やがて部活は恙無く終了し、全員が帰宅の途に着く中、桜乃の隣に一人の若者がいた。
練習前に彼女をコート脇へと誘導してやった仁王だ。
「お前さん、今日はもうそのまま帰るんじゃろ。最近は何かと物騒じゃけ、駅まで送っていくぜよ」
「すみません、仁王さん」
「先輩と一緒の方がよっぽど物騒なんじゃ…」
どかっ!!
「うわーん!! 仁王先輩が蹴った、これってイジメだ暴力だーっ!!」
「お前が人の暴力言えた義理じゃねぇだろい」
「今のは赤也が悪い」
後輩が丸井やジャッカルにびしっとダメだしされている隙に、当人の仁王はさっさと桜乃の肩を抱いてその場を離れ、学外へと歩いて行った。
二人きりで歩き出し、間もなく口を先に開いたのは仁王だ。
「今日の髪形はいつもと違うのう、どうした?」
「あ、これは…」
桜乃は部活が始まる前、幸村にしたのと同じ説明を仁王にも行い、納得を得た。
「そうか、蚊に刺されたんか」
「はい…痒みがましになるだろうって、幸村さんが氷をくれました」
にこ、と微笑んだ桜乃に対し、仁王はほんの少し困った様な笑みを浮かべてみせた。
「ふぅん…俺はてっきり、お前さんが浮気しちょるのかと思ったぜよ」
「う、浮気って…」
「そうじゃろ? 他の男にあんなに顔を近づけるのを許しとったんじゃけ。下手な理由なら、幸村でも許さんかったが……ま、ギリギリセーフじゃな」
「〜〜〜」
相手のあっけらかんとした台詞に、桜乃は何も言い返せずに真っ赤になったまま押し黙った。
只の友人…或いは学校を超えた先輩、後輩の間柄だったら、浮気という言葉そのものに反論出来ただろう。
それが出来なかったというのは…つまりはそういう事なのだ。
実は二人は最近、恋人同士になったばかり。
しかも、今まで立海内外問わず、告白してきた女子の全員をあっさり振ってきた仁王の方が桜乃に入れあげてしまったらしいのだ。
彼の親友である柳生の話だと、見た目は普通でもその内面の変貌ぶりは凄かったらしい。
『誰かを想って机にうつ伏せてため息をつく彼の姿を、初めて見ましたよ』
とは、その紳士の弁。
因みにその時、周囲の人々は、『機嫌が悪いか腹でも減ってるんだろう』としか思わなかったらしい。
親友の眼力というのもなかなかあなどれないものだ。
まぁ色々あって、仁王は結果的に晴れて桜乃との恋愛成就に成功し、今に至る。
「…虫刺されだけじゃなく、顔まで真っ赤じゃな」
「仁王さんが恥ずかしい事言うからです」
「お前さんが可愛いから言いたくなるんじゃよ」
「〜〜〜〜〜〜〜!!!」
桜乃を恋人に得た今となっては、過去に懊悩した事など微塵も感じさせない翻弄っぷりである。
「も、もう…止めて下さい。ああ、何だか顔が熱くなっちゃいました…」
照れた様子で頬に手を当てた桜乃が、そのままするりと指先を首筋へと走らせ、あの虫刺されの場所を軽く掻いた。
「うー…かいかい」
「ん?」
「いえ…火照ったらなんか、また痒くなってきちゃって…」
尚も爪を軽く立てようとする少女に、仁王が手を伸ばしてそれを止める。
「ああ、あまり掻きむしったら傷になるじゃろ、我慢しんしゃい」
「うう、我慢はしたいんですけど…」
この痒みはなかなか…と辛そうな表情を浮かべる桜乃の首筋に、仁王がひょこりと顔を近づけ、腫れている箇所を凝視した。
朝よりも幾分かはましになっているが、それでも腫れが引いている訳ではない。
しかも今、多少でも掻いてしまった所為もあるのか、赤みも十分に見てとれる。
「…結構、吸われたんじゃの」
「はい、眠っている間でしたから気がつかなくて…」
そんな事を言いながら、仁王はまだじっと桜乃の首筋を見つめている。
いつもはここまで顔を近づけ、首筋を眺める機会はそうない。
元々色白で、今日のいつもと違う髪形で隠された細い首筋は、皮肉屋の彼の瞳にもとても艶めかしく映った。
自分なりに大事に想っている、可愛い恋人の首筋に残る傷跡。
いずれ消えるものだとしても…つけたのが人でなく只の昆虫なのだと分かっていても、それにすら嫉妬してしまいそうになっている自分に呆れてしまう。
この子を傷つけるものは誰であっても何であっても許さない。
万が一傷をつけるにしろ、それが許されるのは自分だけだ。
この『傷跡』さえも、自分だけのものに変えてしまいたい。
「…仁王さん?」
全く動こうとしない相手に、不思議そうに声を掛けた桜乃に、相手がぼそっと呟いた。
「…ああ、これなら丁度いいかのう…痒みも少しは抑えられるかもしれんし」
「え…?」
聞き返す声に返事はなく…そのまま桜乃は首筋に何かが触れると同時に、痒みが紛れる奇妙な刺激を感じた。
「え…っ」
柔らかく温かい何かに、首筋のあの場所をきつく吸われていた。
それが彼の唇であると知ったと同時に、膨れていた場所を軽く舐められる感覚まで分かってしまい、桜乃の身体がたちまち硬直した。
「ちょっ…におうさん…っ」
「ん…?」
身体を捩ろうにもいつの間にか両肩を抑えられ、逃げ場を失った桜乃に、仁王は相変わらず唇をつけたままきつく吸いたてている。
「や、ぁ…っ」
びくびくと身体を小刻みに震わせ、小さく声を上げる少女のそれを聞きながら、仁王は見えない筈の彼女の今の表情を心の中に忠実に描いていた。
真っ赤になり、瞳を潤ませながら、何を懇願しているのか自分でも分かっていないだろう艶めく唇を必死に動かして。
そうだ、そのまま。
そうして、俺に縋りつけばいい。
お前の腕は、俺に縋りつく為にあるようなもので、俺の腕は、お前を捕える為にあるようなものだ。
「…ふ」
満足したように仁王が唇を歪めながらそれを相手の首筋から離した後には、そこにくっきりと虫刺されによるもの以外の跡が残されていた。
自分の所有物であるという証が残せた様に、悠々と笑う若者とは対称的に、桜乃は必死に精神力を総動員して相手の『奇襲』から立ち直りつつも激しく狼狽していた。
「な、な、な…いきなり何するんですかぁ! ちょっ…跡…」
「ああ、バッチリ残っとるよ」
「うわぁぁーん!! どうしてくれるんですかこれーっ!」
「虫刺されじゃろ?」
「そうですけど…ってそうじゃなくてぇ!!」
言いたい事はそうじゃない、と訴える桜乃に面白そうに笑った後で、仁王がぺろっと小さく舌を出す。
「ええじゃろ、ちょっとやってみたかったんじゃ、キスマークってやつ…けど、どうせ吸うなら俺はやっぱり唇がええのう」
「っっっ!!!!!」
新たな身の危険を感じた少女がずざっと身を引いた…ものの、元々立っていた場所も幅がそう広くもない歩道。
運動神経も大違いの二人。
桜乃が再び恋人の悪だくみの餌食になったのは言うまでもなかった……
了
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