「え…!?」
 何事が起こったのかと辺りを見回すと、桜乃は自分の傍に真田が立っているのを見つけた。
 その片足が掲げられ、もう片足が支点となっているところから想像するに、飛んできたと思ったのはどうやら彼の強烈な回し蹴りだったらしい。
「何だお前らは? こちらの連れに気安く手を出さないでほしいものだな」
 今日は遊泳目的ということで、ボックス型の水着を纏っている真田だが、却って露になった身体の引き締まった筋肉といつもの厳しい視線と容貌が、向こうの一団を遠慮なく萎縮させた。
 しかし、今回の勝利は真田にとって嬉しいばかりではなかった。
「げっ! 何だよ、親付きかぁ!?」
「ちぇっ、盛り下がるなー、もう行こうぜー」
 捨て台詞を吐いて、上がってきた犠牲者と共に悪態をつきながらその場を離れる男達に、真田が恐ろしい形相でわなわなと震えながら拳を振り上げかける。
 親!? 
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
『ささささ、真田さ〜〜んっ!! きっ、気持ちはよーく分かりますけど、ここは堪えて〜〜〜〜っ!!』
 泳ぐ前から心臓をバクバクさせ、真田の暴走を必死に止めて、ようやく彼が怒りを収めたところで他のメンバー達も合流した。
「よ、竜崎が先だったかー」
「何してんだい?」
「い、いえいえいえいえ…何でもないです、何でも…」
 最早相手の傷には触れるまい、と桜乃が言葉を濁している間に、幸村が彼女の『みのむし』ファッションを見て苦笑する。
「どうしたの? 随分とガードが固いんだね」
「あ、え…や、やっぱりちょっと恥ずかしくて…」
 まだタオルを手放そうとしない少女に苦言を呈したのは、意外にも先ほど彼女を救ったばかりの真田だった。
「気持ちは分かるが、そういう格好は却って人の視線を引くぞ。さっきの奴らもそれで寄って来たのかもしれん。こういう場所では、恥ずかしかろうが、その場に相応しい格好をするのもマナーだ」
「あ…そう、ですか?…うん、でも、そうですね…」
 女の水着姿を見たいだけの不届きな輩が同じ台詞を言っても説得力が薄れそうな台詞だったが、真田という人物が言うと、途端に尤もな話に聞こえるのだから不思議なものである。
 うん、と頷いた桜乃は、ようやく意を決したのか、纏っていたタオルを外して水着姿を披露する事となった。
「っ!!」
 間近でそれを見た途端、真田が後ろを向いて視線を逸らし、他の男性陣はほぉ〜っと楽しそうに注目した。
「うわー! ボンキュッボンって感じじゃん!」
 早速切原が年頃の若者相応に嬉しそうにはしゃいでいる脇で、仁王や柳生も素直に相手の姿を褒める。
「ほっほー、意外と着痩せするんじゃのう竜崎は」
「いつもより随分と大人びて見えますよ」
「え…そうですか?」
 彼女が纏っていたのはいつもの彼女にしては珍しいピンクが基調のプリント柄のセパレートタイプで、ビキニと言うのが一番しっくりくるかもしれない。
 しかし下半身を無防備に曝すのには流石に抵抗があったらしく、腰には長めのパレオを巻いていたが、その隙間からちらりと覗く細く白い素足が、却って女性の色気を強調している様にも見える。
 中学一年でまだ幼さが残る容貌ではあるものの、その胸はふっくらと豊かであり、明らかに男性とは違う身体付きだった。
「…〜〜〜」
 何故か、うずうずと身体を小さく揺らしている丸井に、ジャッカルが不審そうに声を掛けた。
「何やってんだ、お前」
「いや…いつもなら遠慮なく抱きつくトコなんだけど…」
 しかし、今の状況でそういう事をしようものなら…
「…警察にしょっぴかれた時点で、お前との友達づきあいもこれまでだな」
「分かってるよぃ! だから我慢してんじゃんっ!!」
 ぶーっと丸井が反論している間に、桜乃と同様に荷物を置いて一段落した参謀が声を掛ける。
「折角来たのだ、いつまでもここで話していても仕方なかろう」
「そうだね、泳ごうか…竜崎さんは泳ぎは得意かい?」
「え、えーと…溺れる事はありませんけど、ちょっと方向が定まらないというか何と言うか…嫌いじゃないんですけどね」
「そうなんだ」
 そんな会話が交わされている間に、切原が早速プールへと走って行って、水中へと入って行った。
『ひゃ―――――っ!! きっもちい〜〜〜〜っ!』
 他のメンバーも続くのを見て、桜乃もそれに倣おうとしたが…
「こらまて」
「はい?」
 ぐい、とさっきまで照れて視線を向けてくれなかった純情な副部長が、一転、思い切り真面目な様子で桜乃の手を引き、止めていた。
「何ですか?」
「何ですかじゃない。俺達より随分先に来ていたということは、お前はまだ準備運動をしていないだろう?」
「あ…」
 そう言えば、と桜乃は思い出す。
 自分も結構、更衣室に長くいた筈だったが、それでも彼らの方がプールサイドに現れるのは遅かった…
 そうか、前もって、準備運動もしていたんだ…流石、全国的に有名なスポーツ部は身体を気遣う面でも抜かりはない。
「そうでした、うっかりしてて…」
「うっかりして、足でもつって溺れたら大事だぞ。どんなに自信があっても油断は禁物だ、入る前にしっかりとやっておけ」
「あうう、分かりました〜〜」
 他のメンバーがプールではしゃいでいるのを横目で見ながら、『早く入りたいよう〜』とオーラを出しつつ準備運動を始める桜乃に、幸村はぺしゃんこのビーチボールを持ちながら笑った。
「ふふ、焦らない焦らない。俺はボールを膨らませるから、その間にしっかりやるんだよ。出来上がったところで、一緒に行こうね」
「はい」
 ぷーっと幸村がボールを作成している脇で、桜乃は真田の指導を受けながら、いっちにーいっちにーと準備運動に集中していた……


「なぁ、ところでさー」
「んん?」
 不意にプールの中でそれぞれの潜水時間を競っていた丸井が、隣にいた仁王に声を掛けた。
「そもそもおさげちゃんを連れて来た表の口実って、真田に女慣れさせる為ってことだったよな」
「そうじゃの」
「まぁ、相手が真田に限らずお互い水着でプールに行けば、普通はそこから腕が触れたりさー、あわよくばもっと密着する機会があったりするもんなんだけど…」
 実は期待していたのか、丸井は何処か遠い目をして、視界の向こうにいる桜乃を見遣って、ぽつんと寂しげに呟いた。
「なーんか、色気に欠けてねぇ?」
「うーむ…」
 彼らの視線の先にはプールに入って水と戯れる桜乃の姿があったのだが…
「ほら、次はそのままバタ足五十回」
「う〜〜〜っ」
 ばちゃばちゃばちゃばちゃ…っ
 プールで生まれるアバンチュールなどとは程遠く、彼女は縁に掴まって、傍で立つ真田からみっちりと水泳指導を受けていた。
 ちょっと水泳が苦手らしいという話を幸村としていた事から、彼の指導欲に火がついてしまったらしい。
 しかもなまじ桜乃も素直過ぎるところがあるので、特に反対もせずに従順に指導を受けていた。
「熱心なのは美徳ですが、少々気の毒な気もしますねぇ」
 どんな時でも眼鏡を手放さない柳生がそう言ったのとほぼ同時に…
 ぽんっ…
「ふえ…?」
「む?」
 バタ足練習をしていた桜乃の頭上に、ビーチボールが落ちてきた…幸村が膨らませていたアレだ。
「幸村さん…?」
「はい、二人ともそこまで。弦一郎、そろそろ俺達にも付き合ってくれないか? さっきから君ばかり竜崎さんを独占して、他のメンバーが羨ましがってるから」
「な…っ、お、俺は別にそういうつもりでは…!」
「独占…?」
 きょとんとする桜乃の隣で途端に慌て出した真田に笑うと、改めて幸村はこちらに流れてきたボールを取って二人を他のメンバー達の方へと招いた。
「水泳の指導はまた今度。ほら二人とも、折角膨らませたんだし、少しはこれも使って遊んでよ」
「ふむ…」
「はぁい」
 仕方ないと頷く真田とは対照的に、桜乃はきゃあきゃあと喜びながら輪の中へと入っていった。
「おっし行くぞ〜」
「よしきたー!」
 それから彼らは、他の客が少ないことをいいことに、プールの中央寄りに移動しながらボール遊びを始めた。
 水中はかなりの抵抗があるが、流石に鍛えている彼らは動きが俊敏だ。
 無論、桜乃にパスをする場合は、誰もが力を加減してやっているので、彼女も問題なく輪に加わって楽しめていた。
 そんな時が暫く続いていたのだが…
「あ…っ!」
 ふとした拍子に桜乃は自分に向かってきたボールを弾こうと手を伸ばしたが、当たった角度が悪かったらしく、逆の、誰もいない方へと飛ばしてしまった。
「あは、失敗しちゃいました。すぐ取ってきますねー」
「おう」
 ぺ、と舌を出して恥ずかしそうに笑った後、桜乃は歩くより泳いだほうがボールに早く辿り着けると判断し、ざぱんと潜っていった。
 このプールの作りは、どうやら中央に行くほどに水深は深くなっているようだが、全くカナヅチではないのだから問題はないだろう。
 一時、暇になったメンバーが休憩がてら会話を交わす。
「本当にいいプールだな…日曜だというのに人も少ないし自由に動き易い…」
 柳が周囲を見回し、ジャッカルも同意を示すように頷いた。
「施設も新しいし、管理も行き届いている感じだな…出来たらまた来たいもんだ」
「それは流石に難しいな」
 ジャッカルに、幸村が苦笑して首を横に振った。
「さっき、ちょっとビジターの料金を見てきたけど…一回入場で一の後にゼロが四個並ぶくらいの値段だったよ」
「…………えええ!!」
「時間がかかり過ぎだ、赤也」
 そんなにっ!?と驚く後輩に、鋭く参謀が突っ込みを入れた。
「そんなにハイソな場所だったんか、道理で客も少ない訳じゃよ…こりゃ、この夏一回だけの贅沢になりそうじゃのう」
「う〜〜、じゃあせめて上がった後にデザートぐらいは…」
 ぶつぶつと丸井が休憩時間の楽しみを考えていると、不意に幸村がきょろ、とプールの水面を眺め遣った。
「…遅いね」
「ん…?」
「いや…竜崎さんが…」
 そんな台詞を言っている間に、彼の表情が段々と険しいものになってくる。
 そう言えば、あの子が潜った後に会話に興じてしまったが、あの後彼女が浮き上がった姿を見ていない…
 同様の事を思い出したらしい真田もざ、と顔色を変えた次の瞬間…
 ざばっ…!
 いきなりプールの中央の水面から、水しぶきが上がると同時に人の片手が上げられたのが見えた。
 その手は細く、白く、誰かのそれを彷彿とさせたが、まるで空を掴むようにもがきながら、遂にその持ち主の顔は現れないまま、再び水中へと沈んでいく。
 誰がどう見ても、まともな光景ではなかった。
「竜崎っ!!」
 真田が叫ぶと同時に、彼女の最寄の位置にいたジャッカルや仁王達が間髪いれずにそちらへと潜っていった……


 数時間後…
「マジで心臓が止まるかと思った…」
「俺も…」
 青い顔で互いにそう言い合うのは丸井とジャッカルで、メンバーと一緒にホテルの中の来賓室の一つに通されており、既に私服に着替えていた。
 他の全員も同様であり、その中には騒動の原因である桜乃もちゃんと揃っていた。
「すみませんでした…」
 ホットミルクを入れたマグカップを両手で持っていた少女は、しょぼんと肩を落として申し訳なさそうにしていたが、全てを知るメンバー達の誰一人として彼女を責める様子はない。
「ありゃあ不可抗力じゃろ…お前さんが無事で何よりじゃよ」
「そうだよ、気にしないで。君が気付いたお陰で一人の人を助けられたんだから」
 幸村の言う助けた人というのが、しかし今回の騒動の発端でもあった。
 実は、桜乃は一人で溺れていたわけではなく、溺れていた一人の女性を水中で偶然見つけ、助けようとしたところで相手にしがみ付かれ、身体の自由を失ってしまったのだった。
 海でもプールでも、この手の事故はよくある話なのだという。
 溺れている人間は当然パニックに陥り、助けを求める。
 その助けが来ると、自分が相手の行動を邪魔していることにも気付かないまま、パニック状態でしがみつき、結果、双方の命を危機に陥れる事がある。
 聞けば、桜乃が助けようとした女性は一人でここを訪れており、普段から泳ぎには自信があったが、いきなり足がつって溺れかけていたらしい。
 二人が共にプールの底に沈もうとしているところで、メンバー達の救出が入ったのだ。
 図らずも、真田が桜乃にちくりと念押しした最悪の事態が、目の前で展開された訳だ。
 相手も桜乃も、早期に救出された為に、水を飲んだり意識を失うなどの大事はなかったのは幸いだった。
「向こうは一人客でしたから、気付かれるのが遅かったんですね。竜崎さんがいなければ、本当に最悪の事態になりかねないところでした」
 褒められはしたが、桜乃はどうしても素直に喜ぶ事が出来ない。
「でも…結局は私も溺れかけてしまいました…折角遊びに来たのに、皆さん、それどころじゃなかったし…」
「確かに、一人だけで救出に向かおうとしたのは安易だったかもしれない。だが、今後同様の事があった時に、同じ過ちを犯さなければいい事だ…まぁ、そんな事が起こらないに越した事はないがな」
 言うべき事は言い、しかし相手を労わりながら柳がフォローしていると、そこにホテルのオーナーらしき壮年の男が歩いてきた。
「失礼ですが、皆様の代表の方は…」
「?……俺です」
 向こうの呼びかけに、幸村が一度全員を見回し、彼らに促された事を受けて名乗り出る。
「すみません、ちょっとこちらへ…」
「はい?」
 何かの話があるのか、幸村は相手に連れられて同じ部屋でも少し離れた場所に立ち、相手と何やら会話を交わしている。
 それを不思議に思い眺めつつも、桜乃はくすんと鼻を鳴らし、無思慮に行動した浅はかさを悔いていた。
(あーあ…今日はもう帰らないとだし、皆さんの時間は無駄にしちゃうし、心配まで掛けるし……今日の私って本当にダメダメだったわ…)
 落ち込んでいるところに、やがて幸村が戻って来たが、何故かその表情は意外にも楽しそうな笑顔だった。
「お手柄、竜崎さん」
「はい…?」
「人身事故を防いでくれたお礼に、これからホテル側で食事を準備してくれるって…それと」
 そう言って彼がぴらっと見せたのは、複数枚の赤いチケット。
「俺達全員分の、今夏期間中のプールパスポートもくれるそうだよ」
「え…」
 それって…?
 おお――――――っ!!と他のメンバー達が喝采を上げて手を叩き合っているのを聞きながら、桜乃は幸村の笑顔を見上げた。
「また、仕切り直しに来よう、竜崎さん」
「でも…あの…」
 まだ、迷惑をかけてしまった事で躊躇っている少女に、優しい若者は言葉を継いだ。
「確かに反省をする事も重要だけどね。それでも、いつまでもそれだけにこだわって鬱屈を抱え込むのは果たして正しい事なのかな。俺達は君の優しさを知っているし、今日の事を君の美点ではあっても、欠点だというつもりはないよ」
 だから、今日に満足がいかなければ、また次の機会を持つことにしようよ…俺達と一緒にね。
「……は…はい…!」
 桜乃と立海メンバー達の楽しい夏は、まだ暫く続くようである……






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