「そう、残念。じゃあ次の機会だね」
「ええ、やる事は同じなんですけどね、やっぱり喉が…」
「…え?」
「!!」
 不思議な言葉に思わず幸村が聞き返し、他のメンバーも耳をそばだてる。
 しかし、桜乃はそれを言った直後にぱふんと自分の口を押さえ、しまったという表情を浮かべつつ首を横に振った。
「な…っ、何でもないです!!」
 人生の教訓…何でもないと言った事は、大抵その人物の重要事項。
(何でもないワケないじゃろが…)
(バレバレですよ、竜崎さん…)
(よりによって幸村部長の目の前で…)
 仁王や切原があーあと眺める向こうで、一旦は引きかけた幸村が更なる追撃をかけた。
「やる事って…歌うって事?」
「い、いいい…いえっ、それとは違うというか何と言うか…!」
 あわあわと慌てて弁解する姿が、尚更疑惑を浮き彫りにしてしまうという悪循環。
 しかし、あまりに狼狽する姿に幸村本人も可哀想だと思ったのか、苦笑しながら首を振った。
「いいよ、同じカラオケに行くならそう言ってくれたらいいのに…他の友人達と行くんでしょ?」
「は、はぁ…ええと…」
 視線を逸らしながら、まだ曖昧な答えを返す桜乃を見つめ、暫く何かを考えていたやり手の部長は、くす、と笑みを深めて彼女の肩を優しく叩いた。
「なら別に俺達に気兼ねする必要なんてないよ。でも、今度は俺達とも一緒に行ってくれる?」
「は、はい…」
 どうやら幸村が、自分が他の友人とカラオケに行くと思っているのだと理解した桜乃は、それを特に肯定するでもなく、否定するでもなく、何故か安心したように頷いた。
「良かった…じゃあ、そろそろ練習を始めるから、外に行こうか」
「はい! じゃあ、私、先に行きますね」
 ほっとした様子で、持っていた学生鞄を傍のテーブルの端に置かせてもらい、部室から出て行った桜乃を見届け…幸村はゆっくりと振り返りつつ仁王へと目を向けた。
「…どう思う? 仁王」
「嘘じゃろ」
 速効で答えると、仁王は唇の片端を吊り上げ笑った。
「本当に嘘が苦手な子じゃのう…あれじゃテニスでの駆け引きも苦労しそうじゃ。大体、本当にカラオケに行くなら最初からそう言うじゃろ」
「そうだよね…カラオケじゃない…けど、歌う何か…か。面白そうだね」
 でも、何なんだろう…と人差し指を口元に当てて幸村が考え込むと、丸井がジェスチャーも激しく両手を前に広げながら…
「合唱コンクールぐらいだろい? そういうの…っとわ!!」
 主張しようとした時に、片手が先程桜乃が置いた鞄に勢いよくぶつかり、彼の手はそのままそれを床に落としてしまった。
 しかも当たった衝撃で鞄が開き、中の物が床の上に散らばってしまい、丸井は慌ててしゃがみこんだ。
 勿論、散らばったものを集めて拾う為だ。
「うわわわっ! やべっ!」
「ああもう、何やってんだ、丸井!」
 仕方ないな…と手伝おうと同じくしゃがんだジャッカルや他のメンバー達が、黙々とプリントや教科書を拾っている中…
「……あれ?」
 ぽつん…と丸井が呟き…
「…む?」
 副部長の真田もまた別の場所で座り込んだまま小さく唸った。
「? どうした、弦一郎」
「…いや、彼女が持つものにしては珍しいものだと思ってな」
 真田が床から取り上げた、やけに使い込まれ、くたびれた書類を柳に見せると、相手も興味深そうに中身を覗きこむ。
「……ほう…この楽譜は…」
「楽譜? 音楽の課題か?」
 ジャッカルが同じくそこに加わろうとしたところで、今度は丸井が声を上げ、拾い上げた別のプリントを振り回した。
「もしかしてさぁ、それって、賛美歌か何かの楽譜!?」
「!」
 柳が驚いた様子で相手を見るという事は…どうやら当たりの様だ。
「…どういう事?」
 部長の一言で、全員が自然と一つ処に集まり、書類の返却は一時お預け。
「もしかして、おさげちゃんの予定ってこれじゃね?」
 丸井が見せた一枚のプリントを見て、幸村はそれから部室の壁に掛かっていたカレンダーを確認した。
「…そうか、そう言えば次の月曜も連休でお休みだったね…じゃあ日曜の誘いを断ったのはきっと…」
「この日に備えてのものだったんでしょうね…」
 全て納得したという様子で柳生が頷いたが、他のメンバー達も同じ様な反応で、皆が顔を見合わせると頷いた。
「…で、どうする?」
 真田が部長に呼びかけると、相手は楽しそうに笑いながら答える。
「月曜は午前中だけの練習だから、行こうと思えば間に合うよね…俺は行くよ」
「行かいでか!」
 丸井がぐっと拳を握り締め、高らかに宣言。
「俺も行くぜよ…滅多にないじゃろ、こんな楽しいイベント」
「是非、拝聴したいものですね」
「俺も行くっす!」
 それから次々と他の男達も賛同の意志を示し、結局全員が謎のイベントに参加表明。
「そうと決まれば取り敢えずは証拠隠滅じゃ。おい丸井、荷物戻せ」
「うし!」
 決議したところで、皆は一斉に桜乃の鞄の中身を全て何事もなかった様に元に戻すと、鞄も元の位置に戻す。
「じゃあ、皆。当日まで、この件については竜崎さんには内緒ということで…逃げられる事がないようにね」
 部長の幸村が不吉な念押しをしたのを最後に、彼らは何事も無かったかの様に平然とコートへと出て行った…


 問題の月曜…その日は祝日で、日曜よろしく、多くの人々が街へと繰り出していた。
 そんな都内のとある街…桜乃が住んでいる街から少し離れた閑静な場所にも、今日は多くの人々が訪れていた。
 若い男女であったり、老齢の女性であったり、家族連れであったり…様々な層の人々が集まった場所は、或る教会。
 そこに、慌てた様子でばたばたと駆けつけた若者達の集団があった。
 幸村を始めとする立海メンバーである。
「ああ、良かった、間に合ったみたいだね」
「けど、人多いな〜」
「入れるのか?」
 彼らが入っていく教会を囲む塀には、『チャリティーコンサート』という装飾された文字が並び、下に細かなスケジュールが記されている。
 その会場が教会の礼拝堂であり、彼らは時計を確認しながら中へと入っていった。
 天気も良く、美しいステンドグラスを通して入ってくる光が、実に鮮やかに且つ美しく、白の世界を彩っている。
 前方中央には磔刑に処されたキリストが掲げられ、祭壇の向こうにはパイプオルガン。
 向かって左側にはマイクが備え付けられている。
 並べられた長椅子に客人達は静かに座り、次の演目を待っていた。
『スケジュールでいくと次がそうか…本当にぎりぎりだったな』
『ああ』
 真田がひそりと囁き、柳が静かに頷いた。
 途中からの参加になる為、席はかなり後ろの方になるが、背も高く、視力も良い彼らなので、それでも前方を見るには何ら問題ない。
 静粛に、アナウンスのないまま進められる進行方法らしく、特に説明もなく次の演目を行う出演者が前部脇の扉から姿を現した。

『!!!』

 周囲の観客達からささやかなどよめきが起こり、出演者の一人の姿を見たメンバーが、全員、声を失い、瞳を最大まで見開いた。
「う…っ」
 『嘘!!』と叫びそうになった自分の口を丸井がかろうじて塞いだが、今度は過呼吸に近い状態に陥ってしまう。
 最早、全員、顔を見合わせる余裕も無くなってしまっていた。
 純白のマーメイドラインドレスを身に纏った一人の少女が、厳かに、伏目がちに現れ、ゆっくりとマイクの場所へと歩いて行く姿が、白の世界にあっても鮮やかに映える。
 教会内のところどころから漏れる溜息が響く中、彼女はそれも聞こえていないように長い髪をさらさらと遊ばせ、背筋を伸ばして歩いていた。
 その髪はいつもなら、おさげの形で揺れているものだ。
 艶やかな髪には、白のカスミ草を象ったオーナメントが控えめに飾られ、それが却って彼女の黒髪の彩をより際立たせていた。
 その姿はまるで、誰かの許へと嫁ぐ花嫁の様だった。
「…すっげ綺麗」
 囁くような声で切原がそう言うとほぼ同時に、パイプオルガンが旋律を奏でてゆく…そして、
『天なる神には 御栄(みさか)えあれ…』
 少女は歌いだした…瞳を閉じ、天に向かう様に高らかに。
『地に住む人には 安きあれと 御使いこぞりて ほむる歌は 静かに更けゆく 世に響けり』
 その歌は、あの日、桜乃が鞄に忍ばせていた楽譜のものと同じ。
 使い込み、端々が汚れてしまった…様々な書き込みがなされていたあの楽譜。
『今なお御使い 翼を伸べ 疲れしこの世を 覆い守り…』
 桜乃は、伸びやかに、微笑みすら浮かべて歌い続けている。
 きっと、何度も何度も、この日の為に繰り返し歌い続けていたのだろうその歌を。
『悲しむ都に 悩む鄙(ひな)に 慰め与うる 歌をうたう』
「……っ」
 突然、幸村が己の身体を抱いてぶるっと震えた。
『精市…?』
 声を掛ける真田に、彼は苦笑いを浮かべた。
『凄い…鳥肌が立っちゃった…』
 凄い…ただただ美しい…叫んでいる訳でもないのに、叫びより強く心に突き刺さってくる…
 そして、彼らは再び少女へと目を向け、耳を傾けた。
 美しい歌は、まだ続いている。
 ずっと聞いていたい…けれどその願いは叶えられないだろう、それならせめて彼女を自分たちの傍にこれからもずっと……


 夢の様な一時は観客達の歓声と拍手を代償に幕を下ろし、その娘は一礼して来た時と同じ様に何も語ることなく、静かに退出を果たした。
「…ふはあぁぁぁ〜〜」
 裏にあった母子室が今日は臨時で参加者に解放されており、そこでようやく桜乃は深く深く息を吐き出した。
(お、終わった〜〜〜〜! 失敗しなくて良かったよう〜〜〜〜!!)
 昨日は緊張で殆ど眠れなかったけど…良かった、声もいつも通り出てくれたし、裏返ったりもしなかったし…
(誰も知らない人達ばかりだったけど、カボチャだと思うようにしていたし…)
 実はとんでもない知己達がその場にいたとは、桜乃は当然気付いていなかった。
 まともに客達の方を見てしまえばそれだけで緊張の極みに陥り、どうなるか分からなかったので、とにかく本番では視線を逸らし、歌うことに集中していたのだ。
 結果、それは最善の評価を引き出すことになったのだが…
「竜崎さん、今日は本当に有難う、見事な歌でしたよ?」
 そこに来たシスターに、桜乃は改めて深くお辞儀をする。
「あ、いえ…お役に立てて良かったです」
「ごめんなさいね、御祖母様の繋がりでお願いして。でも、引き受けてくれて本当に助かりました。こんな可愛らしいお嬢さんが、綺麗なドレスで御歌を歌って下さって、お客様も喜んでいましたよ」
「はぁ…」
 本当は、祖母から『お願い』された…なんて可愛いものではなかった。
『引き受けないなら、もう立海への見学も不許可にするよ』
『お祖母ちゃんのオニ〜〜〜〜〜〜ッ!!』
 まぁ…かいつまんで言うと、こういう事があったのだった。
 結局桜乃が負けて…こうなってしまっているのだが。
(けど、人助けにもなったなら良かったかな…誰にも言わなかったらバレないし…)
 既にバレていることを知らない桜乃に、シスターがああ、と声を掛けた。
「そう言えば、お友達の方が外でお待ちでしたよ?」
「……はい?」
 お友達? 誰の?
「竜崎さんのご友人という方々が、外でお待ちしているって」
「…???」
 まさか、そんな…ここの事は誰にも言ってないんだけど…
(…ひ、人違いだよね、きっと…)
 そう思い…いや、願いながら、桜乃はそのままの姿でこそ〜っと母子室から出て、そこから続く教会の庭園の様子を窺ってみた…ところで、
「あ」
 ばったりと出くわした人間…嫌なことには非常に見覚えのある人物だった。
「やあ、天使様だ」
「ゆきむら…さん…?」
 くすくすと笑ってこちらを見下ろしているのは…私服姿だが紛れも無い立海の部長だった。
 何でこんな処に…と言うより、今はとにかく…
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」
 くるっと反転し、じたばたと足を動かして逃げようとした天使を、幸村は笑ったままあっさりと腕を掴んで捕まえてしまった。
「まぁまぁまぁ…」
 そうしている間に、彼以外のメンバー達も桜乃の姿に気付いて近づいてくる。
「おう、今日の主役じゃぞ」
「あーっ! 良かったーっ! さっきのと同じカッコだおさげちゃんっ!! やっぱ、きっれ―――い!!」
「竜崎、見事な独唱だったな。お前にこんな特技があるとは」
 彼らの賞賛の声を聞く度に、しかし少女はどんどん顔色を失ってゆく。
 その言い方…まさか!
「まままま、まさか皆さん…さっきの歌…聞いてたんじゃ…」
 そんな相手にジャッカルがこくっと頷いた。
「おう、最初から最後までバッチリ」
「静聴させて頂きました」
「いやああああああっ!!」
 ぶんぶんぶんと首を激しく振って、礼拝堂での清楚な姿は何処へやら、激しく取り乱した少女は涙目になって自分を捕える幸村に迫った。
「どうして知ってたんですかーっ!?」
「まぁ、色々とね…けど、知ってて良かった。こんな可愛い天使様を見逃すなんて、考えられないからね」

 ぎゅーっ…

「!!!」
 相手はにこにこととても嬉しそうに笑いながら桜乃を抱き締め、そんな彼に同じく柳生がデジカメを構えて笑った。
「お二人とも、こちらを向いて下さい。折角ですから記念撮影をしましょう」
「ふふ、いいね、宜しく柳生」
「ええええ!?」
「あーいいなーっ! 俺も後で撮ってくれよい!」
 それからは、まるで何処かのアイドルの記念撮影会のノリで、彼らは全員桜乃とのツーショットを撮り、その後も皆で彼女の姿を褒めていたのだが、やがて副部長が呆れた様子で割り入ってきた。
「お前ら…いい加減静かにせんか。まだ竜崎に渡すものがあるだろう」
「あ、そうだった」
 切原が真田の言葉に頷いて、彼が手にしていた袋から大きな花束を取り出した。
 真っ赤な大輪の薔薇が、美しく咲き誇っているそれを、代表である幸村に手渡す。
「じゃあ、宜しく、部長」
「うん」
「!?」
 驚く桜乃に、皆が見守る中、幸村は桜乃にその花束を手渡した。
「とても綺麗な歌だった…君をカラオケに誘うのは野暮だったかな、心が洗われたよ…有難う」
「あ……有難うございます」
 誰にも内緒だったから、まさか花束なんか、言葉なんか、受け取れると思っていなかった…
 まだ恥ずかしさは消えていなかったが、桜乃はようやく心を落ち着けて、それを受け取り礼を述べることが出来た。
(恥ずかしいと思ってたけど…わざわざ皆さん、来て下さったんだよね…)
 冷やかしでこんな処までは来ないだろう…黙っていたのは申し訳なかったけど、今は素直に嬉しいと思える。
 もしかしたら、彼らが見守ってくれたから…自分が心の何処かでそれを知っていたから、上手く歌えたのかもしれない…
「来て下さって嬉しいです、皆さん……大好き」

『!!!』

 天使の一言が、彼らにとってその日一番の収穫となったのは言うまでもない……


 しかしその後……
「なぁなぁおさげちゃーん。今度のゲリラライブはいつやんの?」
「バチが当たりますよっ!?」
 メンバーがカラオケに留まらず、桜乃の歌声を聴こうと企むようになり、彼女はちょっぴり困ったことになってしまうのであった……






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