カムフラージュ


「う〜、やられた」
 部屋に差し込む陽ざしの中、青学の一年生である竜崎桜乃は清々しい朝からいつになく沈んだ面持ちで鏡とにらめっこしていた。
 見ている先は、しかし顔ではなく、自分の首筋。
 右側の、やや身体の真横に位置する箇所だった。
 そこが、良く見ると、半径一センチ程度に赤くなっている。
 更に目を凝らして見てみると、中央部が少し盛り上がった状態だった。
 夏の風物詩でもある、蚊にやられてしまったらしい。
 眠っている間だったのをいいことに、敵は思い切りよく桜乃から血を拝借したらしく、腫れは結構大きなものだった。
「昨日窓開けたのがいけなかったなぁ…痒い〜」
 顔をしかめながら、桜乃はその箇所に生じる耐えがたい痒みに、指を伸ばして軽く掻いた。
 そして、その刺激で自分を誤魔化しつつ、そのまま居間へと向かう。
「おや、今日は髪を結ばないのかい、桜乃」
 孫の珍しい髪を流したままのスタイルに、同じく居間にいた祖母が声をかける。
「うん、ほらここ、蚊に刺されちゃって真っ赤になってるでしょ?」
「どれ?…おやおや、派手にやられたねぇ」
「首を見せたらここが目立っちゃうから、今日は横を編み込んでいこうと思って。髪を下ろしていたら陰になって、あまり見えないと思うし…」
「そうかい、そりゃ構わないけど…薬も付けていきなさい、薬箱の中にあったと思うからね」
「はぁい」
 祖母の言いつけに素直に応え、桜乃は言われた通り引き出してきた箱の中から鎮痒作用のある軟膏を取り出し、ぬりぬりと患部に塗りつけた。
 即座に全ての痒みが治まる訳ではないだろうが、幾分かはましになる筈である。
(うーん、今日からはちゃんと予防策を講じないとね)
 そう思いながら、桜乃はそんなささやかなトラブルに見舞われつつも、いつもと変わりなく学校へと向かって行った。


「う〜〜…」
 その日の授業も滞りなく終わり、桜乃は放課後になった今も、右手を自身の右側の首へと伸ばし、軽く指先を動かしていた。
 今彼女がいる場所は、青学ではなく立海の男子テニス部が練習を行っているテニスコートである。
 立海のレギュラーメンバーと夏の間に知り合い、仲良くなった彼女は、最近よくここを訪れては練習内容を見学させてもらっているのだった。
「やぁ竜崎さん、久しぶり」
「こんにちは、幸村さん」
 訪れたら、先ずは許可を貰わないと、ということで、桜乃が部長である幸村のいる場所に向かうと、相手はいつもと変わらない笑顔で少女を歓迎してくれた。
 この夏にようやく大病を退け、克服したばかりの若者だが、佇む姿はそれを感じさせない程に堂々としている。
 しかし堂々としていながらも、何処かその中に柔和な空気を漂わせているのも、彼の不思議な魅力の一つだった。
「見学に来たんだね?」
「はい、今日は大丈夫ですか?」
「うん、いいよ。ええと、予定としてはこちらのコートで基礎練習、向こうで試合を行うつもり。どちらでも好きな方を見たらいい…ところで、今日はイメチェンかい?」
「え…?」
 不意に問い掛けられ、コートの方へと視線を遣っていた桜乃が相手にそれを戻すと、幸村が微笑みながら桜乃に首を傾げて尋ねた。
「いつもはおさげなのに、今日は違うんだね、珍しいな…そっちも可愛いけど、どうしたの?」
「ああ、これは…」
 あっさりと恥ずかしい事を言った相手に軽く頬を染めながら、桜乃はさら、と肩に掛っていた髪を手で避けつつ、原因となった患部を相手に見せた。
「ちょっとしたカモフラージュです。昨日、眠っている間に刺されちゃったみたいで…」
「ん…うわ、結構腫れてるね、痒いんじゃない?」
「そうなんですよ、物凄く痒くて…朝に薬も塗ったんですけど」
「ふぅん…ああ、そうだ」
「?」
 何かを思いついた様に徐に幸村が一時その場を離れ部室に戻り…一分もしない内に戻ってくると、その手には小さなビニル袋に入れられた数片の氷が握られていた。
「じゃあこれをあげるよ」
「氷、ですか?」
「刺された場所って炎症を起こしているから、熱を持つと痒みが酷くなるんだ。だから逆に冷やすと多少でも痒みは和らぐよ。見学している間の暑さ対策にもなるし、持っていきなよ」
「わぁ、有難うございます」
 ひえひえ〜と心地よい冷感をもたらすプレゼントに、少女がにこやかに礼を述べた時だった。
「お、ナニしとるんじゃ、お二人さん」
「やぁ、仁王か」
 二人の様子を何処からか窺っていたらしい銀髪の詐欺師が、皮肉の笑みを口元に浮かべながら歩いてきた。
 仁王雅治だ。
「竜崎も久しぶりじゃの。わざわざ放課後にウチまで通うとは、感心感心」
「いえ、そんな…皆さんの練習を見学するのはためになりますし、折角許しも得られたんですから、出来るだけ勉強したいなって…」
 実力的にも青学と立海のテニス部のレベルは非常に伯仲したものなので、外から見ると立海に近づく桜乃はスパイではないかと穿った見方をされるかもしれないが、立海の面々は割と早々とその可能性を否定するに至った。
 そこには、接していく内に理解した桜乃の呑気な人となりに加え、参謀である柳蓮二の、
『彼女が青学のスパイである確率は、様々な面から考えてもゼロパーセントだ』
というお墨付きもあり、更に…
『そーゆー企みなんぞ思いつきもせん子じゃよ、深く考えるだけ労力の無駄じゃ』
という立海きっての詐欺師である仁王雅治の断言のお陰もあるだろう。
 下らない杞憂で気を揉むのも馬鹿らしい。
 元々素直な桜乃に悪からぬ感情を抱いていたメンバー達は、それからも彼女とは極めて良好な友人関係を結んでいるのだった。
「ほうそうか…よしよし」
 殊勝な年下の娘の言葉に、仁王がにこりと笑いながらなでなでと相手の頭を撫でる。
 何気ない動作に見えるが、普段から天の邪鬼で知られるこの男が、手放しで女子の頭を撫でるのは、実は非常に珍しいことなのだ。
「仁王、丁度良かった。もし向こうのコートに行くつもりなら、彼女も一緒に連れていってやってくれないか。俺はまだここで弦一郎を待たないといけないから」
 勿論、詐欺師が桜乃を非常に気に入っているという事実をとっくに見抜いていた幸村が相手にそう指示すると、向こうは断るでもなくあっさりと頷いた。
 普通の天の邪鬼なら却って拒否しそうなものだが、こちらに不利益及ぼす事なくメリットがある事象については、仁王は引き受ける事はやぶさかではないらしい。
「ああ、別にええよ。じゃ行くか、竜崎」
「は、はい」
 促され、桜乃はすたすたと歩き出す仁王の後ろをちょこちょことついて行った。
 コートまでの距離は当然それ程長いものではなく、部員でもある仁王は桜乃を案内したらそのまま練習に参加する為にコート内へと入って行く。
「じゃあの」
「はい」
 それからは、部員達は例外なく練習に集中し、桜乃は彼らを邪魔することなく見学に勤しんだ。



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