萌え(?)よ絵心
「今度の海原祭の提出イラスト。テーマは『萌え』という事に決まったよ」
『は?』
月曜日は、立海大附属中学男子テニス部のミーティングの日。
レギュラーメンバーが揃っての、本日の議題は、そういう幸村の一言から始まった。
季節は夏も過ぎていよいよ秋にもなろうかという微妙な時期。
立海でも世の中で言う文化祭の海原祭が近づき、着々と水面下で動きが始まっていた。
それぞれの出し物の企画はまだ先として、生徒会から各部に伝えられた文化祭パンフのデザインテーマについて、幸村が忠実に伝えると、みんなは一様に『?』な表情を浮かべた。
「…萌え?」
ジャッカルが反芻しながら切原へと視線を向けると、彼もまた、同じく困惑した目で相手を見返す。
「聞いたことはあるッスけど…」
「ウチに関してはそれこそ範疇外じゃろ、それは」
詳しい事を知る人間がここに一人もいないことを察した仁王が、肘をついていかにもやる気なさげに呟き、相方の柳生は眼鏡の位置を直しながらため息をついた。
「…こういう出し物の書籍物に関しては、どうしても文化系の部の意見が強く尊重される傾向にありますからね…」
毎年のパンフレットには当然各学校の各部の紹介が載せられるのだが、その時に文章と共に掲載されるイラストなども各部が準備する事になっている、まぁ、当然と言えば当然だ。
そして年ごとに一つのテーマが決められており、それに準じた作品を提出することになっているのだ、因みにその捉え方は各部に一任されており、ある程度の自由度は守られている。
「美術部と漫画研究会が、一致団結して生徒会に殴り込みをかけたらしいよ」
「他にやることないのか?」
幸村の補足に、妥当すぎる程に妥当な答えを返したのは、参謀の柳だった。
そして、それまで黙考していた真田が、悩みながらも自分なりの見解を示す。
「…草木の萌える様ということは、エコロジーが今年のキーワードなのか? まぁ、世間を賑わせているし、社会への問題提起というのなら良い機会だが…」
「真田副部長…多分、副部長の考えているモノとこの言葉には、暗くて深いミゾがあるッスよ」
「ん?」
後輩の言葉に真田が更に眉をひそめ、彼の隣に座っていた部長の幸村も、『え?』と首を傾げた。
「そうなのかい? じゃあ、この『萌え』って、そもそも何?」
部長の素朴な一言に、全員が一瞬沈黙…
「えーと、だからほら…それって…」
説明しようとした丸井だったが、言葉が途中で途切れ、視線はせわしなく宙を彷徨う。
「…具体的に説明しようとすると難しいですね」
柳生もどう言えばいいものかと困っている様子で仁王を見たが、相手は銀髪を揺らして肩を竦めた。
「定義を言ったとしても、それで完璧に理解出来るもんでもない。大体、世間で言ってる奴らもフィーリングで使っている場合が多いんじゃないのか?」
「奥が深いな」
よく分からないが、真田が感心している…
「蓮二は知ってる?」
幸村の問いに、相手は珍しく困り果てた様な顔で首を横に振る。
「…若者に流行っている一つの定義だと聞いたことはある。過去に少しインターネットで語義を調べたこともあるが、その意義は擬似恋愛的な愛であるということぐらいしか…途中から俺には難解過ぎて理解不能だった…何となく、知恵熱が出ていた様な気もする」
他の部員達は柳に視線を合わせず、敢えてそっぽを向いていたが、心の中では激しく『そうだろう』と頷いていた。
結局、部の要である肝心の人達が、そもそも主旨を理解していなかった、或いは勘違いしていたというワケだ。
「お前でも理解不能なものを要求するとは、今年は随分レベルが高い行事になりそうだな、蓮二」
「うむ…しかし何故か一抹の不安が…」
「二人とも、とにかく全く理解出来てないと描けるものも描けないよ。取り敢えずは大体のイメージだけでも掴まないと」
(レベルが高いと言おうか、低いと言おうか…健全過ぎるのも問題…っつったら偏見か?)
くしゃ…と頭を軽く掻きながら切原がうーんと唸っていると、その様子を見た幸村が、びしっと彼に指先を突きつけた。
「じゃあ、レギュラーで一番若い切原。取り敢えず、『萌え』について知ってることを語ってみて」
「いいいいいっ!!??」
部長直々の指名に、切原は派手におののいて見せた。
元々説明するなどという行為が苦手なのに、更に難易度の高い語句の詳細な説明となると、彼にしたらハードルが高すぎるのだ、それこそチョモランマ並みに。
しかし幸村の指先の威圧感から逃れる術はなく、こうなったら派手にコケることも覚悟で、切原は必死に首を捻って考えた。
「えーと、えーと! ん〜〜〜、何か、対象としては特にアニメとか漫画とかのキャラクターを好きになる感情とか、そういうのみたいッス!」
切原にしては、まぁ核心を突いていると言えば突いている説明に、ジャッカル達は理由も分からず、ほっと胸を撫で下ろした。
「柳の言っていた擬似恋愛というものか? それは単に『好き』という単語で済ませたらいいのでは? 対象が物凄く不健全な気はするが」
早速疑問を呈した副部長が非常に渋い顔をしている…何となく自分には理解困難なものだという匂いを早くも感じ取った様だ。
「いや、それが〜〜、うーん」
「大体その好意の対象は、架空の二次元のキャラに限られることが多いんじゃよ。特別なキャラクターに執着するというのかのう…最近の造語じゃ」
悩みまくる後輩に助け舟を出す形で、今度は仁王が天井を見上げつつ補足をするが、それでもテニス部首脳陣の愁眉は一向に晴れないどころか逆に深くなっている。
「キャラに執着するのは当然だろう? 執着もしないのに、そんなものなど見ないだろうに」
「いや、その場合執着してるのはストーリーだろぃ?」
柳の突っ込みには丸井が応じ、そこはいきなりミーティングと言うより『萌え』論議の場となる。
「けしからんな! 本来の使い方とは明らかに異なる言葉を、よりによって学校の行事に持ち込むとは」
真っ向から反対意見をぶち上げたのは、やはりと言おうか、真田だった。
(あー…副部長の頭の中にそういう言葉入れようとしたら、エラー信号出そうだよな、確かに)
純粋な日本語のみを受け付ける典型的な堅物と言えるだろうが…
(あれ? 改訂された広辞苑とかって『萌え』って入っていたっけか?)
「しかし、若者の牽引力は侮れないものがある。新しいものを取り入れたいという生徒会の苦渋の選択なのかもしれん」
「ストーリーは関係ないの? 尚更分からないなぁ…しかもそんなイラストなんて、一体どんなものなんだい?…うーん、人気があってキャラが好まれるって…」
首脳陣は相変わらず悩みの淵に立たされている。
切原がまた変な疑問に新たに悩んでいるところに、幸村がぴ、と人差し指を立てて思いついたように言った。
「一般的に人気があるキャラなら、○カチュウとか?」
「いや、根本的に違う。だからストーリーに関係なく…」
「ストーリーがなくて? じゃあ、お菓子の○コちゃん?…分からないなぁ」
「いや…お前さんがまっとうな道を真っ直ぐ歩いていることはよく分かるがのう、幸村…」
どう誘導したもんか…と詐欺師も首を捻って考えるが、どうにも具体的な例が…
「俺の記憶でおぼろげに残っているのは、それには属性やらジャンル分けというものがあるらしい。よく分からないが、メガネとか、猫耳とか…」
柳が、自分が理解を諦めた大きな原因の一つである事実を伝えると、幸村と真田を除いた部員達の頭が一斉に下を向いて項垂れた。
いきなりヤバい核心に、思い切りワープしてしまった気がする…
「メガネ? 猫の耳?」
真田がさっぱり分からんといった顔でそう繰り返し、
「何だ、『○ラえもん』のことか」
と至極真面目に幸村が頷いた。
いや、確かにその両方のキーワードは入っているが…
「そうじゃなくて、そういうキャラの持つ特徴なんだ…あ〜〜、大体、その対象は女性キャラが殆どなんだよ。ほら、メガネっ娘とか、魔女っ子とか、おさげとか…」
「お邪魔しまぁす」
ジャッカルがげんなりと説明しているところに、不意に部屋のドアが開いて、客人が一人現れた。
青学の竜崎桜乃という少女だ。
夏に立海のメンバーと知り合い、以後彼らと懇意になった少女は、最近ではこのテニス部に関してほぼ顔パスの状態となっている。
桜乃は今日はここがミーティングの日ということも知っており、普段であればもう終わっている時間だと思っていたのだが…珍しくまだ続いていたらしい。
『あ』
「………?」
メンバー全員が声を揃えて一言だけを発し、じっと桜乃を凝視する。
ドアを開けて早々、いきなりのそういう出迎えを受けてしまった桜乃は、半ば怯えながらも取り敢えずはにこ…と笑ってみた。
それを受け、幸村が真田と柳に振り向いて一言。
「…最初の二つはさっぱりだけど、おさげについては少し理解出来る気がする」
「うむ」
「そうだな」
「二次元だっつーの」
反論もせずにそのまま頷いた二人に、仁王が珍しく眉をひそめて突っ込んだ。
「…あの、私…お邪魔みたいですから…」
「ああっ! そんなコトないって! そんなコトないから行かないで!!」
「行かないでってか引かないで! おさげちゃんっ!! 何か、そのまま百メートルぐらい引きそう!!」
場の異様な雰囲気に呑まれてしまった桜乃が、引きつった笑顔を必死に浮かべながら退散しようとしたところを、ジャッカルと丸井のタッグが慌てて引き止めた。
「な、何なんですか…」
「いや、ちょっと…俺達には荷の重い課題が…」
「はい?」
ジャッカルが渋い顔をして説明する脇で、がっちりと桜乃の腕を掴んで確保していた丸井が彼女に尋ねる。
何もそこまで力ずくで捕まえなくてもいいだろうに…
「…単刀突っ込むけど、おさげちゃん、『萌えイラスト』って描ける?」
「え? 萌えイラスト…?」
「単刀直入だろうが! 単刀突っ込んでお前は竜崎を殺す気かっ!?」
首を傾げて問い返す桜乃の向こうで、真田が我慢ならんといった様子で怒鳴っている。
無論その気がないとしても、先輩が後輩に誤った言葉を教えるのは避けねばならないとの一念からだったが、そんな男に『萌え』という言葉を理解出来る日は、一生来ないかもしれない…
「あ〜、何となく分かりますけど…それとテニスと関係あるんですか?」
桜乃の疑問も尤もだった。
テニス部のミーティングと言えば、普通テニスに関する事を議論するものである。
なのに、どうしてこの場に『萌えイラスト』なるものが出てくるのか…
$F<立海ALL編トップへ
$F=サイトトップヘ
$F>続きへ