「…すまん、日吉、跡部は何処だ?」
「跡部さんなら、さっき、一度邸の方へと戻りましたよ」

 ざわっ…

 感じたくない悪寒が、一気に立海メンバー全員の背筋を走りぬけた。
「邸に…跡部が…?」
 復唱する柳の顔が、心底嫌そうだ。
 それに対して、忍足が何か文句があるのかとむっとした顔で言い返した。
「なんや、気ぃ悪いな…生理現象ぐらい行かせたり。それに、跡部も自分の所為であのおさげの子が倒れたこと、随分気にしとったからな、お見舞いぐらいええやろ」
「よくないわ―――――――――っ!!」
 途端、真田が激怒の表情で忍足の胸倉を掴みあげた。
「貴様、何でそれをすぐに言わんのだ―――――!?」
「何で言わなあかんねん…変態か?」
 この場合、忍足の方が正しい…が、無論、真田にも隠れた言い分はある。
「よりによってアイツとは! 竜崎に何かあったらどう責任を取るつもりだ!!」
「あの子なら、跡部は全く興味もなさそうやん」
「許さん! アイツにだけは竜崎は嫁にはやらんぞ!!」
「何処のお父さんや…」
「あ〜…真田、真田」
 二人の珍妙な言い合いに、仁王が渋い顔で割って入って来た。
「何だ仁王」
「…多分、竜崎は無事じゃと思うよ」
「何故そう言い切れる!」
「…さっき幸村が、お前さんの真剣引っ掴んで邸に向かって行ったから」
「なにいぃぃぃぃぃぃっ!!!???」
 振り返ると、確かに桜の木に立てかけてあった自身の真剣が忽然と姿を消しており、同様に幸村の姿も見えなくなっていた。
 流石にここまで来ると、最悪の事態を想定しない呑気者はいないだろう。
「精市――――――っ! 早まるな――――――――――っ!!」
 蒼白になって相手の後を追い掛けていった真田を、立海、氷帝のメンバーはただ呆然と見送るだけだった……


 桜の下でそんな騒動が起こっているとも知らず、跡部は桜乃が横になっているベッドへと近づくと、彼女を見下ろし、ぎょ、と瞳を剥いた。
(…誰だ? このメイド…見たことねぇぞ)
 悲しいかな、おさげの時があまりにも地味過ぎて、跡部ですら彼女の正体に気付く事は出来ず、彼は桜乃を新入りのメイドかと完全に勘違いしてしまった。
(新入りのクセにこんな場所で昼寝とは、なっちゃいねぇな…しかし、こんな奴いたか? 態度はともかく、こんな派手な顔の奴なら、覚えていてもおかしくないんだが…今日来たばかり? しかしそんな話も…)
 知らない…と思っていたところで、ぴくんと桜乃の手の指が動いた。
「ん…う、ん…」
「…っ」
 は、と跡部が注目する中で、ゆるゆると桜乃の瞳が開かれてゆく。
 潤んだ黒曜石の様な瞳、上気した頬、淡い花びらのような唇、白く艶かしい肌…
 その全てが作り出した一つの芸術品に若者が目を奪われていると、彼女の瞳がゆっくりと動き、彼の姿を捉え……ふわりと無邪気に微笑んだ。
「え……?」
 何故声が出てしまったのかも分からないまま、跡部が硬直していると、見知らぬ美しいメイドは、まるで眠り姫の目覚めのようにそっと起き上がり、小首を傾げて相手を見上げた。
「……あ、と…べ…さん……?」
 普段の声とやや違うのは、アルコールが入り、更には眠気も入っているからだ。
 それもまた若者に対しては目くらましとして働いたのだが、やはり、小さく細く可憐な声は、相手の胸を更に高鳴らせてしまう。
「…景吾、だ……お前はメイドの教育を受けていないのか? 景吾様と…呼べ」
 いつもならもっと厳しく叱り付けている筈なのに、何故か彼女の前では出来ない…
 新入りだからか? いや、新入りだからこそ、厳しく指導してやるべきだ、なのに…
(今の俺はおかしい…どうしたんだ、こんな…メイド一人に)
 男の胸中など露知らず、指導を受けた桜乃はまだ霞がかかっている頭の中で、言われた単語を反芻していた。
「けい…ご、さま…?」
「!」
 潤んだ瞳で見つめられ、そっと首に腕を回されて名前を呼ばれた瞬間、跡部の心に電撃が走った。
「う…っ」
「けいごさま……うふふ」
 名を繰り返し、首を傾げて微笑むメイドは、まるで現実より離れた場所にいる夢の住人の様だった。
 実体はアルコールが入って酔っ払っている少女なのだから、あながち間違ってもいないのだが。
 しかし、今の跡部にとっては、彼女は王子様の前に何の準備もなく現れたシンデレラのようにも見えたに違いない。
 そう、普段は薄汚い服に身を包んでいるシンデレラ…何処にでもいるような娘……
 実は跡部は、桜乃と顔を合わせていた時に、彼女の隠れた美貌を違和感として感じてはいたのだ。
 眼力は、確かに彼に対し、彼女の正体の片鱗を教えていたのだ。
 しかし、遂に、この男はその事実に気付くことは出来なかった…
「お前…っ、名前は……!?」
「…?」
「その、名前は何と言うんだ!…いつからここに勤めてるんだ、それとも今日から来たのか?」
「…わたし……わたしの、なまえ…は…」

 びしっ!!

「…っ!」
 望んでいたその答えを聞く事無く、跡部は何が起こったのかも分からずに、そのまま気を失い、ベッドへと倒れ伏す。
 その背後には、真剣を構えた幸村が、同じく刃を思わせる程に鋭い瞳をして立っていた…更に背後に真田を従えた格好で。
 しかし、その厳しい表情も跡部を気絶させた時点で柔和なものに変わる。
「…安心めされい、峰打ちでござる」
「安心どころか百年寿命が縮んだわ〜〜〜〜〜っ!!!」
 けろっとした顔で言う相手に反し、真田は血相を変えて怒鳴った。
 自分が彼に追いついたのは、まさにこの部屋に入った時で、幸村が剣を振り下ろした瞬間、正直、全てが終わったと思った…
「ごめんごめん、つい手ごろな獲物を持ってきちゃったんだよね…でもラケットじゃなくて良かったよ。真剣ならまだ峰打ち出来るけど、ラケットだったら下手したら撲殺だもの」
「…明るい笑顔でそんな物騒な台詞を言わんでくれんか、精市…」
「はぁ…でも本当に良かった、何だかやばい雰囲気だったし…」
「……ゆきむら、さん……さなださん…?」
 何が起こっているのかやはり理解していないらしい桜乃が、きょとんとした顔で二人を見上げ、彼らは相手の相変わらずの愛らしさに苦笑する。
「あーあ…髪も解いちゃってたんだ…これは本当にやばかったね」
「むう…危機一髪というやつか」
 言いながら、幸村は真剣を鞘に戻すと真田に返し、自分はそのまま桜乃をひょいと抱き上げた。
「跡部は暫く眠ってもらうとしても、一緒にしてたら危険だからね…彼女はもう連れて行こう。竜崎さん、もう少し眠ってていいからね」
「……はぁい」
 抱っこされているのが、甘えの欲求を満足させているのか、桜乃は大人しく頷くと、再びとろとろと眠りに堕ち、こてんと身体を相手に預けた。
「ふむ…しかし髪はどうする?俺は三つ編みなど出来んぞ?」
「外のメイドさんにそれだけやってもらおう…跡部は、そうだね…疲れて眠っているとでも言って、任せようか」
「…少し気の毒な気もするがな」
 そして彼らは、何とか跡部の件も誤魔化して、その場を去ることに成功した。
 それから、無事に桜乃のおさげを作ってもらい、桜の木に戻った幸村達はそのまま帰宅の途についた。
 氷帝メンバーには、跡部の状態について上手く誤魔化したが、もしばれたとしても五体満足なのでそれ程に責められる事はないだろう。
 結局、桜乃の制服は預けたままになってしまったが、それはまた後日に送ってもらうことにしようということで落ち着き、立海メンバーは眠った桜乃を連れ帰ったのであった。
 それから彼女は都内であったことを幸いに彼女自身の自宅まで運ばれ、メンバーが見舞う中手当てを受け、意識が戻ったところで寮へと戻った。
 これで全ての問題は解決した…筈だったのだが……




『幸村! あの花見の日に、長い髪のメイドを見てへんか!?』
「はい?」
 春休み…高校生になる準備期間中の幸村は相変わらず立海のテニスコートに足を伸ばし、切原も含めた他のレギュラー達と一緒に練習に打ち込んでいた。
 無論、マネージャーの桜乃も一緒である。
 そんな彼が部室に掛かってきた電話を取ると、やけに切羽詰った忍足の声が響いてきたのであった。
「…いきなり何?」
 長い髪のメイド、と聞いた時点で、その正体については分かってしまった彼だったが、当然それをあっさりとばらすわけにはいかず、さりげなく惚けてみせる。
『とんでもない美形の、黒髪のメイドが跡部の家におったらしいんや。けど、跡部が全てのメイドを集めて調べてもおらんのや、何処にも…見てへんか?』
「…覚えはないけど…いないんなら気のせいじゃないのかい?」
『絶対に見たって跡部は言うんや! 何が何でも見つけんと…』
 随分と焦りの色が強い口調に、流石に幸村も不安になる。
 別に気絶させた以外は何をしてきた訳でもないが…何故ここまで彼が必死になる必要があるのだろう?
「……変だね、いるかも分からない人一人をそんなに躍起になって探して…そんなに重要なことなの?」
『少なくとも俺らにとっては重要や……跡部のヤツ…完全に…』
「?」
 忍足は、その事実を認めざるを得ない、と苦い声で言い切った。
『…その子に恋しよったんや』
「!!」
 珍しく、幸村が固まった受話器の向こうで、向こうの天才が嘆く声が聞こえてくる。
『あの跡部がすっかり元気なくしてもーて、毎日毎日、ぼーっと外ばかり眺めてため息つくんや! あんなん俺らの知ってる跡部とちゃうわ!! だから、何が何でもそのメイドの子を見つけて連れていかんと…岳人も鳳も宍戸も日吉も、俺ら全員、このままじゃテニスどころやない!』
「………」
 やばい…でっかい地雷埋めてきちゃったみたい……
 電話口だからこそ、幸村はしまったという渋い表情を浮かべることが出来た。
 夢の世界ということで片付けられると思っていたのに、氷の帝王は彼女の魔力にもう取り憑かれてしまっていたのか…
 どうやら、その美女が桜乃だったという事実には誰も辿り着いていない様だし、想像も出来ていないみたいだけど……
(さ〜て…どうしたものかな〜)
 時が過ぎたらあの跡部のことだ、いつまでもうじうじと悩む輩じゃない以上、引き摺らずにまた元の彼に戻ってくれるだろうが…
(ちょっと、気の毒なことをしたかなぁ…)
 ちらっと部室の窓から外を眺めると、あのおさげの少女が元気にコート脇をボール籠を抱えて走っていた。
 自分がどんな罪なことをしてしまったのか、知ることもないままに…






$F<前へ
$F=立海リクエスト編トップへ
$F>サイトトップヘ