どたばた夏合宿(前編)
立海にももうすぐ夏がやってくる。
それは生徒達にとっては確かに嬉しいことだ。
夏祭りに行くもよし、海や山で自然を満喫するもよし、若人ならではの大切な思い出作りをするには絶好の季節だ。
何しろ、彼らには学生であるが故の特権、『夏休み』というものが存在するのだから…
しかし、そんな夢の時間を得るのに、何の苦痛も伴わないという都合の良い現実など、この世には存在しないと知らしめる様に。
立海には同じ時期、彼らを大いに苦しめる或る行事が控えているのだ。
いや、それは立海という固有の学び舎に限った話ではなく、全国の学校でも言えるコトだろう。
生徒一人一人に等しい苦痛という訳ではないが、少なくともその行事を喜んで迎える生徒は希少な存在に違いない。
果たして、その行事とは…
「いよいよ、近づいて来たなぁ」
「うう、早く過ぎて欲しいような、来てほしくないような…」
その日の放課後、立海大附属高校の男子テニス部部室では、レギュラーであるジャッカルと丸井が貼られていたカレンダーの前で低く唸って考え込んでいた。
その姿はいつにも増して真剣であり、おちゃらける素振りもない。
一見すると、余程大事な試合が控えているのかといった様な真面目さだったが、他のレギュラー達は別に彼らに同意するでもなく、軽く様子を眺め遣るだけだった。
「そうか? 予習復習しとったら大丈夫じゃろ、あんなモンは」
「私は、自分がどれだけ得られた知識を理解しているのか試す意味でも、貴重な経験だと思っていますが」
詐欺師と紳士のペアが相手のダブルスに声を掛けると、彼らはげんなりといった様子で振り返る。
「そうは言うけどなぁ…赤点はあり得ないとしても、あんまりヒドイ点だったらどうしようかって思うと気が気じゃないんだよ、こっちは」
「糖は脳に良いって言うけど、家じゃ眠くなるばっかで全然テスト勉強も出来ないんだもん」
ぶーっと頬を膨らませる丸井が言ったキーワード…『テスト勉強』。
そう、彼らは間もなく、学校の一大行事、期末試験を控えた身の上なのだった。
言わば、一学期に培った実力を試す大舞台を数日後に控え、レギュラー達はそれぞれの反応を示していた。
「俺は化学の実験とかの実技がないなら別にいいよ。まぁ、なるべく上を目指したいけど…蓮二には敵わないかもね」
苦笑して部長である幸村が参謀の方へと振り返ると、相手はノートから一時視線を外して彼にそれを合わせた。
「勉学というものは己の為に行うものである以上、本来はこうして競うべきものではないのだが…切磋琢磨するという意味ではいいのかもしれないな。相手がいると向上心も湧くものだ」
「そうだね」
柳らしい言葉にふふ、と笑った幸村が、ふと隣にいた副部長の真田へと目を遣ると…
「……」
彼は、何故かとても困った様な顔をして、じっと先を見据えている。
相手の剛毅ながらも几帳面な性格から、試験の結果を今から憂えているとは思えない。
ならばその真意は…?
「…ああ」
真田の視線の先を追った幸村は、相手の心を読んでくすりと笑った。
「これもまた、この時期の風物詩だよね」
「全く…」
部長の言葉に厳格な副部長は瞳を閉じて溜息をついた。
彼らの視線の先には…
「うう〜〜、英語〜〜、英語のお化けが〜〜〜…」
よく分からないコトを呻きながら、机にくってりと突っ伏している二年生の切原赤也がいた。
立海の男子テニス部の中で唯一二年生でレギュラーの座に納まっている実力派の若者だが、普段はゲームやテニスなど遊ぶコトが大好きで、勉強が苦手なごく普通の若者だ。
いや、ごく普通とは言うが、勉強に対する苦手意識は常人より強いかもしれない。
「うわ〜〜、俺達より上手がいたぜい」
「いや、幾ら俺でも流石にアイツと張り合うのはちょっとプライドが…」
驚きながら後輩の様子を見つめる丸井とジャッカルだが、学年が違う以上、張り合う事自体が不可能である。
「赤也、しゃっきりせんか。夏休みの俺達の計画、忘れてはおらんだろうな」
「へぃ…?」
気の抜けた返事を返し、ぐに、と首だけを曲げてこちらを見上げてくる生気のない後輩に、幸村が苦笑して首を横に振った。
「ちゃんと赤点取らずに切り抜けるんだよ? 蓮二の叔父さんの別荘を借りて合宿する予定、忘れてないよね?」
彼らは今年の夏休み、柳の親族の好意で別荘を借切って、恒例ともなっている合宿をする予定を立てていた。
合宿と言っても無駄に時間を潰す訳ではなく、海も山も近く身体も鍛え甲斐があるという所で、二泊三日の、所謂強化合宿を行うのだ。
参加予定メンバーはレギュラー全員…勿論切原も入っている。
「お、覚えてるッスよ〜〜…大丈夫ッス、何とか英語さえ切り抜ければ、後は低空飛行で何とか…」
「あくまでも低空なんじゃなぁ」
「不時着するのはいつなんでしょうね」
仁王と柳生が哀れみの視線で見つめてくるのに気付き、切原は今度はむくっと上体を起こして反論した。
「むっ…別に赤点取らなきゃいーんでしょ? 大丈夫ですって、ちゃんと竜崎先生に教えてもらう約束、取り付けてきたっすから」
「竜崎先生…」
ふ、と柳がその相手に反応して頷いた。
「ああ、今年赴任してきた竜崎桜乃先生…彼女の教え方には定評がある。生徒達の評価も非常に高い様だな。人としても出来た女性だと思う」
「髪の長い先生じゃろ? 美人じゃし、何度か話したこともある。隠し事は出来んタイプじゃよ…けど、嫌いじゃないのう」
テニスに夢中な若者達とは言え、年相応の話題に疎い訳でもなさそうだ。
彼らの中でその人物について無知の者は一人もいない様子である…いや、実は全員、何気に彼女の事を悪く思うどころか、かなり好意的な感情を抱いていた。
竜崎桜乃とは、この年の春に立海の高校に赴任してきた英語担当の女性教師である。
彼女本人が教師になって日も浅い為に実は年齢も然程離れておらず、見た目もなかなかに麗しい女性ともなれば、自然と注目を浴びることにもなる。
しかし浴びながら尚、これまで特に非難めいた意見や苦情が出たという話がないことからも彼女の人となりが伺えた。
「俺、一回ガム取り上げられたことあるけど、後でこっそり返してくれたよい。良い人!」
「その程度のレベルか、お前の良い人の基準ってのは…」
はぁ、と相棒に溜息をつくジャッカルは、気を取り直して切原に念を押した。
「おい赤也、けど冗談抜きでしっかりしてくれよ? 万一赤点なんか取ったら問答無用で補習に強制参加だろ?」
「そうなると、俺達の予定の全てが大幅に狂うことになる。くれぐれも抜かりないように」
参謀からの意見も受けて、頼りない二年生は不本意ながらもそこは大人しく彼らの意見に頷いた。
「了解っす。俺もその合宿は楽しみっすから」
ところが……
運命の試験日…
「んん〜〜〜〜〜…」
やけに眩しい光を感じて切原はベッドで目を覚ました。
(あれ? おかしいな…目覚まし鳴らね…)
いつもならけたたましいベルが自分を起こしてくれるのに…と、枕元にあった時計を取って、時間を確認する…途端、
「っ!!!!」
一気に睡魔が退散し、彼の身体はがばっとベッド上で跳ね上がった。
(う…っそ!!)
登校時間を大幅に過ぎてる…っ!!
試験開始時間まで、数分しか残っていない!!
「%&&$$%&$#〜%$%##&“”!〜%$#“!!#〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
およそ人が上げたとは思えない悲鳴を上げながら、切原は跳ね起きてどたどたと騒がしく通学の準備をする。
しまった!!
そう言えば、昨日から両親は親戚の家に行ってたんだった!!
おまけに姉は友人の家に泊まっている!
つまり、自分を起こしてくれる人物はこの家には誰もいなかった。
「ああもうちくしょ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
昨日、苦手の英語があるからって意気込んで、徹夜覚悟で勉強したのが仇になってしまった。
少し仮眠をとるつもりが、つい布団の心地良さに誘われ、熟睡してしまったのだ。
ヤバイ、ヤバイ、マジヤバイ!!
(しかもよりによって一時間目が英語かよ〜〜〜〜〜〜!!)
最早、時計を見ても間に合わない事実を確認する作業になってしまうのだが、それでも彼は何度も腕時計を見ながら、家を飛び出して行った……
結論から言うと、テストの途中入室は、教育に厳しい立海では認められていない。
故に切原はあれだけ頑張ったにも関わらず、結局、英語は試験そのものを受けられず、哀れ補習確定となってしまったのだった。
これに驚いたのがレギュラーメンバー達である。
「この大馬鹿者が――――――――――っ!!!!!」
試験結果を聞いた真田は、いつにも増して激昂した様子で二年生の後輩を叱り飛ばしていた。
当の切原も、覚悟していた叱責とは言え、自分のミスそのものにも大きなショックを受けているらしく、殆ど青菜に塩状態。
「あれ程言っていたにも関わらず、あろうことか敵前逃亡した挙句に補習組とは、たわけたことを――――――っ!!! 合宿の期日はずらせんのだぞ!!」
「すんません…」
合宿所が、柳の親戚の好意に甘えて借りる処である以上、こちらがこれ以上の我侭をいう事は許されない。
期日を動かせないということは、必然的にその期間中に補習が組み込まれる切原は参加不可能になるということだ。
合宿の目的がレギュラー達の親睦を深めつつ心身を鍛えるという名目であった筈なのに、しょっぱなから大きく蹴つまづいた格好になってしまい、これには流石の幸村も困り顔。
「困ったなぁ…結構頑張っているみたいだったから、まさか赤点はないだろうと思っていたのに」
「頑張りが、仇になったのう」
そこまでは読めなかった、と仁王もうーむと首を傾げて眉をひそめた。
何とか全員参加に持ち込みたいところだが、力ずくで参加して補習を放棄したとなれば、今度は留年の危険が切原の身に降りかかることになる。
あちらを立てればこちらが立たぬ、というヤツだ。
さて、どちらも立たせたい場合はどうするべきか…
こんこんこん…
「む?」
レギュラー全員が無言になっていた時、不意に部室のドアを誰かが外からノックする音が響いた。
「? どうぞ?」
部員ならノックなんてしない筈…と思っていた彼らの前に、ドアを開いて現れたのは…
「あ…」
「…げっ」
「先生…?」
皆が注目する中、一人の若い女性教師が、おず、と遠慮がちに部室の中に一歩踏み入ってきていた。
艶やかな黒髪が腰まで届く長さで柔らかく揺れ、同じくらいに黒い瞳が優しい光を宿しながら、全員を見回す。
淡色系の飾り気のないワンピースが、却って彼女の清楚な雰囲気にぴったりだった。
「お邪魔します、切原君、ここにいます?」
いつかここで話題に上った竜崎桜乃が、今正にここを訪れ、騒ぎの渦中にある生徒を呼んだのだった。
「ぎえぇぇ…!」
小さな声で切原が悲鳴を上げる。
当たり前だ。
実は彼、英語の試験の前日は、予め聞いていた彼女の家に電話までかけて試験範囲の英語構文について質問をしていたのだ。
それだけ世話になっておきながら、まさか試験そのものを受けずに補習確定になってしまったなど…無論、切原は言える訳もなかった。
そんな後ろめたさ満点の彼の心など露知らず、桜乃は彼の姿に気付くとにこにこと笑いながら数歩相手に近づいた。
「ああ、やっぱりここにいたのね切原君。何だか気になって…試験の方、どうだった? 担当の先生に聞いても良かったんだけど、あまり担当じゃない私が出しゃばる訳にもいかなかったし…けどあれだけ頑張っていたんだもの、少しは自信、持てたでしょ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
(流石に気の毒になってきた…)
悪気のない、優しい言葉は時として凶器にすらなりうる。
この時は流石の真田も、切原の傷心振りを哀れんで言葉を濁した。
「あー…それが…残念ながら」
「……えっ?」
「……見事に補習組です」
「えええええ!?」
柳の断言に、桜乃が一番驚いた様子で声を上げ、突っ伏していた切原に目を遣った。
「嘘!? だって、電話で質問してくるぐらいに熱心にやっていたのに…何があったの切原君!?」
「いや、先生、今は何も聞かないでやって下さい」
その答えそのものがあまりに馬鹿馬鹿しい為に、聞くことそのものが今の切原にとっては羞恥プレイという名の拷問なのだ、と柳生が相手を止めにかかる。
「はい?」
「うわあああ〜〜〜〜、俺のバカ―――――――ッ!!!!!」
遂に忍耐が切れたのか、切原ががばっと机にしがみついて嘆き始めた。
「何を今更…」
分かりきったことを、と止めをぐっさりと刺した詐欺師に、ジャッカルが呆れたように嗜める。
「お前も少しは気遣えよ…」
「けどまぁ、補習に出る以上は合宿は無理だろい? 諦めて、教室で俺達の土産話でも待ってろい」
今更、四の五の言っても仕方ないんだし、とドライな意見を述べた丸井に、聞いていた桜乃がえ?と顔を向けた。
「合宿…?」
「丁度、補習期間中に、俺達で合宿に行く予定だったんです。部活のトレーニングも兼ねて…一応、レギュラー全員での参加を見込んでいたんですけど」
難しくなってしまいました…と苦笑する幸村に、桜乃は暫く無言で考え込んだ。
「そうなの、合宿に…じゃあ、切原君は」
「当然、補習で留守番じゃの」
「ぐぞ〜〜〜〜〜!」
自分の所為だと分かっていながらも、まだ諦めがつかないとばかりにぐじぐじとしていた切原だったが、もうこれ以上時間を潰す訳にもいかなかった。
「ほら切原、部活、始めるよ」
「自業自得だ、少しはこれで自分を律することを覚えるのだな」
部長と副部長に喝を入れられ、切原は仕方なく立ち上がったが、明らかに両肩がかくんと下がり、落胆が激しい様子。
自分以外のレギュラー達が行うであろうトレーニングと、自然の中での清清しい気分転換…確かに思うだけで羨ましくなってくるだろう。
「先生も、わざわざご足労頂いて申し訳ありません」
「あ、ううん、いいのよ」
桜乃は柳生に答えつつ彼らと一緒に部室を出たが、何度か切原のしょぼくれた背中を振り返り、気にしている様子で校舎へと戻っていった。
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