イカサマ真剣勝負(後編)


 それからの三日間…桜乃も柳も、特に学校生活では何の変化もなかった。
 他の部員もほぼ同様だったが、真田だけは棋譜の本などを読んでいる機会が増えた様だ。
 しかし、それ程に大きな変化は結局三日間のいずれにも認められず…穏やかなままに二人の勝負の時を迎えることになった。


 その日の放課後…部活動は平常どおり行われる中で、柳と桜乃、そして仁王三人が部室にいた。
 桜乃と柳は向かい合う形で座り、前の机の中央には棋盤が置かれている。
 そして脇にはチェスクロックがあり、彼らを見下ろす形で仁王が腕を組んで立っていた。
「じゃあ、お二人さん、ええかの」
 二人を交互に見下ろした仁王が、腕組みを解かないままに説明を始めた。
「勝負は一回、持ち時間は各人一時間。どちらかが降参したら勝負あり…か、もし俺が詐欺を仕込んどる場合は、それを柳が見破った時点で柳の勝ちじゃ」
 二人のどちらも異論はなく、沈黙で応える。
 そして仁王は淡々と続ける。
「『一応』、イカサマを防ぐ為に俺ら三人以外の誰もここには入れん様に鍵をかけた。それぞれの駒が進む度に俺がそれを読む、が、それ以外の言葉は一切話さん。お前さん達二人からどんな言葉、質問を受けても、一切それに応える事はない…まぁ当然じゃな」
「ふむ…」
 何らかの言葉が別の意味として設定され、暗号として使用されない為に…か。
 柳が頷いてそれを了承し、ちら、と窓の外を見る…が、そこではいつもの様に部員達がコートに散って練習を開始しようとしていた。
 別段、普段と異なった様相はない。
「因みに、他の部員には全て終わるまでこの部室には近づかん様に言ってある。レギュラーも同様にの。特にあいつらは今回の勝負について知っとるし、ジェスチャーとか送られても困るじゃろ? カーテンも閉めるか?」
「…いや、不要だ」
 窓越しに見える様な派手なジェスチャーなら自分も十分に見破れると踏み、柳はその申し出を断ると、仁王の言葉が切れた時点で桜乃へと目を遣った。
「…ハンデはどうする? お前なら金銀飛車角、落としても構わないが」
「……要りません」
 桜乃は柳ではなく、じっと盤を見つめ、己の退路を敢えて断つ様に断言した。
「もし私がそれで勝っても…気持ち悪いだけですから」
「ほう……詐欺師と組んでいるとは思えない殊勝な言葉だ」
「…一言忠告しとくぜよ、参謀」
 柳の挑発に応えたのは、桜乃ではなく助っ人の仁王だった。
「お前さん、竜崎の実力を侮っとるようじゃが、こいつはなかなかのもんじゃよ。ま、口で吠えるんは犬でも出来るじゃろ、イカサマが必要な腕かどうかはお前さんが見んしゃい…お得意の将棋でな」
「……」
 ブラフか…?
 そう簡単に引っ掛かりはしない、と思ったものの、柳はふと冷静になって考えた。
 待て、確かに自分はこれまで彼女の棋士としての腕前を見ている訳ではない。
 女性で年下というだけで甘く見ていたが…もし彼女が以前から将棋を嗜んでいて、俺達が知らなかっただけだとしたら…?
(いや、しかし…それも仮説に過ぎない)
 これまで自分が集めた彼女の情報の中では、そんな趣味は片鱗もなかった筈だ。
 となると、やはり今のは仁王のブラフ…あまりに稚拙な手ではあるが…
(何れにしろ、少々様子を見たほうがいいな…それに、仁王が何処かでイカサマを仕組む可能性は変わらない)
 柳がふぅと息を吐いて準備を整えた事を確認し、仁王がいよいよ勝負の始まりを告げた。
「…『お願いします』」


「始まったみたいだぜい!?」
「お、いよいよか…」
「…見えない分、こちらも落ち着きませんね」
 コートに立っていた丸井の声に、ジャッカルや柳生もまた緊張した面持ちで答えると、その視線を部室…ではなく、コート脇のベンチに座る真田へと向けた。
 そこには真田だけではなく二年の切原も控えており、神妙な顔で押し黙る相手を不安げに見つめている。
 唯一、この勝負を知りながら彼らの作戦については敢えて知る事を避けた部長は、今は遠くのコートで非レギュラー達の指導を行っている。
「よ…宜しく頼むッスよ…副部長」
「…全く、こんな方法を考えるとはな」
 ふ…と閉じていた瞳を見開き、真田は微かに緊張の入り混じった声で言った。
「勝てるかは分からんぞ……だが俺も、最初から負けるつもりでは指さんがな」
「そうこなくっちゃ」
 その彼の視線の先…隣の席には、何故か簡易式の将棋盤が置かれ、駒も定位置に置かれた状態だった。


 三十分経過し…
 外の喧騒から離れ、しんとした部室の中では、二人の真剣勝負が続いていた。
 張り詰めた空気を切り裂くような、駒を置く音は、さながら斬り合う二人の見えない刃を顕しているかの様だ。
 遠くから響く部員達の掛け声やボールを打ち合う音が、小さくても耳障りに思える程によく聞こえてくる。
 しかし桜乃も柳も、それが響く外になど一切目を向ける様子もなく、ひたすらに棋面を凝視していた。
「…『七5角』」
 腕組みをしたまま、仁王が桜乃の指した駒を読む。
 そして、読んだ後の彼は瞳を閉じて、柳の打つ手を待った。
(竜崎が一手打つまで、四十から五十秒…今のところ、イカサマを仕掛けている様子はないな…)
 次の手を考えながら、柳は助っ人である仁王の様子にも目を光らせていた。
 さり気ない腕や脚の動きでサインでも送るのではないかと疑っていたが、その疑惑は早々に否定される事になった。
 勝負が始まってからこれまで、仁王は妙な動きどころか、足も一切動かさず腕組みも解かず、ほぼ微動だにしていない。
 では、目線の動きはどうかと言うと、これもまた可能性は極めて低い。
 どちらかが駒を指した時に初めて瞳を開いて駒の位置を確認し、声に出して読み上げると、再びその瞳は閉ざされている。
 『イカサマをしたくても、この状態では何も出来ない』と、まるで誇示する様に、その様子は異様な程に大人しい。
 部室の中に、何かの仕掛けをしていることもなさそうだ。
 それに何より、柳の目の前に座る桜乃本人が、そういうイカサマのサインを受け取れる様な状況ではなかった。
 真剣にこの勝負に臨んでいるだけあって、その顔を棋面に近づけて息を詰め、ぴくりともしない。
 時折ぐっと目を瞑ったりはしていたが、脇目も逸らさず棋面を見ているだけでは、誰かがサインを送っていても、受け取れる筈もないだろう。
(油断は禁物だが…もしや本当にイカサマなどしないつもりなのか…?)
 では、これまで駒を指してきたのは彼女の実力…?
(…初心者…にしては読みが深いし受けも強い…初段以上の力はありそうだ、仁王の忠告は本物だったか…ん?)
 局面を見ながらそう思っていた柳が、ふっと顔を離して盤面の全体像を何気なく見る…と、彼は微かに身体を強張らせ、再びがばりと顔を盤へと近づけた。
(違う、初段どころではないっ! 何だこの駒の進め方は…受けどころか、いつの間にかこちらの攻め手が…!!)
 最初は相手の力を試すつもりで指していたが、その慎重さの隙を突かれたか!?
 柳はその時初めて動揺しながら、部室内を改めて見回した。
(あり得ない! この子にそこまでの実力があるとは…)
 過去のデータを何度も掘り返してみても、どうしてもそれが現実的に有り得る事を示すものはない…と言う事は。
(イカサマかっ!!)
 これまでよりより厳しい視線で柳は桜乃を見つめ、仁王を見上げ…窓を見た。
 そこには誰もいない、隠れている様子もない、相変わらず外からの陽射しと部員達の声とボールの音だけが聞こえてきている。
 しかしこれまでの雑音の記憶を辿ってみても、どれも一貫性のない掛け声やテニスに関わる言葉ばかりで、キーワードになっている様なものもなかった。
(何だ!? どういう手でイカサマをしている…少なくともこれまで、そんな素振りは一切見られなかった。仁王にも竜崎にも!)
 イカサマをしている、しかしそれを見抜けない…そして、確実に局面は向こうへと流れている。
 全てが予想外の出来事だった。
(いかん…集中しろ、蓮二)
 ぱち…と駒を指しながら、柳は己を戒め、心を鎮めようとする。
(集中…集中しなければ…イカサマに心を惑わされては、相手の思う壺だ)
 数回深呼吸をする柳の気配に、久し振りに閉じていた瞳を開いた仁王は、に…と唇を歪めた。
(どうやら、気付いたようじゃのう参謀……慎重にさせることで、或る程度引き離す事には成功したが、さて、これからが本番じゃ)


 コートでは相変わらず部員達が熱心に打ち合っている中で、真田がベンチに座ってじっと盤を見つめていた。
 棋面は大きく戦局が動いているところで、彼の視線は盤を焦がすのではないかと思えてしまう程に熱が入っている。
「…ふふ」
 極度の緊張状態にある様な中で、副部長は帽子の下でそれでも面白そうに笑っていた。
「……強いな」



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