていたビニル袋を取り上げると、中の物をごろんとベッド上に取り出した。
 赤い、お手玉の様な球体が五つ…
「あ…すももですね?」
「おう! 山の中で見つけて来たんだぜい! これ食って、元気出せよな」
「…どうして」
 どうしてこれを?と首を傾げる少女に、丸井は、だってさ、と沈んだ表情を浮かべた。
「だって…俺が、気付かなきゃいけなかったのに…アンタがそこまで辛かったコト。なのにさ、俺、食べ物貰える事ばかり喜んでて、本当にごめんな…?」
「丸井さん…」
「…これからもっと気をつける…もう、食い物くれなんて我侭言わないから…自分の事、大事にして……そして俺の事、許してほしいんだ…」
「いいえ、そんな!…あ、もしかして」
「…っ!?」
 不意に、桜乃の手が丸井の頬に触れた…僅かに泥が付着していた頬に。
「丸井さんが汚れているのは…もしかして、これを探す為に…?」
「っ!!」
 柔らかな指先が頬に触れ、淡い光を宿した潤んだ瞳が自分を見つめてくるのを間近で見てしまい、丸井の頭のヒューズが吹き飛んだ。
 ダメなんだろうな…付き合ってもいないのに、こんなコトするなんてさ…けど、俺は、俺以外の奴にコイツを取られたくない…
「おさげちゃ……桜乃」
 ぎゅ…っ
「!?」
 初めて相手の名を呼び、丸井はぎゅっと相手の身体を抱き締めた。
「…俺がずっと…守ってやっから」
 だから…何処にも行くな……
 小さな囁き…しかし確かにその言葉を相手の耳元で紡ぐと、丸井はすっと身体を離して、声を失っている桜乃に笑い、そのままロッジから出て行った。
「じゃあ、また明日な」
 その言葉を残して、帰り道を辿りながら、丸井はあーあと溜息をつきながらも笑っていた。
(何だよい…結局、とんでもないコトしちまったなー…明日、どんな顔で会お)
 と言っても、いつもみたいに笑うしかないんだろうな。
 きっと向こうは真っ赤になってるだろうけど、それでも可愛いだろうから…
「…俺のものになってよ…桜乃」
 いつか、ここを出る時にそう言ったら…彼女は受けてくれるだろうか?
 成就を願いながら、若者は月の明りの許、ゆっくりと歩いて行った……






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