そして、部活動が終わる時間になった頃…
「…? あれ? 竜崎先生じゃんか? あれ」
「お? ホントだ…部長に何の用だ?」
 そんな声が部員の中から上がり、それを聞いた丸井は幸村の方を見て相棒へと声をかけた。
「なあおいジャッカルー、竜崎先生がいるぜい?」
「ん? お…どうしたんだ、結構前にもう帰った筈だろ?」
 それがどうしてまた、ウチに来ているんだ?
 そろそろクールダウンに取り掛かる時間なのを良い事に、彼らは向こうの様子を見ていたが、やがて幸村は一人の部員の名を呼んだ。
「切原! こっちに」
「?」
 呼ばれた後輩は、何事かと振り返り…桜乃の姿を見て僅かに顔を曇らせながら仕方がないといった様子で向かっていく。
 正直、彼女に責はないのだが、会う度に自分のやってしまったミスが思い出されて辛いのだ。
 今度は何の用だろう、と思いながら幸村のところに行くと、丁度そちらの様子に気付いたらしい副部長も、何事かとそこに走って来る。
「何スか?」
「何事だ、精市」
 幸村は、切原が傍に来たのを確認すると、彼に対し桜乃を手で示しながら言った。
「切原、竜崎先生にお礼を言うんだ」
「へ? 英語のアドバイスの件っすか?」
「いや、それもあるけど…彼女が俺達に同行する条件で、君も合宿に参加出来る事になったんだ」
「!!」
 ぎょっと驚いたのは切原だけでなく、真田も同様だった。
 傍にいた柳も話を聞いていたのだろうが、彼もまた意外な展開にほう、と感嘆している様子。
「ど、どういう事だ? 赤也も参加…?」
「うん、竜崎先生も英語が担当だろう? 切原が補習で受ける授業を、先生が合宿先で行う事を前提でね」
「!!??」
 更に驚いた切原は桜乃を見たが、相手はにこにこと笑っているばかり。
「そ、そんな事が出来るのか? 大体先生にも夏休みの都合というものが…」
 戸惑う真田に、桜乃はけろりと答える。
「いいのー、どうせ実家の草むしりぐらいしかするコトないし」
「し、しかし…補習をする予定の教師の立場というものが…」
「一人でも減ったらあっちの負担も減るから歓迎だって」
 幸村の説明と同時に、桜乃がえへーと笑いながらぴらっと一枚の紙を取り出した。
 そこには、委任状という一文の下に、彼女が説明したのと同じ主旨の一文が固い文章で書かれ、重々しい判子もぺったりと押されていた。
 誰によって書かれたのかは…最早言うまでもないだろう。
「……」
 容姿にそぐわぬ行動力を見せた女性に副部長が唖然としている脇で、切原がようやくそこで嬉しそうな笑顔を浮かべて自分を指差してみせた。
「って事は、俺、行けんの!?」
 合宿に、皆と行けんの!?
「だから先生にお礼を言わなきゃダメだよ、切原。あれから竜崎先生、すぐに担当の先生の所に行って交渉してくれたらしいんだから」
「うふふ、いいのよ。切原君、頑張ってたもんね」
 当初の計画を再び実行可能にした立役者は、驕るでもなく偉ぶるでもなく、ただ優しく笑って切原に頷いてみせた。
「補習は夜にでもやりましょう、私も手伝ってあげるし。ちゃんと教科書とノート、忘れないでね」
「あ…有難う先生―――――――っ!! マジ感謝するッス!!」
「きゃあ!」
 思わず桜乃に抱きつきながら礼を言った切原だったが、すぐに副部長に手痛い一撃を食らわされてしまう。
「常識の範囲で礼をしろ!!」
 それではセクハラだろうがっ!!と叱り付けながらも、後輩が何とか足並み揃えて合宿に参加出来る事となったことで、彼の瞳にも安堵の色が滲んでいた。
 かくして、彼らの合宿は何とか当初の予定通り、行われる事になったのである。


 そして合宿当日、立海レギュラーと桜乃は必要な荷物をそれぞれ抱えて、電車やバスなどを乗り継いで、昼過ぎには目的の別荘へと到着していた。
 海を見渡せる小高い場所にあり、背後には小さな山もそびえているという、景観も絶好の場所である。
 確かにここなら好きなだけ身体を動かして、鍛錬も行えそうだ。
 それに別荘も自分達全員が泊まるに十分な広さと設備を兼ね備えたロッジ風の建物であり、見ていてもとてもわくわくする。
「わぁ…なんて素敵なところ…却って私、あつかましい事しちゃったかも」
 自分が考えていたよりかなりレベルが高い場所であり、桜乃は少し戸惑った様子で辺りを見回したが、他の部員達はそんな事はないとばかりに首を横に振った。
「とんでもない。赤也を連れて来られたのは先生のお陰ですから…こちらこそ感謝して然るべきです」
 叔父に連絡を入れて、一人追加する旨を伝えて許可を受けた柳は、預かった鍵で別荘の扉を開いて全員を中へ受け入れた。
「どうぞ、中へ」
「まぁ…」
 外の景色にも見蕩れていた桜乃だったが、別荘の中もまた整然としていながらも適度に素朴な装飾が施されており、目に優しく、何処か温かみのある空間だった。
 天井は高く、窓も多く、日光が燦燦と降り注いできている。
 やはり時期が時期なので熱気は避けられなかったが、柳が空調のスイッチを入れてから、徐々に快適な温度へと下がっていき、彼らの汗も引いていく。
「一応、一通り見回ってくる」
「ああ、お願いするよ、蓮二」
 断りを入れた後、柳が二階に上がっていくのを見届けると、皆がそれぞれリビングの中に散ってゆく。
「あー、久し振りだけど、やっぱいいなココ〜〜」
 丸井が嬉しそうに伸びをしている隣では、仁王も笑みを浮かべながらぐるりと中を見回している。
「変わっとらんのう…柳の叔父さんはセンスがいいんじゃよなー」
 みんなが荷物を置いて一段落している間に、幸村は一応この団体の責任者という位置づけとなった桜乃に話しかけていた。
「先生、部屋は余裕がありますから、どれか一室を使って下さい。俺達は一部屋に二人ずつで入ります」
「いいの?」
「勿論です。それと、俺達がトレーニングを行っている間は、先生は自由に過ごして下さい、これは強制じゃありませんから」
「そう?…じゃあ」
 少し考えた後、桜乃は楽しそうに笑って言った。
「最初は軽くここのお掃除をしようかな、後はお夕食の支度をして…あ、料理は私に任せてくれていいわよ、結構自信あるの。その方がみんなも練習に打ち込めるでしょう?」
「え…いいんですか?」
「ええ、任せて」
 頷く教師に、部長と副部長は顔を見合わせた後…微笑みながら軽く会釈した。
「助かります…じゃあ確か、蓮二の叔父さんが予め用意してくれた食材がキッチンに…」
 てきぱきとこれからの予定を話している三人の様子を、遠巻きに他の部員達が眺めている。
 何か、流される形でこうなってはみたけど……
「け、結構、美味しい状況じゃない? これって」
 丸井の言葉に、仁王が否定せずにうむと頷いた。
「確かにのう…男子生徒達の世話をバッチリ引き受ける美人女教師か…」
「お前が言うと限りなくいかがわしい台詞に聞こえるのは俺だけか?」
 うわーとジャッカルが視線を逸らしてげんなりとした表情で呟いたが、そんな空気はまるっきり無視で、切原は来た時から嬉しさではしゃぎまくっていた。
「うわ〜! なつかし〜〜〜! 来れてよかった〜〜!!」
「おめー、ちっとは反省しろっての」
 そもそもあの教師だって、お前がヘマしなきゃこんなトコまで来なくて済んだんだぜい?と丸井が珍しくまともなツッコミを入れた。
 その内、軽く別荘の中を見回っていた柳が、全員の状況を確認しながら戻って来た。
「見てきたが、特に破損した部分も異常もないな…ガス、水、電気、問題ない。では先ずは軽く休息を入れた後に荷物を各部屋に置いて、着替えるとしようか」
「はぁ、着いて早速トレーニングか…ちょっとせわしない気もするのう」
「仕方ありません。遊びに来ただけではなく、あくまで主な目的はトレーニングですからね」
 柳がメニューを取り出したところで、幸村や真田もそこへ集まってゆく。
「じゃあここで十五分の休憩の後、玄関に集まって山道のロードワークに出かける。一応各人ペットボトルを持参のこと。戻ってきたら小休止の後で裏のコートで模擬試合を行う」
「うっひゃ〜〜、早速ハードだな」
 そう言っているが、ジャッカルは結構嬉しそうにしている。
 自分の身体能力の磨き時だと思っているのかもしれない。
(うわぁ…皆、やっぱりトレーニングに対しては真剣なんだなぁ…顔つきが全然違う)
 遊びに来た訳ではない、というのは部外者の自分でも知ってはいたが、こうして近くで見ていると、その気迫で年上であっても圧されてしまいそうだ。
 こうなったら自分も、出来る事は進んで頑張ってお手伝いしよう。
 そうしている間に、部員達はそれぞれの荷物を再び手にすると、各々の部屋を皆で話した上で決めていき、中へと入っていった。
 そして、程なくテニスウェアーに着替えた彼らが再びリビングへと降りてくる。
 制服姿の彼らも精悍だったが、こうしてウェアーを纏うと、一層男らしさを強調されているようで、桜乃はつい彼らに見蕩れてしまった。
「流石、王者立海は気合も違うね」
 微笑んで褒めてくれる教師に、生徒達は照れ臭そうに笑う。
 そして、全員が冷蔵庫の中のペットボトルをそれぞれ手にしたところで、幸村が桜乃へと振り返った。
「じゃあ、行ってきます。留守番、お願いします」
「はい、気をつけてね」
 彼らを送り出し、桜乃は一人になり、途端に広く感じた別荘の中で暫く静かに佇んでいた。
 八人もいると、あんなに賑やかなんだ…いなくなったら急に寂しくなっちゃうなぁ…
「…いけないいけない。お仕事お仕事」
 気を取り直して、桜乃は先ずは別荘の中の掃除に取り掛かる。
(あ、そう言えば、キッチンにエプロンがあったなぁ…あれ借りようっと)
 自分なりに準備をして、桜乃はいよいよ自分の仕事へ集中し始めた……


「うひ〜〜〜〜〜っ!! 効くな〜〜〜〜〜っ!!」
「いつもの舗装された道路とはワケが違いますからね…流石に少々こたえます」
 山道を登り、頂に着いたところで引き返すという単調な作業ではあるが、効果は覿面だった。
 普通の道とは異なり足元が悪い為に、よりバランス感覚と大腿から腰の力が必要となる。
 更に下る時にも同様の要素が必要となる上、重なってきた疲労との戦いともなる。
 止めには、彼らの手足には鉛のウェイトが付けられているのだから、その負担はかなりのものだ。
 それでも誰一人脱落者がなくほぼ同時に別荘に戻って来れたのは、流石に普段鍛えている成果だろうか…
「ふぅ…去年よりはタイムは短かったけど…もうちょっといけると思ったんだけどな」
「流石だな精市…今年は勝てると思ったが」
 いつもより多量の汗を流しながら、真田が幸村に言うと、向こうも汗を拭きながら微笑んだ。
「お互い、負けず嫌いなのは同じってことだね…まぁそうでもないと立海のレギュラーなんて出来ないよ」
「確かにな」
 ふふ、と互いに笑い合って、彼らは背後に立つ他のメンバー達の人数を再度確認した。
「うええ…飛ばしすぎた…何か胃から出そう」
「あっちでやれあっちで!!」
 切原が辛そうに言う脇で、ジャッカルはしっしっと無碍に追い払う素振りをする。
「わぁ先輩やっさし〜〜…ううう」
 尚も苦しそうにしている相手に、真田がぐっと意味深に右の拳を握り締めながら言った。
「いっそ吐いた方が楽になれるかもしれんぞ? 腹に一発、手を貸すか?」
「お気持ちだけで結構ですっ!!」
 マジで内臓まで吐き出しそうだ!と青くなりながら、切原は自分の腹部を庇う。
 多少無理はしたが、この調子なら少し休めば回復は出来る…一年生の時にも何度もこんな経験はしているから、身体も覚えている。
「あ〜〜…ちょっと水分補給して来るっすよ。もうボトルも空なんで」
「む、そうだな…補給しておくか」
 真田が相手の提案に頷くと、幸村が全員に声を掛けた。
「皆、一回中で休もう。念の為に、自分の体調を再度確認してくれ」
 彼らの中で異論の出る筈もなく、皆はぞろぞろと玄関へと向かった。
「ただいま〜〜〜」
 一番乗りで玄関のドアを開いたのは切原だった。
『お帰りなさーい』
 そんな返事が聞こえると同時に、キッチンの方からぱたぱたとスリッパの音が響いて…
「あら切原君、ロードワーク終わったの?」
「っ…」
 そこから出てきたのは、純白でふりふりのフリルが付いたエプロンを纏った桜乃だった。
 清楚で可憐なその姿はまるで、新婚ほやほやの若奥様!!
 しかも手にはお玉まで持っているし…正に男心直撃の最強装備である。
「〜〜〜〜〜!!」
 彼女の姿を見た切原は途端に後ろを向き、自分の鼻を押さえつけながらバンバンと強く壁を何度も叩き始める。
「何をしとるんだお前は…」
 何事が起こっているのかと呆れた顔で中に入った真田も…
「あ、真田君もお疲れ様」
「!!!!!」
 同じく、彼女のエプロン姿を見た瞬間、切原と同様背中を向けて拳で顔を隠してしまった。
『副部長も同じじゃないっスか』
『黙れ…』
「…どうしたの?」
 ひそひそと小声で会話する二人を訝りながら声を掛ける桜乃だったが、自分がその原因であるとは微塵も思っていないらしい。
「二人とも…?…ああ」
 何だろうと思って入った幸村は、彼らから桜乃に視線を移した時点で状況を理解し、笑いながら頷いた。
「戻りました竜崎先生…随分可愛いエプロンですね」
「ああ、キッチンにあったのをお借りしたの…柳君の叔母様って、凄く可愛いのがお好きなのね」
 続いて入室してきたレギュラー達が、彼女の姿を見て心の中で拍手喝采。

(よくぞやってくれました、叔母さんっ!!)

「お前達の心の声が、非常に不本意なのだが…」
 一人、その叔母の身内である柳だけが、腑に落ちない表情でそう呟いていたが、最早誰も聞いていない。
「トレーニングは終わったの?」
「ロードワークは。一度休憩を挟んでこれから試合です。その前に水分を補給したいと思いまして」
「あ、そうよね、うん。待ってて、準備するから」
 再びキッチンへと彼女が戻っていったのを合図に、部長が切原にこっそりと囁いた。
「補習組になって良かった…なんて考えてない?」
「べ、べべべべべべ、別に…」
 否定はしているが本心は明らかであり、思わず幸村は苦笑してしまった。
 叱るつもりはない…正直、自分も相手に感謝したいぐらいだったからだ。
 彼の痛恨のミスがなければ、彼女もここに来ることなど無かった…
「…全く…弦一郎も大丈夫?」
「む…うむ…」
 二人を気遣う幸村の隣では、エプロン姿で一気にバイタリティーを注入された丸井が大はしゃぎだった。
「いーなーいーなー! 竜崎先生のエプロン姿〜〜、俺、一杯写真撮って帰ろ〜〜〜〜!」
「大声で叫ぶなよ、恥ずかしいだろがっ!!」
「え〜〜〜? だってジャッカルだって欲しいんじゃないの〜〜?」
「う…っ」
 にひひ、と笑っている彼の隣では、既に仁王が手にしていたデジカメの画像を確認していた。
「ふむ、まずまず…」
「で、いつ貴方がそれを手にしていたのか是非お伺いしたいところなのですが…」
「イヤじゃの〜〜、どうせなら綺麗な画像で撮りたいじゃろうが。携帯のはどうにも粗いんじゃよ」
「そういう事を聞いているのではありません」
 そんな話をしている間に、水分の補給を桜乃の手伝いの許で済ませると、今度は試合をするべく全員がコートに移動。
 彼らが来るという予定を受けて、叔父夫婦はちゃんとコートの手入れもしてくれていたらしく、特に何の準備もしなくても、すぐにプレイが出来る程に綺麗に整えられていた。
「相変わらず律儀なんだね、蓮二の叔父さん達って…やっぱり血なのかな」
「叔父は世話好きな人間だからな…それにここを有効利用してくれるのが嬉しいと言っていた。やはり、家は住まないと悪くなるからな」
「後で改めて御礼を申し上げねばならんな…」
 三強はコートを見つめてそう言うと、その好意を無駄にするまいと、次のトレーニングに取り掛かる。
「今日は気分を変えてくじ引きで試合の組み合わせを決めるよ。全員シングルスで。当然くじと言っても試合は真面目にやること。気を抜いていると看做したら、遠慮なくペナルティーを追加するからね」
「ほーい」
「じゃ、ぼちぼちやるかー」
 そして全員は、くじに従い、それぞれが当たった相手と心置きなく自分の全力を揮って試合に臨んでいた……



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