「え…あれ?」
 見ていた桜乃が、すぐに身を乗り出して相手のペースを確認する。
 これって…殆ど短距離走並みのスピードじゃないの…?
「桑原先輩! 千五百メートルですよ? ペース配分が…」
「あれでいい」
 慌てる少女に、参謀の男が短く断りを入れた。
「え…」
「ジャッカルの場合はあのままのスピードで千五百、走りきる事が可能だ。半分であっても、黒人の血を持つ奴だ…『四つの肺』の通り名は、伊達ではない」
「…」
「いつもは、もっと長い距離のトレーニングばかりだったから君も知らなかったんだね…見ててごらん、面白いから」
「幸村部長…」
「どんなに普段が温和でも、アイツもウチのレギュラーだ。そう心配せず、信じて見ていてやれ」
 参謀だけでなく、副部長と部長の発言にも余裕が満ちている。
 そんな彼らに倣い、落ち着きを取り戻して桜乃がじっとトラックを見つめる中、ジャッカルはまだスピードを落とすこともなく走り続ける。
『あの子、大丈夫?』
『距離、間違えてるんじゃないの?』
 周囲の大人達からも桜乃の心配と同じ様な声がひそひそと聞こえてきたが、レギュラー達は一向に意識を向けない。
 逆に切原に至っては頭の後ろで手を組みながら笑っている程の余裕っぷり。
「こーゆー長距離走って、フツーは見ていて暇だけどさ、ジャッカル先輩が出ているのは注目受けるんだよなー…普段は地味で気苦労多いけど」
「……その気苦労の原因が何か、ご存知ですよね?」
「まぁそれも先輩の義務ってコトで」
「本当にもう…」
 暗に「しっかりして下さい」と指摘されつつ、のらくらかわす相手に桜乃が苦笑している間にも、渦中のジャッカルはまだ相変わらずのスピードで走っていた。
 結局、彼は最後のテープを切る周までそのままのペースで、最後尾とは何と二周分の差をつけてゴール。
 観衆達の割れんばかりの拍手と歓声に迎えられての完走となった。
「きゃあ、凄い凄い!」
 勿論桜乃も彼の大活躍を大いに喜び、得意満面の面持ちで戻って来たジャッカルを出迎えた。
「お疲れ様でした〜」
「いやー、やっぱりいいな。毎年この競技やるとスッキリするんだ。程よく全力出せる距離だしなぁ」
 はっはっは、と嬉しそうに笑う彼の陰で、何故か三強がひそひそと内緒話。
『…今年も他の部の主力のプライド、結構潰したよね』
『毎年この時期が過ぎたら、ジャッカルと同じ競技に出た奴の何人かは必ずスランプに陥るからな…俺の仮説でも関連性は既に立証されている。無論、機密事項だが』
『もしかしたら、アレでストレスを発散しているのかもしれんぞあの男…』
 そんな事をしている内に、不意に桜乃があれ?と周囲の男達を見回した。
「…大体はこれで皆さん参加されましたけど…柳先輩がまだ」
「ああ、俺は…」
 言いかけたところで、タイミングよく入るアナウンス。
『次に行われる競技は、『玉入れ合戦』です、参加予定の…』
「…噂をすれば、だな、行って来よう」
 ようやく出番が来た参謀はすたすたと予定集合場所へ向かっていった。
「玉入れですか、あれって焦ってしまうと、つい手許が狂ったりするんですよね…その点柳先輩なら冷静沈着に競技に集中されそう」
「それだけではありませんよ、竜崎さん。彼は人間コンピュータですからね、こういう競技ではその能力が如何なく発揮されるんです」
「そうなんですか?」
 玉入れ合戦は、全国共通した競技で、高く掲げられた籠の中に、赤白のお手玉を制限時間内にどれだけ多く投げ入れられるかを競うものである。
 投げる数は多くても、その目測で上手く籠の中に放り込まなければ点数にはならない…日本人であれば誰でも知っているルールであり、体育祭の中でも特に賑わうメジャー競技。
 柳生の微笑みながらの説明に頷きながら、桜乃は競技の開始と同時に柳の姿を探した。
「えーと、えーと…」
「あっ、竜崎あそこ! ほら、お手玉拾ってる」
「ええと…あっ、本当だ」
 切原の助け舟もあって、桜乃は割と早く彼の姿を確認することが出来た。
 他の生徒達は我先にと競ってお手玉を拾い上げており、柳も俊敏な動きで赤色のそれを幾つか取り上げているのだが、その視線は地面よりも寧ろ上の籠の方へと向けられている。
「よし、籠の高さ、俺の立ち位置と、手玉一つの重量…ふむ、これらから籠の中に入れる為に必要な角度と力量を計算すると…この程度か?」
 ひょいっ…
 彼が試しに投げてみたお手玉は、見事な放物線を描いてそのまま籠の中へと吸い込まれるように消えていった。
「うむ、予想通り…では、始めるか」
 手応えを感じたのか、柳はそれから一気にスピードを上げ始めた。
 取り敢えずは、手にしていた全てのお手玉を、次々と無造作に空へと放り始める。
 ひょいひょいひょい…っ
 それら全てがほぼ同じ曲線を描き籠の中へ一つ残らず入っていった時には、柳本人は既にそれを確信していた様子で一瞥もせず、新たなお手玉の獲得に取り掛かっていた。
 籠の中に入れ損じて転がったそれらは、まだまだ足元に豊富に転がっている。
 幾つかを拾い上げ、籠を見遣り、再び全ての位置や角度を瞬時に計算すると、またひょいひょいひょいと難なく籠の中へと放り込む様子は、まるで魔法でも見ている様だ。
「す、凄いですね…」
「…コンピュータだからなぁ…」
「お手玉マシンガンだよねぇ」
 切原も幸村も、うんうんと頷きながら参謀の大活躍を見つめている。
 おそらく…今年の玉入れ合戦MVPは、間違いなく彼だろう。
 柳の大活躍により無論、赤組が圧勝。
 悠々と戻って来た彼に、桜乃がねぎらいながら問い掛けた。
「凄かったですよ! どうやったらあんなに上手く入るんですか? コツとか…?」
「ん…?」
 少女の問いに、柳は首を傾げてあっさりと言った。
「…あの程度なら簡単だろう。向こうは動きもしないし、打ち返してもこないからな」
「…ああ」
 何でだろう、コツも何も説明はないのに、その一言で全て納得出来てしまうのは。
 うーむと悩みつつも納得せざるをえない桜乃だったが、これでレギュラー全員が何らかの競技に参加した訳だ。
「じゃあ、後は皆さんのんびりしていられますね」
「でも、おさげちゃんは結局これまで何にも参加してないよなぁ…応援合戦は競技とはちょっと違うし」
「何だか寂しいな、やっぱり」
 丸井とジャッカルが気を遣ってそう言ってくれたが、桜乃はぷるぷると首を横に振った。
「いいんですよ、どうせ私が出ても足手まといにしかなりませんし…」
「……」
 そんな彼女を幸村が気の毒そうに見つめているところに、彼らの所に実行委員の一人が歩いてきた。
「すみません、男子テニス部ですか?」
「え? はい、そうです」
 幸村の返事に、向こうはパンフレットを開いて何かを書き込みながら彼に尋ねた。
「これから借り物競争をします。テニス部は予定には入っていませんでしたが、一つ枠が空きましたので、希望があれば参加者を一名、募って下さい」
「借り物…」
 ふぅん、と頷いた幸村と、他の部員達はその時ほぼ同じ考えが浮かんでいた。
「じゃあ彼女で」
「えっ!?」
 『彼女』と指摘されるのは、ここでは当然桜乃しかいない。
「えっ!? えっ!? 幸村先輩!?」
「いいじゃないか。借り物なら時の運もあるし、純粋な運動能力だけが問題じゃない分、気楽に参加しておいで」
「俺達が持っているものなら、すぐに借りに来い」
 部長だけではなく、副部長も笑って参加を促してくれた。
 どうしようとは思ったが、全員が笑顔で送り出してくれるとなると、断るのも申し訳ない。
 確かに一つぐらいは参加して、思い出も作っておきたいし…
「うーん……じゃあ、ちょっと行って来ます。ドベでも笑わないで下さいね?」
「頑張ってきんしゃい」
「転ばないように気をつけて」
 そして桜乃は委員会の人に連れられて、スタート場所へと案内され、出番を待った。
「…借り物、かぁ…」
 こういう時って、観客の中でそれを持っていそうな人に訊くんだよね?
(眼鏡、とか…帽子とか……あ、これはどっちも大丈夫だ…うーん)
 悶々と、桜乃は脳内でシミュレーションを行ってゆく。
(よっぽど無茶な指令じゃなければ、頑張ればドベにはならないで済むと思うけど…ああ、でも私緊張して舞い上がったらパニックになっちゃうし…パニックって言えば、よくこういうシチュの時って、『好きな人』とかあるけど…)
 そして、いよいよスタートの瞬間が迫る。
「位置について、用意…スタートッ!!」
 パーンッとピストルの音が鳴り、桜乃は一気に走り出した。
 やはり最初のダッシュではトップには立てなかったが、それでも何とか上位には食い込んで、先のテーブルの上に置かれた紙の一枚に手を伸ばす。
「えーと! えーと!!」
 何であっても、すぐに動いて借りにいかないと…!!
 桜乃はそれだけを思い、問題の紙を開いた。
 そこには太字のマジックで大きく…
『あなたの部活で一番怖い生徒』
と書かれていた。
「…………」
 『好き』じゃなくて……『怖い』?
 一方、彼女がスタートしてから、メンバー達の方も大人しくしている訳もなく、寧ろレギュラーが出ている時よりも声を上げて応援していた。
「おさげちゃん、頑張れ――――――っ!!」
「何だ何だ!? 何の指令が出たんだ!?」
 丸井や切原がどきどきしながら声援を送る中、他のメンバーもじっと固唾を呑んで見守っていた…のだが…
「? どうした、竜崎」
「様子がおかしい…」
 さっきから、紙を開いてから一向に動こうとしない。
 他の生徒はもう観客席やら校舎へと、何かを求めて必死に奔走を始めているというのに…
 彼らが何事だと困惑している一方、桜乃もまた同じく…いや、それ以上に困惑していた。
「こ、怖い人、怖い人って…えええ!?」
 どうしよう、自分が思いつく中で一番怖い人って…
(き、客観的に見たら…真田先輩とか割と怖がられてるけど…)
 うーんと彼の普段の姿を思い返し、桜乃は一気に顔色を青くした。
(どーしよー!! ぜんっぜん怖くない〜〜〜っ!!)
 普段の他生徒の評価は厳格だとか何だとか言われているけど…最早自分にとっては彼もまた優しいお兄ちゃん状態!
(うわーんうわーんっ!! 探したくてもいないよお〜〜〜〜っ!!)
 相変わらず佇むしかない桜乃だったが、その時突然、むんずと肩を掴まれた。
「っ!? 幸村先輩!?」
「どうしたの竜崎さん!? 早く動かないと」
 そこには、どうやら心配になって様子を見に来てくれたらしい部長の姿があった。
 学内でも最もモテる男の登場に、周囲からは黄色い声が上がった。
『きゃー、幸村さーんっ!』
『なになに、何の指令なのっ!?』
『もしかして、『好きな人』なんて〜!』
『きゃー、やだーっ!』
 言っている観衆は気楽だが、そもそもそういう指令でも何でもないし、桜乃にとってはとんでもない難問である。
「あのあの、こういう指令が…っ、でも私、怖い人なんて一人もいませんっ」
 どうしましょう!とうろたえる桜乃に示された指令書を見た幸村は、思わず笑ってしまった。
 ああ、成る程ね…でも、そんな事言われたら嬉しくなっちゃうな…
 内心思ったものの、いつまでも時間を無駄にするワケにはいかない。
 少し考えた幸村は、そのまま桜乃の手を握ってそれを引いた。
「行こう」
「えっ?」
「取り敢えず、このままゴールするよ!」
「えええっ!?」
 一番優しそうな幸村部長を「一番怖い人」にするのっ!?
 そんな事出来る訳がないと思いながらも、その本人の強い力で桜乃はそのままゴールへと逆に連れて行かれる格好となってしまった。
 このまま指令を果たしたと認められたら、晴れて一位なのだが……
「はい、確認を行います」
 向こうの委員会の人間が指令書を受け取って確認すると…
「……?」
 やはり…幸村の見た目では到底納得出来ないのか、首を傾げ、訝し気な瞳で二人を見返してきた。
「ちょっと指令とは合わないみたいですが…」
「…」
 ああやっぱり…でも、私もそれには同意見だし何も言い返せない…と桜乃がしゅんと項垂れると、代わりに幸村本人がにっこりと笑って応答した。
「…怖ければいいんですよね、その部活内で」
「は? ええ…」
 相手の返事を聞き、彼はぐるっと振り返った…他のレギュラーがいる方向へ向かって。
「テニス部レギュラー、全員集合っ!!」
 口元に手を当てて大声で召集を掛けた部長に、向こうの若者達が一気にダッシュで向かってくる。
 何だどうしたとさっきから向こうは向こうでこちらを心配していたので、その動きは実に俊敏だった。
「何だ何だ?」
「どーしたんだよい、おさげちゃん」
「何の用ですか? 部長」
 わらわらわらっと集まった部員達を見遣り、幸村は委員側の相手に彼らを紹介した。
「…ウチの部員です。全員レギュラーです」
「…? はい」
 怪訝な顔をする向こうの生徒に、その美しい部長はさらっと簡単に言い放った。
「俺の権限で、いつでも彼ら、『ヒラ』に落とせます」

『ひいいいいいいいいいっ!!!』

 向こうの絶叫も無視して、更に幸村は付け加えた。
「ああ、トレーニングも好きなだけ加算出来ますから…」
「精市―――――!!」
「ぎゃーっ! 幸村部長が乱心したーっ!!」
「何じゃ!? また別の病気かっ!?」
 例外なく恐れおののく部員達と並び、桜乃も見事に硬直している。
 確かに……怖い人だ。
「……認めます」
 そして他レギュラーの協力(?)もあり、無事に桜乃は一位の座を獲得したのだった。


 その後も競技は色々と盛り上がりを見せながら進行していき…結果発表。
『今年の優勝は……赤組!!』
 歓声が上がり、幾つもの拳が空に向かって突き出された。
 勿論、そこにテニス部の活躍が大きく貢献したことは言うまでもない。
 全ての行事が終わって生徒達の整列が崩れつつある中、桜乃が不意に後ろから上着の袖を引かれた。
「? 丸井先輩?」
「へへ…おさげちゃん、ちょっとこっちに来ない? 次の競技、さ…」
「競技?」
 もう全部終わっている筈だけど…と思いつつ、手にしていたスケジュールを見た彼女は、ああ、と頷いて笑った。
「ええ、喜んで」
「やりぃ!!」
 早く早く!と急かすように腕を引いて彼が少女を連れて行った先には、テニス部のレギュラー達が微笑んで彼女の到着を待っていた。
「ああ。来たね」
「曲の長さから、全員分は巡れるだろう、宜しくな」
「はい、こちらこそ」
 そして最後は、全校生徒が参加するフォークダンス。
 桜乃は、その場でレギュラー全員と和気藹々と手を繋ぎ、ダンスを踊った。
 様々な競技で彼らが参加し活躍する姿を楽しみ、自身も相応の活躍を果たし、最後には優しい彼らと踊って祭の最後を迎え…
 今年はレギュラーにとっても桜乃にとっても、非常に充実した体育祭だったのは間違いないようである…






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