朋香レポート(前編)


『朋ちゃん、ごめんね。でも私、どうしても立海に行きたいの。あの人達とテニスをしたいの!』

「つまんなーいっ!!」
 その日朋香は、自分の教室の机に突っ伏して、誰にともなくそう訴えていた。
 ここ最近、朋香は身体の方はすこぶる健康なのだが、どうにも気力が萎えている時が多い。
 理由ははっきりとしている。
 ずっと一緒に仲良くしていた親友の竜崎桜乃が、ついこの間、青学から立海へと転校してしまったのだ。
 学校生活の中でも日常生活の中でも常に連絡を取り合い、女の友情を育んでいたのに、相手はある日突然前触れもなく、別れを告げて青学から消えてしまった。
 自分たちより年上…つまり先輩の立場に当たる立海の男子テニス部部員達と、共にテニスをしたいというのが理由だった。
 桜乃が彼らといつの頃からか親しくなり、よく立海まで見学に赴いていたのは知っていた。
 しかしまさかそんな大胆な行動に出る程とは、と、朋香も当初はかなり驚いたものだ。
 しかし喧嘩をした訳ではないし、相手がやりたい事が見つかったというのなら、それは応援し、喜んであげるのが筋というものだ。
 朋香もそれぐらいは理解しており、その時も桜乃の事を応援すると明言し、寂しいと思いながらも表向きは笑顔で送り出したのだった。
 今だって、メールでもやり取りはしているし、友情に何ら変わりはない。
 しかし。
 友情に変わりなしと言っても、やはりこれまで常に傍にいた親友が姿を消してしまったというのはかなりのストレスになるもので、こうしてたまに教室で愚痴りたくなる時もあるのである。
「んも〜〜〜、桜乃がいなくなってからホンットつまんなくなったわね。テニスの話も出来なくなっちゃうし、何より彼女がいないと見学するのも今ひとつ面白くないし…」
 彼女の言う見学の対象と言うのは、青学の男子テニス部。
 全国的にも有名なテニス強豪校であるこの学校に於いて、テニス部レギュラーになれるというのは、或る意味誇りでもある。
 そんな大役を、今年、一人の一年生ルーキーが難なく成し遂げてしまった。
 その男こそが、小野坂朋香が恋焦がれ、最早ストーカーと化している元凶でもある、越前リョーマである。
 桜乃とも縁があり、彼女が青学在学中には、実は彼が最も近しい男性だった筈…なのだが、それも桜乃の決意を翻す一打にはならなかったらしい。
 まぁ、今の越前はテニスが恋人という感じなので、やむを得ないかもしれないが。
 そんな若者なので、桜乃ですら脈なしだったのに朋香と懇ろになる訳もなく、彼は日々テニスに打ち込んでいる。
 彼の勇姿を目に焼き付けるべく朋香は頻繁にテニス部の見学に赴いているのだが、そこでも普段傍にいた桜乃がいないと、今ひとつ気合が入らないのであった。
 因みに、普段は騒々しいという表現がぴったりだった朋香のハッスル振りが、桜乃が消えてからはやや萎え気味になり、正直部員達から歓迎されているという事実を朋香本人は知らない。
「う〜〜…明日は青学の創立記念日で折角の平日休みだって言うのに、滅入るなぁ〜〜……あっ! リョーマ様っ!!」
 滅入る気分は何処へやら。
 廊下に愛しいテニスの王子様が通りかかった事で、朋香は即座にヒートアップし、廊下へとダッシュをかけた。
「きゃ〜〜! リョーマ様ぁ! 今日も素敵ですね〜〜〜」
「…アンタは今日も元気だね」
 それは本音なのか嫌味なのか微妙な評価だったのだが、もし嫌味だったとしても恋する乙女に通じる筈もなく、朋香の興奮は更にエスカレートするばかりだった。
 その時、越前は一人ではなく他の三年生のテニス部レギュラー達とも一緒だったのだが、朋香にとっては他のメンバーは尊敬こそすれ恋愛の対象ではない。
 まぁ、浮気性ではないだけマシかもしれない。
「今日は他のレギュラーメンバーの皆さんと一緒なんですね!? 何かあるんですか!?」
「いや、明日の予定について…」
「明日!? もしかして何かテニスのイベントが!?」
 途中まで言った越前が、微かにしまった、という表情を浮かべた。
 明日、レギュラー達は都内某所で集まって試合を行う予定がある…勿論越前も参加予定。
 彼女の予想は的を得ていたが、越前としては煩い外野のいない場所でテニスに打ち込みたかったのだ…確かにその点では大きな失言であった。
「ああでも…今回はちょっと身内で内々にやりたいんだ。ごめん」
 後輩の失言を即座にフォローしたのは不二だった…因みに言っている事は嘘ではない。
「そうなんですか? 残念〜〜」
 そう言われると見学に行くのは流石に憚られる…もしここに桜乃がいたら、彼女が顧問の孫であるという事もあるので、お願いもし易いのだが…
「あ〜〜、桜乃がいなくなって何だか寂しいな。見学もリョーマ様を見られるのは凄く嬉しいけど、あの子が隣にいないのって凄い違和感…」
「………」
 朋香のちょっとした愚痴を聞いた越前が、微かに肩を揺らし、目つきがきつくなる。
 後輩の纏うオーラが確実に変わった事を察した先輩達は、背後で軽く苦笑いした。
 そう、確かに桜乃と彼とは単なるテニスを通じての知己…だった筈であり、本人もそういう認識しかなかっただろう。
 しかし、いなくなって初めて、その存在の大きさを知る事も人生ではよくある事。
 越前にとっては、桜乃が自分や青学テニス部ではなく、立海を選んだ事実はあまり面白いものではなかったのだ。
「…じゃあさ、行って来ない? 立海に」
「え?」
 いきなりの越前の勧めに、朋香だけでなく他のメンバーもおや?と目を軽く見開いた。
「どうせ俺達の練習は見られないんだし、彼女に会いたいなら明日にでも立海に行けばいいじゃん。平日だし、立海は普通に授業も部活もやってるんじゃないの?」
 確かに、創立記念日の休日は青学の生徒の特権であり、立海など他の学校の生徒にとっては何ら関わりがない…
「あ、そっか、でも、うーん」
 悩む朋香に、越前が極めつけの一言。
「…立海メンバーの偵察もして来てくれたら、俺、凄く助かるし嬉しいんだけどね」
「行きます!!」
 恋する乙女の気持ちを上手くくすぐりつつ、偵察要員に持ち込んだ越前の手腕に、先輩達は内心拍手喝采。
(すげぇ、おチビ!!)
(成長してるな、越前のヤツ…)
 菊丸や桃城が感心していると、傍から話を聞いていた乾が口を挟んできた。
「偵察か…では俺からも役立つ物を貸してやろう。それと、上手くいったら…」
 それからは、朋香と乾の内緒話…
 それを遠巻きに見つめながら、越前達は越前達でこそこそと小声で話しこむ。
『やったな越前。これで明日は静かに練習に集中出来る!』
『まぁね』
『どうせなら、竜崎さんを連れて帰って来るように頼めばよかったじゃないか』
『何でそこまで俺が…』
『まーたまた、おチビって素直じゃないにゃあ』
 それから暫く、彼らの周囲には異様な空気が漂っていた……


 運命の翌日…
 偵察にいざ出陣!と朋香が出かけた時に着ていたのは、何と立海の女子の制服だった。
 その他の偵察グッズも含めて、乾から借りたものである。
 因みに乾の名誉の為に補足しておくと、制服は当然彼が趣味で持っていたものではなく、桜乃が立海に転校する際に仕立てたものが彼女の実家に一着あったので、それを彼が借り受けたのだ。
 桜乃と朋香は体格もそう変わらない為、一日だけであれば別に仕立て直さなくてもそれ程に違和感はない。
「乾先輩って、ほんっとうに何でもやっちゃうんだなぁ…でも、これでリョーマ様が喜んでくれるならお安い御用よね…それに」
 それに、これは桜乃の近況を知るには絶好のチャンス!!
 大切な親友がもし下手な男共にいい様に扱われているとしたら、自分としても黙ってはおけない。
 もしそれが事実だと判明したら、彼女に罵られようと祖母に逐一報告して、再び青学に戻してもらうことも考えて、朋香は立海へと出かけて行ったのである。

 神奈川の立海まで、携帯のナビなどを利用して行った朋香は、そのスケールの大きさに先ず驚いた。
 中学から大学までの一貫校だということは桜乃からも聞いていたが、流石に施設も大規模なものだ。
 今の時間は、おそらくは朝練も終了して通常の授業が始まろうかというところ…の筈。
 本来の目的はテニス部の部活動中の偵察なのだが、データは多ければ多いほど良い、という乾の希望で、彼らの日常生活も出来る限り観察してくるように言われている。
「えーと…先ずは誰を偵察しようかな〜〜…あっ」
 朋香が辺りを見回して、三年生の棟か二年生の棟に行こうと迷っていた時、視界の向こうに見慣れた髪型の若者が歩いているのを見つけた。
 あのくせっ毛の若者は…!
(…うん、間違いないわ! 特異体質で赤目になったら攻撃的になる癖に、実は根っからのマゾ男!! リョーマ様にも怪我を負わせたとんでもない極悪人ね!?)
 そんな事を思い切り後ろで思われていた立海二年生の切原赤也は、その時は丸井やジャッカルと一緒に校舎へと向かっていたのだが、その表情が徐々にむかついたものへと変わっていく。
「どうした? 赤也」
「何かよく分からないけど無性に腹が立ってきたッス…」
「カルシウム足らねんじゃねい?」
 まさかすぐ背後の女学生が実は青学の生徒であり、彼女からそこまでの辛辣な批判を浴びているとは夢にも思うまい。
 当然三人はそれに気付きもせずに、相変わらず校舎に向かって歩き続けている。
「ねージャッカル先輩、放課後にドーナツ食いに行きません?」
「嫌だ」
「何で?」
「俺、今月はマジで苦しいんだから、お前らに奢るゆとりはねえ」
 切原に先手を打ったジャッカルだったが、そこに丸井がにひゃっと笑いつつ割り込んで来る。
「やだなぁ、誰も奢れだなんて〜〜」
「毎回言ってくれるから俺はいっつも貧困に喘いでいるんだろーがーっ!!」
 毎回毎回の相手のおねだりにいい加減嫌気が差していたのか堪忍袋の緒が限界だったのか、道中ジャッカルはぎゃんぎゃんと切原と丸井に苦言を呈していた。
 別に盗聴器を仕掛けなくても十分に聞こえてくる彼の文句を聞きながら、しかし朋香は彼に対してもなかなか辛辣な評価を下す。
(毎回毎回やられてるんなら、いい加減どっかで断ち切ったらいいのに…根っから染み付いてんだわね、奴隷根性ってヤツが。三つ子の魂百までって言うし、多分一生そういう人生送るんだろうけど…まぁ私には関係ないか)
 そんな事を思っている間に、また見えない電波でも飛んでいったのか、あの三人組の方が賑やかになってきた。
『どうせ俺なんか…』
『うわーっ!! いきなりジャッカル先輩が地底に潜り出した〜っ!』
『いつもより早いじゃんかっ! どーしたんだよいっ!?』
 わいわいと騒ぐ男達を尻目に、朋香はさっさと校舎の中に入り、偵察を続けるべく準備を整え始めていた。


 取り敢えず、朋香は校舎の死角から覗き込む形で、最初に目をつけていた切原の動向を観察していた。
 まぁ、教室に座っているだけだが、授業への取り組み方などを見てもある程度のひととなりは分かる筈、と考え、じっと観察を続けていたのだが…十分も経つと朋香の方がいらいらした様子を見せてくる。
(なっんなのアイツ! さっきから眠ってばっかじゃん!!)
 朋香の心の中での指摘通り、切原は授業が始まって五分ともたずにがっくりと机に突っ伏して寝こけていた。
 前に教科書を立ててカモフラージュしているが、果たしてどれだけ効果があることやら…
『こら――――っ!! 切原っ、前に出て問題解け――――っ!!』
『ん〜〜〜…』
 早速思っているところに教師のものと思われる罵声が聞こえてきたが、相手の生徒は一向に起きる様子はないらしい。
 今度は多分実力行使が来るな、と朋香が察していると、思った通り、何かを叩く音と男の短い悲鳴が聞こえてきた。
「…えーと、切原赤也、日常生活ではただのグータラ男。英語の授業に関しては興味はまるでなくひたすらに眠るだけ…いつか教師の手によって永眠させられる可能性もアリ、と」
 かきかきかき…と物凄い批評を書き込み、朋香はそれ以上その場に残る必要はなしと判断したのか、さっさと次のターゲットを求めて移動していった。
 レギュラーは切原を除いて全て三年生なので、後は三年の棟を回ればいいだろう。
「えーとえーと…あ、赤い髪発見!」
 渡り廊下の少し離れた場所にある教室の窓際に、赤い髪の男が見える。
 流石にあの髪なら、遠目でも非常に目立ち、朋香は難なく正体を確認する。
「丸井ブン太…どういう意図で付けられたんだろう、この名前」
 奇妙な名前だな〜と思いつつも、彼女はこそそっと遠くから相手の様子を眺めてみる。
 流石にあの後輩の様に惰眠を貪っている様子はなさそう…だが…?



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