それから更に時間は経過し…一時間後…
「……」
ぱち…
何処まで続くのか分からない無音の時間を妨げるのは、相変わらず駒を進める音だけ。
変わらぬ緊張感の中にあって、柳は久し振りに本気になって将棋を指していた。
(イカサマをやっている事はもう分かった…方法は残念ながらまだ分からないが…だが、竜崎の向こうで誰が指しているのか、それぐらいなら俺も分かるぞ、仁王…)
少女の向こうに見える本当の相手と真剣に向き合いながら、柳は黙したままの銀髪の男を見上げて微かに笑った。
(こういう駒の使い方をする奴は……俺の記憶の中には一人しかいないからな)
そして、柳はそれからも無言のまま将棋を指していたが…
遂に勝負の行方は見えた。
じゃらっ!!
「っ!!」
棋面をじっと見つめていた桜乃の耳に、久し振りに聞こえる駒を指す以外の雑音。
我に返って顔を上げると、柳が自らの手で駒台に置いていた駒を全て盤の上に落としていた。
投了…負けを認めたのだ。
「…俺の負けだ、約束は守ろう。今回の奴の処遇についてはお前に任せる」
「柳先輩…」
ぽつんと呟いた桜乃の前で柳はすっと立ち上がり、部室のドアへと向かって行ったが、鍵を開けてそれを開けた時に仁王へ振り返った。
「…弦一郎だな?」
「さぁのー」
とぼける詐欺師にふっと微笑んだ柳はそのまま部室から出て行った。
残ったのは、勝利した小さな棋士と、全てを仕組んだ詐欺師のみ。
「流石じゃの、相手が見えんでも指し方で分かるか…ま、素人の俺が見ても、いい勝負じゃった…」
がたんっ!
「ん…」
ドアに注目していた仁王が不思議な音で振り返ると、そこには精魂尽き果てたらしい桜乃が椅子から崩れ落ちて倒れていた。
「っ! 竜崎!?」
慌てた仁王が彼女に駆け寄っているその間に、外では柳が、ベンチに座っていた真田に歩み寄っていた。
もうそこには将棋盤はなく、ただ、何故か座っているだけなのにかなりの汗をかいている副部長がいた。
「…蓮二…」
何事か言おうとして、しかし結局口を噤んだ親友に柳は可笑しそうに笑った。
「……良い勝負だった。いつもそのぐらいの気迫で来てもらいたいものだな、弦一郎」
「…な、何の話だ」
「なに…独り言だ」
ふ…と微笑んだまま離れていった参謀の後姿を眺めていた真田は、それからいつもの彼らしくもなく、がくんと背もたれに身を預け、一気に身体を脱力させた。
ふうー…と、深く、肺の中の全ての空気を吐き出すような吐息の後で…
「……俺がこれだけ消耗してようやくぎりぎりの勝利か…化物め」
「ふふ」
真田の呟きに反応して笑ったのは、いつの間にかベンチの後ろに立っていた幸村だった。
どうやら勝負の決着がついたと気付いてこちらに戻ってきたらしい。
「精市…」
「お疲れ様、弦一郎…やっぱり君が代理で指していたんだね。でも、向こうの手も見えないのに、君の駒の進め方はどうやって彼女に伝えたんだい?」
もう勝負はついたんだから教えてくれてもいいだろうと言う親友に、真田は帽子を脱ぐと、左耳の奥からイヤホンらしき形状の機器を取り出した。
「…仁王が付けていた小型の盗聴器から、ここに音が送られる仕組みだ。俺はこれで蓮二の指し方を知り、あいつらを使って竜崎に信号を送った」
そう言って指差したのは、コート上にいるジャッカルや丸井達。
彼らも勝負が済んだ今、疲れた様子で手に手にペットボトルを持ち、その中身を呷っていた。
「…駒の位置を、ボールを打つタイミングを調節してモールス信号にした。『2六』ならば、2を示す信号の後に、六を示す信号をな…駒の種類については、予め対応するメンバーを決めて位置を知らせた後に、適当な掛け声を上げて竜崎に伝えた」
「成る程、駒は全部で八種類…『掛け声』か『会話』かで分けたら、外にいたレギュラー、俺と君以外の四人でも回せるね」
会話であっても、こういう場所なら多少、大声であっても不自然ではない。
「そういうコトだ」
はぁ…と息を吐き出す真田の疲労振りに、幸村がくすっと笑った。
「でも、これだけ人数を集めてこれだけ策を練って、それで何とか勝てたって…蓮二って本当に…」
言いかけたところで、部室のドアが開かれた向こうから仁王が顔を覗かせて叫んだ。
『おーい、ちょっと手ぇかしてくれんかのー? 竜崎がダウンしよったんじゃー』
「どえぇぇっ!?」
「ひーっ! おさげちゃんっ!!」
『てーへんでーっ!!』と他のレギュラー達が、ずどどどどっ!とそちらに向かってゆく様を、幸村が冷や汗を浮かべながら見守る。
イカサマがあるとは言え、崖っぷちの真剣勝負というものがどういうものなのか学ばせる良い機会かと思っていたけど…少し相手のレベルが高すぎたかなぁ…
「……最強の参謀だよ」
同日の部活終了後、幸村は柳と共に帰り道を歩いていた。
「…あの部員の処罰は、一ヶ月の無償奉仕として、掃除とコート整備の当番に決まったよ。本人に確認を取ったら、早速明日からやらせてくれって」
「そうか。この件については俺にはもう決定権はない。お前が良ければ上手く取り計らってくれ」
ゆうるりと歩きながら部長と話す参謀は、既にあの問題についての執着は手放しているとばかりに、淡々とそんな返事を返していた。
「……ねぇ、蓮二」
その場と周囲に誰もいない事を確認してから、幸村は相手に呼びかけた。
「…本当は、君も彼を退部にするつもりはなかったんじゃないの?」
「……」
「本当に退部にしたいなら、君なら彼女がいない処でその決断を下していた筈だよ…あんな場所で言ったら、竜崎さんが反抗するのは目に見えていただろう。君ほどの男が、そんな面倒になりそうな事をわざわざする筈がないからね」
「………そうだな」
暫く黙していた柳は、苦笑混じりにひそりと言った。
「…流石にお前には嘘が通じないな、精市」
「……竜崎さんの行動は予想出来たけど、もし誰も手を貸さなかったらどうするつもりだったの? 彼女に余計な負担を掛けるところだったよ」
「だが仁王が助けた…仁王だけでなく、他のレギュラー達も彼女を助けていた、俺の予想通りにな」
「…!」
まさか…彼はイカサマのからくりについても気がついていた…?
ほんの少しだけ瞳を見開いた幸村に視線を向ける事もなく、柳は前を見て語った。
「あの時、口を挟んだのが仁王でなかったとしても、誰かは手を上げて竜崎を助けた筈だ。そしてどんな形であれ皆が手を貸していただろう…『そうでなければ』ならなかった。今回の件は秘密裏にしてはいてもいつかは人の噂になり、他の部員達にも知れる事になる。退部を告げた俺の裁断は、同部の者であっても甘えは許されないという規律を部員達に刻んだ。そして俺に抗して勝負を挑んだ竜崎と、彼女に同意して手を貸したレギュラーの姿は、女のマネージャーに対し頼りないと思っている部員達の不安を払拭するだろう」
己の本当の目的は果たせたとばかりに、柳はこの時初めて嬉しそうに微笑んでいた。
「これでいい。彼女は正当に評価されて然るべき働きを十分に果たしているからな…俺やお前達が高校に入る前に、偏見は取り除いてやった方がいいだろう」
「…だから、敢えて悪者になった?」
「悪者とは心外だな。俺はあくまでも確固たる信念を以って進言しただけだ」
そう言ったところで柳の自宅前に到着し、彼は門をくぐったところで幸村に振り返った。
「言っておくが、これは竜崎には内密にな。俺達だけが知っていたらいい事だ」
そんな事を言う柳に、幸村は微かに首を傾げて眉をひそめた。
「いいのかい? どういう形であれ、君という人が誤解されたままになる」
「別に構わない…誰が死ぬ訳でもないからな」
そう言って、家の中に入っていってしまった親友を見送った後、幸村はそこに佇んで口元に人差し指を軽く当てて考え込んだ。
(……そう言われてもねぇ…まぁ彼女の事だから今日の件で険悪にはならないだろうし、蓮二の立場も理解してくれているとは思うけど…)
けど、一人だけそんな格好いい真似するなんて…照れ臭いからなんだろうけど、ちょっと癪だね。
幸い…さっきの相手の言葉には、俺、頷いたりしていないし……なら、約束したってコトにはならないよね…?
「……バラしちゃお」
親友の為を思っているのか、楽しんでいるのかよく分からない部長は、ふふっと秘密の笑みを浮かべていた。
そして数日後、全てを暴露された柳は当然桜乃からの謝罪と感謝を受けるなど、暫くは賑やかになってしまった自身の周囲の対処に大いに苦慮すると共に、元凶の部長に対しては、数日に渡ってくどくどと苦言を述べる日を送る羽目になったのであった。
了
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