Boy's trouble
朝、いつもの様に目覚めた時、桜乃が先ず気付いた違和感は異常なまでの頭の軽さだった。
能力的な意味ではない…実際に重さが違ったのだ。
「ん〜〜…」
『ハル―――――ッ!! いい加減起きないかいっ!』
「ん…お祖母ちゃん?」
いつもの朝のいつもの祖母の声…しかし、そこに聞き慣れない単語が混じっているのに、桜乃はベッドに起き上がったところで首を傾げる。
「…はる?」
はるって誰? そんな人、ウチに泊まってたっけ…?
まぁいいや、起きよう…とベッドから降りたところで、桜乃ははっと後ろを振り向いた。
ベッドに何か違和感を感じての行為だったのだが、その原因はすぐに分かった。
違う! ベッドのシーツや布団、枕カバーに至るまでが、全て寒色系のそれで統一されている。
昨日、自分が寝る前までは、それは暖色系の色だったのに!!
続けて、慌てた彼女が見回した自室も、まるで様相が異なっている。
白い壁には有名なテニスプレーヤーのポスターが貼られ、全体的に見ていかにも『男子』の部屋といった感じでまとめられている…但し、一般の男子の部屋と比較したら、かなり整頓されている方ではあったが。
(な、な、なにっ!?)
これってどういう事!?
私、昨日は何処かの誰かの部屋で間違って寝たの!?
でも、でも…下から聞こえてくるのは間違いなく自分のお祖母ちゃんの声だし…
とにかくここは、一刻も早く祖母に事情を説明しなければ!と、桜乃が慌てて居間に下りたところ、祖母である竜崎スミレは既に食事を食べ始めていた。
「お、おっ、お祖母ちゃんっ!…その、あのっ…」
「何だい桜咲(はる)。朝からそんなに騒々しくして…ほら、早く行かないと遅刻するよ。立海まではウチの青学より登校時間も掛かるんだからね」
慌てまくっている桜乃の意見を聞く前に、祖母のスミレはそんな台詞で相手を軽く嗜めたが、その言葉は更に桜乃を混乱させる事になってしまう。
「お、お祖母ちゃん? 何言ってるの? 私は…」
「わたし…? まだ寝惚けてんのかい? 桜咲。大人しいのは仕方ないが、もう少し男らしくならないもんかねぇ。お前が憧れてたっていう奴らがいるから、青学じゃなくて立海への入学を許したっていうのに…」
「はい…?」
男らしく…? 何で…?
男らしくって…私は女じゃない!
「お祖母ちゃん! からかうのは止めてよ、私は桜咲じゃなくて桜乃でしょ? 女の子の私に男らしくって…」
「……」
ちょっとだけ怒ってそう言っていた桜乃は、相手の異様な視線に圧されて途中で言葉を止める。
「え…?」
どうしたんだろう…お祖母ちゃん、凄く青くなってるけど……
「桜咲っ! お前、気は確かかいっ!?」
「はい…?」
そう言うが早いか、祖母は食事の手を止めて立ち上がり、桜乃の手を引いて慌てた様子で洗面所へと向かっていく。
そして、そこに到着すると、彼女は否応なく桜乃を鏡面の前に立たせた。
「よっく見な! お前は男じゃないか! 竜崎桜咲(はる)! 今年から中学一年生の、私の孫だよ。お前、もしかして熱があるのかい!? それとも何処か打ったのかい!?」
「っ!!!」
鏡の中の自分は…自分の知らない自分だった。
(なに……これ…)
祖母の言葉に耳を貸すゆとりもなくなってしまい、桜乃はその場で硬直した。
自分のささやかな自慢だった長い黒髪は、肩上でばっさりと切られており、完全な短髪スタイル。
面立ちは昨日までの自分のそれとほぼ同じだが…身体そのものが明らかに違う。
そう、桜乃はその時初めて…自分が男になっている事実に気付いてしまったのだった。
(ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?)
「いいかい桜咲。一応立海には電話して、朝練の方は休ませてもらう事にしたからね。お前の身体の不調も連絡しておいたから何かしらの考慮はしてもらえるだろう。あまり無理するんじゃないよ」
「う、うん」
結局、大幅に登校時間を遅らせてしまった桜乃は、取り敢えず、普通の授業からは参加する形で登校することに収まった。
鏡面前で危うく失神するところだった桜乃だったが、何とかそこは踏み止まり、彼女は、『実は昨日、アルコールが入ったチョコを食べ過ぎて…』といういかにもな言い訳で、記憶が曖昧になっているのだろうと祖母を誤魔化し、何とか最低限の情報を得ることに成功した。
どうやらここは確かに現実世界らしいが、自分だけが女子から男子に書き換えられている様な事態になっている。
誰もが最初から自分を男性としての個人だと認識しており…それは事実だった。
棚にしまってあった小学校の卒業アルバムを見せられ、確かにそこには女性でなく男性としての自分が写っていた。
つまり…女性だった桜乃という自分を知るのは、今はここにいる本人だけ。
本人が例外となっているのなら、それを自分が声高に叫んでも誰も理解はしてくれないだろう。
心底絶望したい気分ではあったが、まるで知らない第三者になっているよりは、幾分かマシではある。
何とか今日は不調ということで誤魔化し誤魔化し…そして学校でも必要な情報を手に入れなければ…
祖母の連絡の後ろ盾があるので、向こうで自分が少しヘマをしたとしても、多少は見逃してもらえるだろう。
(でも…まさか私、このまま一生男として生きていかないといけないのかな…)
朝、着替える時ですら、自分の身体を見るだけで気絶しそうな程に恥ずかしかったのに…いや、現実は見るどころか目を閉じたままの必死の作業だったのだが。
今更そんな…人生の予定を根本から書きなおせって言われても…
「あうう…考えるだけで泣きそう…」
しょぼしょぼ…と頭が自然に俯けられ、肩をかくりと落とした状態で、彼女がようやく立海の正門をくぐった時だった。
『あ、ハル―――――――ッ!』
「え…」
どうやら今の自分の名前は桜咲と言うらしいという事を覚えていた彼女が、ふっとそちらに目をやると、朝練を終えたらしい立海男子テニス部のレギュラー達が揃ってこちらへと歩いてきていた。
桜乃にとっては、青学の知己達よりもずっと親しい間柄にあり、心強い先輩達でもある。
(きゃ――――――――――っ!!!)
よりによって、一番自分の見苦しいところを見られたくない人達に〜〜〜〜っ!!
内心あわあわと慌てまくっている桜乃の気持ちを他所に、メンバー達は明らかな意志を持ってこちらへと向かって来ていた。
中でも赤い髪でお菓子大好きな丸井ブン太は、超特急でこちらに走ってくると、ぴょんっと飛び上がっていきなり抱きついてきた。
「おっはよ――――い!! ハルッ」
「きゃわ…っ! ま、丸井先輩!?」
つい女性の時と同じ感覚で反応し、桜乃はかなり大きく動揺してしまった…まぁ男同士でもここまで積極的に抱きつかれる事もそうないだろうが。
どう取り繕おうかと思っていたところで、そこにすぐに部長の助け舟が入った。
「こらブン太。桜咲は今日、具合が優れないそうだから、あまり負担を掛けさせちゃダメだよ」
「えっ、そうなの!?」
驚いた様子で振り返った丸井は、しかし相変わらず桜乃にべったり抱きついている。
相手が男子でも女子でも…結構刺激的な光景だ。
「練習中に祖母の竜崎先生から連絡があった。大事無いという話ではあったが、何かあったらフォローしてくれと頼まれている…しかし、本当に平気か? 桜咲」
参謀の柳も、補足を行いつつも相手を不安げに見つめてくる。
「は、はい…」
そうか、ここでは男性の自分は苗字ではなく名前で呼ばれているんだ…やっぱり男子で同じ学校の後輩だからかな…
そう考えつつも、ようやく丸井が離れて自由になった桜乃は律儀にぺこんと礼をした。
「朝練、参加出来なくてすみませんでした…先輩方にもご心配をお掛けして…」
普段から丁寧な言葉遣いだった桜乃は、男子になるとより一層礼儀正しい人間に見える。
「そう畏まるな。お前は俺達の後輩なのだから、何かあったら頼ってくれていいのだぞ?」
「はい…真田副部長、お気遣い有難うございます。嬉しいです」
学校に来る前までは『なるべく男らしく振舞わなければ!』と何度も心で決意していた桜乃だったが、早速そのメッキがべりべり剥げてゆく。
にこっと微笑み、再度ぺこっと頭を下げる彼女の仕草は、見た目男性でありながらまるで子犬を思わせる可愛らしさだ。
見えない犬耳がぴくぴく動き、尻尾がふるふると振られている様な錯覚まで見えてしまう。
「う…うむ」
何だ、この動悸は…と思いつつ返答を返す副部長の隣で、一年後輩に当たる切原赤也がぶーっと不満そうに相手を見上げていた。
「…同じ後輩なのに、どうして桜咲だけ甘いんスか? 俺、今日の時点で既に拳骨三発ぐらい喰らってますけど」
「胸に手を当てて考えろ」
朝から元気一杯なのにも関わらず朝練に遅刻し、トレーニング中に居眠りをかまし、掃除をサボろうとしていた後輩には、一縷の情もかけるつもりはないと、真田はばっさりと切り捨てる。
この場合、真田の方が全面的に正しいので誰もフォローの仕様がなく、逆に労わられていた桜乃の方がおろおろとしてしまったが、その彼女の頭にぽんと仁王が手を置いた。
「まぁ見たところは元気そうじゃの…結構連絡を受けてから皆心配していたんじゃよ、お前さんは男の割には華奢な身体じゃからな」
「う…」
確かに…昨日までは女性だったんですけど…もしかしてそれも今の自分の体格と関係あるのかな…まぁムキムキよりはマシかもだけど…と考えていたところに、今度は柳生が声を掛けた。
「体格については遺伝など本人にはどうしようもない面もありますからね。そう気にしないでもいいでしょう。仁王君はそう言いますが、貴方はガッツがありますし、普段の練習には遅れることもなく難なくついてきているんですから」
「えっ!? そうなんですか!?」
『…………』
(…はっ!)
自分の失言に凍った周りを見て、桜乃の心にどっと冷や汗が流れた。
(しまったぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!)
つい本気で驚いて言ってしまった!
でも、でも実際にそんなの考えられなかったし、入部はしているけど、きっと万年ビリの球拾い要員係だとばかり覚悟していたから、つい!
「お、お前本当に大丈夫か? やっぱ調子悪いんじゃ…」
「い、いいいいいえっ!」
まさか自分の近況のことさえ記憶が曖昧だとは…と先輩方の危惧する視線が痛い程に突き刺さってくる。
確かに、自分自身の事も満足に把握出来ていないのに学校生活など送れるのか、危惧する気持ちも分からないでもない。
戸惑いながらも声を掛けてくれたジャッカルに、桜乃はぶんぶんと首を振って否定した。
「だ、だだ、大丈夫ですっ! ち、ちょっと混乱しているだけでっ」
それは多分大丈夫とは言わない…
「…」
そう思ったのかどうかは定かではないが、それまで静かに桜乃の様子を見ていた幸村が声を掛けてきた。
「ねぇ、桜咲。レギュラーで話してたんだけど、今日みんなで昼食を食べる事になってるんだ。君も一緒にどうかな」
「え…?」
「みんなはどう?」
幸村の問い掛けに、否と答える部員はいない。
「別にいいッスよ、桜咲なら」
「邪魔になりうる要素はない…問題ない」
「俺もさんせー」
切原や柳、丸井の言葉を受けて、幸村は再度桜乃へと振り返った。
「調子が悪いのは事実なんだろう? 何となく一人にはしておけなくてね…お節介かもしれないけど、昼休みに顔を見せてよ。その方が俺達も安心なんだ」
「は、ぁ…」
本当は、レギュラーで何か重要なお話があるのではないかと一度は断ろうと思った桜乃だったが、先にそういう風に言われると断るのも申し訳ない。
それに、内心はやはり嬉しい、という気持ちの方が強いし…
「え、と…じゃあ…お、お邪魔でなければ、是非…」
伏目がちになり、うっすらと頬を染めて頷く「若者」は、まるで「少女」の様な雰囲気すら漂わせ、レギュラーメンバー達に例外なく目を惹かせてしまった…が、
(何でヤローにときめいてるんだ俺ら―――――っ!!)
今度は彼らが内心で冷や汗を流しまくっていたが、それは相手に気付かれる事はなかった。
「じゃあ、昼にテラスで集合ですね。授業が終わったらすぐに向かいます」
にこにこと笑って確認した後、一年生の棟に向かっていく後輩の後姿を見つめながら、面倒見の良い先輩達は暫し沈黙していた。
「…そう言えば俺達って」
ぼそっとジャッカルがやや沈んだ表情で提言する。
「…他にも山ほど一年の後輩背負ってる筈なのに、アイツだけ目をかけちまうのは何故なんだ…?」
「…えーと」
必死に答えを探そうとしている丸井の目も泳いでいる。
「み、見所があるからでは?」
かろうじて危なげない意見を述べる柳生に対し、相棒の仁王は視線を横に逸らして自身の見解を忌憚なく述べた。
「アイツよりテニスの才能ある奴なら、それこそ部内に両の指でも足りんほどにおるじゃろ…確かに、俺も気がついたらアイツの頭を撫でとるんじゃが…うーむ」
「確かに桜咲って、仁王先輩もあまり詐欺に掛けたりしないっすね…守ってやってるトコは見たことあるっすけど」
「…確かに、桜咲は何処か庇護欲を惹起させる様な一面があるな…虚弱、というのは不適な言い方だが…ふむ」
「……」
後輩の言葉に柳は同意を示す頷きを返し、副部長の真田は何を思っているのか無言で渋い表情を浮かべたままだ。
そんな部員達の言葉を耳に入れながら、じっと幸村は考え込んでいたが、ふと顔を上げてぽつりと言った。
「…可愛いんだよねぇ、『彼』」
ぎっく――――――っ!!!
心の中では薄々感じていたものの、口には出せなかった気持ちを代弁され、真田を含めた他の皆が一様に顔を強張らせた。
男に可愛いって…それって何か間違ってるよなぁ、やっぱり。
しかし、幸村の続いた発言は…
「…何か、子犬や子猫みたいな感じだよね…ペットみたいな感覚?」
(あーそうか!! そうそう、きっとそうに違いない!!)
実に無難で当たり障りのない補足に、メンバー達は無理やり落ち着いた。
「…何だか皆、必死に納得している気がするけど」
「き、気のせいだろう」
親友の突っ込みに返す真田も、結局最後まで幸村と視線を合わせることはなかった……
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