どたばた夏合宿(後編)
「いっただっきま〜〜〜〜っす!!!」
思い切り身体を動かしたら、その分思い切り腹が減る。
それは誰であっても逆らえない自然の摂理というものであり、勿論、立海メンバー達も例外ではなかった。
育ち盛りの男の子達なんだから、よく食べるだろうと見越していた桜乃は、これでもかと挑むほどに大量の料理を準備していたのだが、彼らの胃袋はその挑戦を物ともせずに、次々と大皿を空にしていった。
無論、味付けも絶妙だったというのも大きな理由だろう。
桜乃が『料理は得意』と言っていたのは正に真実で、夕食が終わるまで彼らが箸の動きを躊躇ったり止める事は一度として無かった。
「……エコロジーだねぇ」
生ゴミが出る余地が無い、ということを遠まわしに言った教師に、ほぼ完食していた幸村が笑った。
「身体が資本ですからね。それに、先生の手料理、とっても美味しかったですよ」
「そ、そう? お祖母ちゃん仕込みなの、喜んで貰えたら嬉しいな」
その時、幸村はさり気なく…実にさり気なく、相手から或る一つの答えを引き出そうと鎌をかけた。
「ええ、とても…先生の恋人の方は大喜びなんじゃないですか?」
そして、彼女は見事なまでの素直さで引っ掛かる。
「あはは、やだなぁ恋人なんていないよー、なかなか縁がなくて…」
(……ふーん、いないんだ…)
(…あれ?)
一瞬、妙な沈黙が流れたが、桜乃が辺りを再度見回した時には、既に普段のメンバー達がごちそーさま、と手を合わせていた。
「後片付けしないとね」
「あ、私がやるからいいよ。皆は明日もあるんだしゆっくり休んで? 切原君は補習があるから、教科書とノートを準備しておいてね?」
「は、はい!」
どき、と微かな期待に胸が高鳴り、切原は少し緊張した面持ちで返事を返した。
(そ、そっか、補習が前提だったし…竜崎先生が代わりに講義してくれるんだっけ)
これってもしかして何気にお近づきになれるチャンス?
補習組になったのは俺だけだし、となると、補習受けるの俺だけだし、となると、あわよくば二人っきりで……
そんな妄想めいた気持ちを押し抱いていた三十分後……
(…まぁ、よく考えなくてもこの先輩達がそうあっさり引っ込むワケがなかったよな…)
がっくりと切原が脱力したのはリビングに置かれたテーブルの前…
そこには彼だけでなく他の全メンバーがずらっとテーブルを囲むように座り、それぞれが持ち込んでいた各々の教科書なり参考書が広げられていた。
曰く、『折角だから、一緒に合同で勉強会を』とのことらしい。
しかし、切原にしてみれば『一人だけいい思いさせるかコラ』という宣告に聞こえてならない…そしておそらく正しいのは後者だ。
「皆、偉いねぇ。部活だけじゃなくて勉強も熱心にやってて…先生嬉しい〜」
「学生の本分ですから」
くいっと眼鏡を押し上げて答える柳生の言葉ですら、今は疑わしいものに聞こえて仕方がない…
「じゃあ、切原君。一応補習用のプリントを預かってきたの。本格的な試験用紙みたいになっているから、実際の試験を受けるように制限時間内に解いてね?」
「へーい」
そして切原が試験に向かっている間、他のメンバー達も各々の自習を始め、桜乃も自分が分かる範囲で教示を始めた。
英語が担当科目とは言え、自分は人生の先輩なのだ、知らないという選択肢は最初からない。
「ここはこの解法でOK?」
「うーん、それでもいいけど、こっちで解いたほうが途中の計算ミスとかなくていいかも」
英語に限らず複数の教科を桜乃が見ている間に、切原は一生懸命悩みながらも問題を解いていく。
そして制限時間を過ぎることも無く、彼は一通りの答えを書き上げて手を上げた。
「先生、出来た」
「あ、終わった? ちょっと待っててね? こっちが終わったらすぐに行くわ」
まだジャッカルの方の指導が終わっていなかった桜乃が申し訳なさそうに断り、それなら、と切原が差し出そうとした用紙を引っ込めた時、偶然、真田の視界の前をそれが通り過ぎる。
「ふむ…ちょっと見せてみろ」
ここでこいつの実力を見ておくのもいい機会だ…と、真田が用紙を取り、目の前のテーブルに置いて、さて確認を、と視線を落とした直後…
がんっ!!
「いいっつ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「き〜〜さ〜〜ま〜〜〜〜〜…」
ものの一秒としない内に、副部長は相手の頭を拳骨で殴っていた。
「何するんスかーっ!! 答え合わせもしてない内から〜〜〜!」
百点は取れていないだろうが、いきなりの暴力はあんまりだと後輩が抗議の声を上げたが、向こうは聞く耳持たないとばかりに怒りに身体を震わせて怒鳴り返した。
「やかましい!! これがもし本当の試験だったらお前は速効で失格だバカモン!! なんっだこの記載は〜〜〜〜っ!!」
「?」
怒る先輩がびっと指し示したのは、用紙の一番上の、記入日を記す項目。
平成200△年 8月 〇日
「…うわぁ、初めて見たよ」
「……都市伝説と思っていましたが、まさか本当にやる人間がいたとは…」
幸村や柳生が感心している間にも、真田は切原に迫って厳しく詰問している。
「何なんだこの平成200△年というのはー!! 貴様の頭の中では、天皇陛下は二千歳越してるのか、ええっ!!??」
「あ、あれ…?」
おかしいなーと首を傾げる切原を見遣りながら、仁王も呆れた様子で呟く。
「……ゾウガメの親戚か何かかの…キリストもびっくりじゃ」
「因みにゾウガメの平均寿命は二百歳から三百歳」
突っ込む柳はあくまでも冷静だったが、やはり切原に対しては半ば諦めというか、哀れみの視線を送っている様に見える。
「もしかしたら、試験を受けても受けなくても、結果は同じだったんじゃないのかい?」
「違うだろって言えないトコロがまた嫌だなそれ…」
丸井とジャッカルがそんな事を話している間に、ようやく切原にかまえるようになった桜乃が苦笑して最初のアドバイス。
「と、取り敢えず、落ち着いて読むことから始めようか。確かにそんなところで落とされたりしたら、悔いが残るじゃ済まないし」
「へーい…」
先輩の指摘を受けて小さくなっていた切原だったが、それからようやく桜乃の指導を受け始め、補習を終えて皆が寝入るまで、のんびりとしながらも有意義な時間が流れていた…
翌日
「今日は午前中からの時間があるので、海に出て遠泳、素潜りを行い、基礎体力を高める訓練を行う。気分の悪い者は予め申し出るように」
朝食時から柳のスケジュールの確認が行われた後、特に問題なく全員の参加が決まった。
昨日のトレーニングも確かにきついものではあったが、普段の鍛錬のお陰か回復力も凄いものがある。
「皆しっかりしているから大丈夫だとは思うけど、海は危険も多いし、くれぐれも気をつけてね。」
朝から例のフリルエプロンを纏い、全員の朝食をまかなっていた桜乃は、昨日と変わらずに麗しい笑顔を見せていた。
本当に、こうしてみたら朝から甲斐甲斐しく夫の世話をする若奥様といった感じ。
こんな奥さんがいたらいーなーという全員の羨望を受けながら、桜乃は皆の安全を気遣っていたが、部長の幸村がそれなら、と彼女に提案をした。
「じゃあ、先生も俺達と一緒に海に行きませんか?」
「え? 私も?」
ぴくーんっとさり気なく他のメンバー達が反応しているのにも気付かず、教師は素直に相手の申し出について考え込む。
「ええ? うーん…」
「一応、水着は持参するように伝えていましたよね」
「え、ええ、持って来てはいるけど…」
きっと恥ずかしがっているのだろう乙女に、幸村は多少強引ではあるが海へ同行することを勧めた。
「では行きましょう。遠泳の時には先生はボートがありますからそれで移動出来ますし、監督する立場として付いていてくれたら俺達も心強いです」
「…そ、そっか…監督しないといけないんだよね、私しか教師いないし…それじゃあ、行こうかな」
「有難うございます」
(結構策士だよな、ウチの部長…)
本来ならば、生徒達だけで来る予定の合宿だったので、そういう義務はないのだ。
もし本当にそんな立場の大人が必要であれば、顧問の教師が来る筈である。
しかし、今は誰もそれを指摘することも止める事もなく、彼らは桜乃を連れて海に繰り出す事に成功したのである。
幸いにも今日も昨日に負けずの快晴で、彼らが海岸に来た時には既にカンカンと日光が容赦なく照りつけていた。
「うわぁ、暑いねぇ…でも、こういう時に泳いだら気持ち良さそう」
皆が水着に着替えた出で立ちの中で、桜乃もまた花柄のワンピースの水着に着替えて上からパーカーを羽織っていたが、細くも柔らかな曲線を誇る身体はなかなかにグラマーだ。
『あんだけ可愛くて、性格良くて、ないすばでーで、どーして恋人がいないんだよい』
『迫った男はいても、本人が鈍感で気付かなかったと見ました』
『そ、そっか…じゃあ、少し強めにアタックした方が勝率は高いと…』
ぼそぼそぼそ、と若者達が良からぬ(?)企みを企てている間に、三強と教師の話し合いは暫く続き、それから彼らも皆と合流する。
「じゃあ、俺達は今から全員、あそこに見える孤島まで遠泳をする。コースは先生のボートと先に泳ぐ俺達で先導するから。もし気持ち悪くなったりしたらボートで休むってことで、いいよね」
おう、と一応全員が応じた後、こっそりと切原がジャッカルに話しかけた。
「…もし万一溺れたりしたら、竜崎先生が人工呼吸してくれるってコトっすか?」
「その一言でお前が何を考えているか一目瞭然だが…まぁ、妥当なトコロなんじゃないか?」
「ああ、因みに…」
その不届きな会話が終わらない内に、幸村がにこりと笑って補足を入れた。
「一応先生は付いてるけどライフセーバーは俺だから。病院でも暇潰しに習ってたし、人工呼吸なら任せて」
(死んでも泳ぐっ!!!!!)
ヤローに『ちゅう』されるぐらいならっ!!と、全員が心の底から叫ぶ脇で、切原の企みも実行に移される前にあえなく頓挫。
「頼もしいねー」
自身が危機から救われたのも知らない桜乃はのほほんと部長を褒め、心の涙を流している若者の気持ちは露知らず、ボートに乗って全員の安全確認をするべく海へと出発したのである。
それに続いて、全員も海へと入っていく。
「途中までは漕ぎ方の指導もあるので同行します。先生が慣れたところで、俺も遠泳に参加しますが、宜しいですか」
「うん勿論。宜しくね、柳君」
参謀の助けを受けながら、桜乃は全員が順調に孤島に向かう様子を眺めている。
眺めると言っても、誰かにおかしな様子がないかを確認してもいるので、これでも神経はかなり使っているのだ。
「足が攣ったりしたらすぐに言うのよー」
やがて前言の通りに参謀も遠泳に加わり、桜乃はオールを漕ぎながら皆が危なげなく泳ぎ続けている姿をじっと見つめていた。
(うわ、凄いな〜、皆私より年下の筈なのに…失礼かもしれないけど、ウチの学校の男性教師達よりずっと頼りがいある感じ…)
海に入る前は不埒な言葉すら述べていた切原も、今は桜乃がボートに乗っている事実すらも忘れているように一心不乱に泳ぎ続けている。
目の前をいく先輩達三人を追い抜いてやろうという気概に溢れている姿は、結局のところ、闘争本能や負けず嫌いなところは、本人であっても隠しきれるものではない事を表していた。
(格好いいなぁ皆…)
知らず、ぽっと顔を赤らめてしまった桜乃は自分の意外な反応に思わず頬に手を当てた。
(え…? ぽ……っ?)
何、今の…私、どうしちゃったの…?
「せんせ、りゅーざきせーんせ」
「は、はいっ?」
戸惑っていた彼女に海から声が掛けられ、そちらに顔を向けると、追いついたボートの縁に掴まった丸井がひらひらと手を振っていた。
「俺の分のジュースちょーだい…やっぱ外暑いの? 顔赤いけど」
「あ、ううん、大丈夫よ。ごめんね、はい、どうぞ」
運動途中での適度なアミノ酸飲料などの補給ぐらいは許可されており、それらをボートに積んでいた桜乃は相手に彼の分のボトルを手渡した。
「そうだ、ついでに唇も見せてくれる? 丸井君」
「へ…?」
身を乗り出していた丸井に近寄り、桜乃はすっと手を伸ばして相手の頤を支えると、そのまま指で彼の唇に優しく触れ、なぞりながら海水を拭ってやる。
「…っ!!」
どき!!と微かに戦慄いた丸井の異変に気付かないまま、桜乃はひょいっと顔を近づけて、至近距離で唇の色を確認する。
「うーん…まだ色は大丈夫ね。肌が冷たいのは水に浸かっているから仕方ないかもしれないけど…平気?」
「お、おう…もう、全然バッチリ…」
もし海に入っていなかったら丸井もきっと真っ赤になっていただろうが、元々身体が冷やされていた所為で見事にカモフラージュされる。
しかし、今のショックで若者の全身は熱くなり、代謝が一気に活性化した様な感覚に陥った。
血管が拡張し、血圧が上がった所為かもしれない。
「? そう、良かった」
頑張ってね、と彼を送り出した後も、桜乃は他のメンバーが同じ要求をしてきた時に同様に唇のチェックをして、その都度、彼らの胸を高鳴らせてしまう事になる。
しかしそれから結局、桜乃は自分の感じたときめきの正体は最後まで分からないままだった…
$F<立海リクエスト編トップへ
$F=サイトトップヘ
$F>続きへ