桜乃は、午前中はずっと教室内での授業だった為にさしてトラブルに巻き込まれることもなければ、精神異常を疑われる様なこともなく、概ね平和に過ごしていた。
学年が同じ一年という事もあり、授業内容にもそう違いはなく、指されても無難に答える事が出来た。
そうこうしている間に昼休みの時間となり、桜乃は授業の終わりと同時にバッグを持ってテラスへと向かっていた。
(良かった、午前中は別に疑われることもなかったし…何とか午後もこの調子で乗り切らないと…)
しかし、今日は祖母からの連絡の助けもあるので何とか遣り過ごす事は出来るだろうが、明日以降になるとどうなるのか…不安は尽きない。
(な、何とか上手く誤魔化さないと…でも、あの方達相手だと不安だなぁ…)
その方達は桜乃の不安を他所に、相手より早くテラスの一画を陣取り、後輩の到着を待っていた。
「お、きたきた」
切原の言葉に全員が一斉に桜乃…桜咲の方へと振り向いた。
「お待たせしました、遅れてしまって御免なさい」
相手が先輩方である場合、口調は自然と丁寧になるので、却って同級生と話している時よりボロは出にくくなる。
「構いません。私たちも先程来たばかりですから…体調は大丈夫ですか?」
「はい、お陰さまで」
柳生に促されて席に着き、早速みんなと一緒に昼食を取るべく弁当箱を開く。
「お…」
「はい?」
開くとほぼ同時に、ひょっと前の席に座っていた丸井が桜乃の弁当の中身を覗き込んだ。
「おお! およそ男のものらしからぬカラフルな弁当っ!! ってかすげぇゴージャスじゃね!? 桜咲のお母さんってマメなんだな〜〜」
「いえ、わ…」
思わず私と言いそうになり、桜乃は慌てて言いなおしつつ答えた。
「僕のは自分の手作りです」
「ウソ!?」
「いや…その、今日は時間なかったんで本当に手抜きなんですけど…」
手抜きとは言え、その弁当のレベルはかなり高いものである。
赤や緑、黄色と彩りも鮮やかで、量は決して多いとは言えないが、見た目が非常に美味しそうだ。
てっきり親が作っているものとばかり思っていた他の男性陣は、改めて後輩の技量に驚いていた。
「へぇ、凄い。桜咲って料理が得意なんだ」
「得意…って言うよりも、好きなんですよ。食べるのもそうですけど、作ったものを美味しそうに食べて貰えるのが嬉しくて」
照れ臭そうに笑う桜咲は、本当に一見するとショートカットの女性なのではと疑う程に可愛い。
確かに低い身長や素直な性格は子犬の様な愛らしさを彷彿とさせるが…果たしてそれだけか?
悩む彼らの中で、純粋に感動している丸井がへぇーへえーと弁当を覗き続けながら声を上げた。
「すげー、桜咲ってきっといいお嫁さんになれるんじゃねい!?」
「あは、そうですか?」
『……』
またも男達の心がぐらぐらと根幹から揺さぶられるような大問題発言…しかも相手の後輩はあっさりとそれに答えているし。
「…お婿さんだな。桜咲は『男』だから、そこはしっかりと訂正しておくように」
「あ、そっか。つい何となく」
柳が至極冷静な言葉で丸井を嗜めていたが、心中の動揺がどれ程のものだったかは不明である。
「…に、仁王先輩…こういう時はどうしたらいいと思います?」
「まー笑って上手く騙すことじゃな………自分を」
「聞かなかったことにしておいたらいいでしょう」
詐欺師のみならず、紳士ですら今の発言には耳を塞ぐつもりらしい…精神衛生上は確かにそれが最善策かもしれないのだが。
「まぁ、とにかく食べようぜ…腹が減っては何とやら、だろ」
既にかなり疲れた表情で皆を促したジャッカルの言葉に、異論なく彼らの昼食が始まった。
「桜咲は体力がもつのか心配だな…質はともかくとして量は足りるのか?」
食事が始まって暫くすると、全量どころか、さっきからおねだりしまくっている丸井に惜しみもせずにおかずを分けている相手に、心配そうな真田が声を掛けた。
丸井のおねだりに応えている様子からは、嫌悪感は微塵も感じられない。
好意で行っていることであれば文句を言う筋合いはないのかもしれないが、この細い身体を見ているとどうにも気をかけずにはいられないのだ。
「大丈夫ですよ。わ…僕、そんなに量は食べられないんです」
それは嘘ではない…昨日、女性だった時からそうだったのだ。
いきなり今日、男性に変わった途端に大食漢になるというのは無理がある。
この状況に陥ってしまったという心の悩みもあるので、呑気にお腹一杯食べる程に能天気にもなれないのだった。
「そうか? それなら…」
かささささ…
「っっっ!!!!!」
真田がそう返事をしているのに合わせて、何処からか何か乾いた音が聞こえ、その瞬間、桜乃だけがそれに過剰に反応し、びぐっと全身を震わせた。
ほぼ同時に彼女の視線がせわしなく辺りを探り、自分達のテーブルの少し離れた場所の床に元凶である黒光りする虫を見つけた途端…
「きゃああああああああああっ!! ゴキブリ〜〜〜ッ!!」
最早男らしさも何もなく、ただ夢中で桜乃は真田に縋りつきながら悲鳴を上げていた。
「!?!?!? は、桜咲っ!?」
縋られた方の真田は突然の出来事と、あまりにも男子らしからぬ相手の様相に激しく戸惑いながらも、相手の身体を抱きとめる。
その間に、周囲の生徒達も虫の存在に気付き、辺りはちょっとしたパニックになってしまった。
それから一分後には、店員や生徒達の努力によって虫は無事に駆逐されたが、桜乃は相変わらず真田にしがみ付きっ放しだった。
「は…桜咲…もう大丈夫だから、いい加減離さんか」
「すっ…すみません」
二人がようやく離れたところで、周囲の生徒達の声が聞こえてきた。
『あーびっくりしたー。でっけぇゴキブリだったなー』
『本当…けど、最初の悲鳴って誰が上げたんだ?』
『女のだったけど、すげぇ気合入ってたよな〜』
誰も、桜咲の姿をした桜乃のそれだとは思っていない様子で、無論、メンバー達も真実を語るつもりはなく、辺りの生徒達には揃って背中を向けていた。
(知らないフリ知らないフリ…)
驚くのは人間として当然の感情である為、無闇に叱るつもりはなかった真田だったが、流石にあの悲鳴はなかろうと後輩にせめて苦言を呈した。
「桜咲…苦手なものがあるのは人としては当然だが、あんなに動揺してどうする! 男子たるもの、そう易々と気の弱い面を見せるものではないぞ」
「ごっ…御免なさい…わた…ぼ、僕」
男子ではない、と言い訳する事も出来ないので、桜乃はその場で謝るしかない。
ゴキブリに遭ってしまったショックと迷惑を掛けた所為もあり、桜乃はうるっと瞳を潤ませながらつぶらなそれを真田に向ける。
「昔から、アレだけはダメで…っ、身体が竦んじゃうんです…」
「っ!!」
相手の瞳を見た真田は、まるで恋する少年の様な激しい動悸を感じてしまい、思わず視線を自分から逸らしてしまった。
また、『可愛い』という言葉が自分の胸の中に幾度も渦巻いたが、必死にそれを子犬のイメージに変換して遣り過ごす。
違うっ! 自分は決してやましい気持ちでそう思ったのではなく…っ!!
「あ、真田が桜咲いじめた」
「違うっ!!」
丸井のちょっとだけ冷たい口調の突っ込みに即座に返し、彼は改めて後輩を見下ろした。
「いや…ま、まぁ、苦手なものには少しずつ慣れたらいい…俺も少し強く言い過ぎた」
素直にこちらの非を認めようとしているところで、今度はにやっと笑った仁王が口を挟んだ。
「おう、顔が赤いのう、副部長」
確かに…怒り以外の何らかの感情に流された真田の頬がうっすらと紅潮している。
「こ…これはその」
そして止めておけばいいものを、更に切原が突っ込んだ。
「何かの素質、アリっすか?」
「百発殴らせろ赤也――――――――っ!!」
どたばたと賑やかになったメンバー達の脇で、ちゃっかりと騒動から逃れていた幸村と柳は、桜乃を保護しつつ静かに椅子に座って皆の様子を眺めていた。
「……いつになったら昼食を食べ終わるんだろうねぇ、皆は」
「さぁな…しかし周りには迷惑だな、ペナルティーでも加えてやるか?」
「あああああ、やめてあげて下さい〜〜!」
賑やかな昼食時間も終わり、そのまま午後の授業に流れ込み、その時間も何とか午前中の授業同様に上手くこなした後、桜乃はいよいよ部活に参加するべく男子テニス部のウェアーに着替えていた。
勿論、部室で他の男子と共に着替えるなどという大胆な真似は出来なかったので、予め校舎の空いた教室で着替えて来たのだ。
「あれ? 桜咲、教室で着替えたのか?」
「はい、ちょっと別の用事もあったし、部室も混むかなって思って…」
ジャッカルに少しだけ恥ずかしそうに答えながらも、桜乃は凄く嬉しそうにぶんぶんと手を振り回して、部活に向け張り切っている様子だ。
「何じゃ、随分張り切っとるのう桜咲」
「はいっ! このテニスウェアーが凄く嬉しくてっ!」
「は?」
うきうきしながら桜乃は女性だった頃から感じていた憧れの気持ちを吐露する。
「憧れていたんです、皆さんがこれを着てテニスしているの見て、一緒にこれ着てみたいなーって。不可能だと思ってましたけど、夢が叶って良かったー!」
『非レギュラーは集合し、グラウンドを十周!』
「あっ、行かなきゃ…! 失礼します!」
向こうから真田の厳しい声が聞こえてきて、桜乃は早速それに反応して走って行った。
その後姿を、ほーっと仁王とジャッカルが微妙に感心しながら見送る。
「……テニス部に入部さえすりゃあ、誰でも着られるモンなんじゃがのう」
「後で幸村に教えてやろうぜ…アイツも絶対に喜ぶから」
あそこまで喜んでもらえたら、常勝とかそういう気持ちや気概は抜きにしても、先輩として嬉しい限りだ…と、ジャッカルは嬉し涙すら浮かべていた。
そんな先輩達の気持ちは知らないまま、桜乃は走り出した自分の身体の明らかな相違に気付き、驚いていた。
(うわー、身体が軽い…そっか、筋肉が女性の身体より多いから…)
女子の身体は軽くても、トレーニングを積まない限り筋肉は付きにくい。
それを実感しながら、桜乃は羽が生えた様に軽く感じる身体を思うままに動かしている。
(うわわ〜〜、何だか凄く楽しい…!!)
もしこの身体でテニスを…レギュラーの誰かとやったらどうなるんだろう?
そんな事を思っていた桜乃の身体に、不意に何かの影が差し、彼女自身もそれに気付いて空を振り仰いだ。
(え…?)
『桜咲!!』
遠くで叫んでいるのは、幸村の声か…
耳でそれを感じながら、桜乃は一方で視覚に迫る物体を追っていた。
振り向いている自分に物凄い速さで迫っている球体が、まるでスローモーションの様に映っている。
その球体が、何処からか飛んで来たサッカーボールだと分かる程にくっきりと。
しかし、実際は一秒にも満たない時間…それ程に短い時間だった。
避けるという行動を思う暇もなく、桜乃はしたたかにその球体でこめかみを強打されてしまった。
(え…?)
衝撃と同時に、ふっと電気が消える様に視界が暗くなる。
身体が言う事を聞かなくなり、倒れるのを感じながらも、彼女は遠くでレギュラー達が自分を呼んでいる声だけは聞こえていた…
PPPPPPPPPPPP…
「ん…うーん」
何処かで鳴っている目覚まし時計…ああ、そうか、自分の部屋のだ。
「…ん」
手を伸ばし、いつもの位置に置いてあった目覚まし時計をぱちりと止めてから、桜乃はゆっくりと起き上がった。
「ううん…まぶし…え!?」
徐々に意識がはっきりしてゆくに従い、置かれている状況が見えてきて、彼女はぱっと自分の姿を見た。
いつもの愛用のパジャマに変わりない部屋…間違いない女性としての身体…
「…夢…だったの?」
男子だった自分の身体の感触はまだ残っているのに、走っていた時の躍動感も残っているのに…あれも夢だったの…?
何がどうなっているの…と思っていたところで、彼女を再び現実に引き戻す音が聞こえてきた。
『桜乃―――――! いい加減起きないかいっ!!』
遠くの部屋から家人が自分を呼ぶ声が聞こえてくる…これもいつもの日常の風景。
「うわわ! はーいっ!」
呼ばれ、桜乃はわたわたとベッドから飛び出していった。
間違いない…これは現実なんだ。
何であんな夢を見てしまったのか…彼らと同じ立場に立ちたいと心の何処かで願っていたのだろうか?
答えは分からないまま、桜乃は久し振りに感じる女性としての身体で学校へと向かっていった。
その日、青学での授業が終わった後に桜乃は立海へと赴き、見学の合間に見た夢について話した。
何となく、彼らには教えておきたかったのだ。
「へぇ、君が男の子に?」
「はい…おかしいでしょ? 驚きもしましたけど、皆さんと一緒にコートに立てるのが凄く嬉しくて…ちょっぴりだけ、男の子でも良かったかなぁって思っちゃいました」
「ふふ、そう…」
幸村が相槌を打っている間は他のメンバーは沈黙を守るだけだったが、やがて彼女が見学の為に少し席を外したところで、
『困るんだよな、男だと』
と、思い切り本音を漏らしていた……
了
$F<前へ
$F=立海リクエスト編トップへ
$F>サイトトップヘ