再びの始まり


 その日、一人の女性が、日本の空港に降り立った。
「…一年ぶり、ね…『お兄ちゃん』達、元気でいるかな」

 立海大附属高校 始業式当日
「見ろよ、幸村先輩達だ」
「ん? うっわ、相変わらずモテんのな〜」
「あんだけ取り巻きがいてさ、全員誰とも付き合ってねぇって、マジなの?」
 そんな会話が聞こえてきたのは、始業式が終了し全校生徒が解散した後の校内の廊下だった。
 会が執り行われた体育館から校舎へと至る通路は、必然的に全校生徒が通ることになり、一時その場は騒然とする。
 そこに、女生徒達に取り囲まれている形で歩を進める一団がいた。
 今年…高校三年生に進級した男子テニス部レギュラーと、同じく二年に進級したレギュラー一人。
 その面子は、かつての附属中学の時のテニス部レギュラーの面子と何ら変わらない。
 部長の幸村精市率いる、常勝不敗の立海軍団だ。
「ごめんね、ちょっと通してくれるかな」
「あと八分三十二秒で教室に辿り着かなければホームルームに間に合わない…このままここで立ち往生していたら、遅刻する可能性は六十八パーセント…」
「やむをえん、強行突破でいくぞ」
 かつての中学生時代と同じく、三強と呼ばれている三人が決断すると、彼らはそれまでの牛歩の歩みを止め、一気に人の波を掻き分けてこの混雑からの退却を図った。
 勿論、無理に力を使ってのものではなく、あくまでも常識的な範囲での通過である。
 生来の運動能力の高さと、テニスで培ってきた反射神経が役立ったのか、彼らは一度その場を急いで離れる事を決断すると、後はすいすいと人の波を抜けていく。
「はいはいはい、ごめんなすって」
「きゃーっ、切原君!」
「先輩、こっち向いて〜」
 ひょいひょいひょいと手で前を切りながらおどけて通っていく切原に、黄色い声が掛かったが、彼もまた先輩達と同様に色好い反応は殆ど見せなかった。
 このつれなくも飄々とした男達の態度が、寧ろ周囲のファン達を夢中にさせてしまうというのは何とも皮肉だ。
「んもう、相変わらず身持ちが固いんだから…」
「でもソコが素敵よね!」
「そうそう、あっさりと振り向かないトコロがいいんじゃない…あ、でも」
 取り巻きの一人で、彼らを逃した女生徒の内の一人が思い出した様に言った。
「聞いてる? 伝説の女性の噂」
「え?」
「何よそれ…誰なの?」
「その女性が何の関係があるの?」
 「伝説の」という修飾が気になったのか、そこにいた女子達は例外なく発言者に興味を持った視線を向けた。
「それがね、あのレギュラーの皆さんが、とにかくゾッコンだった女性が過去に一人だけいたんだって!」
『ウソ!!』
 ほぼ全員がハモったが、情報提供者はウソではないと否定する。
「今はこの国にはいないらしいんだけど、先輩方が中学校にいた時からずっと…高校に上がっても、その子だけとはとても親密な付き合いをしていたんですって。他校の子だったから、ここではあまり知られてなくてあくまで先輩後輩の立場だけど、見た目、本当に…妹みたいな可愛がりようだったって」
 俄かには信じ難い、その羨ましすぎる女性の情報に、辺りの取り巻き達は一様に疑わしいと感じる。
 しかしそれは、信憑性に乏しいという理由よりも、憧れの若者達が他の女性に夢中になっている、或いはなっていたという事実を受け止められないでいるのが大きな理由だろう。
「で、でも、その人はここにはいないんでしょ? 他校のファンだったなら、いい加減縁が切れてるんじゃない?」
「いや、それがね…」
 一人の光明を求めるような質問に、しかし最初に問題発言をした女子は悩ましげに首を捻った。
「どうも最近、その子が日本に戻って、しかもウチに来るらしいって噂があって…男子の間でも持ちきりみたいよ」
「ええ!?」
「だってそうでしょ? あの超イケメン軍団を全員揃って骨抜きにした女性の事だよ? 男子が狙うのも無理ないわ……まぁ、いつ来るのかとか本当に来るのか、それ自体怪しいみたいなんだけど…」
 その台詞を最後に、その場にいた女子は暫く押し黙り…
(どうか来ませんように!)
と、せめて心で祈っていた。
 そんな高スペックの女性がまた彼らの前に現れたら、自分達など相手にならないかもしれないではないか……
 しかしその一方で、彼女達は別の興味も同じく心に抱いていた。
(でも、あのクールな人達がメロメロになってるトコロも、ちょっとだけ見てみたい気がする…)


『はっくしょん!』
 健康管理も万全な筈のレギュラー達が、全員揃ってくしゃみをするという、稀有な光景が見られたのは、丁度そんな噂が立てられている時…彼らがようやく人混みを抜けて、空いている廊下を歩いている時だった。
「うう〜〜、風邪かな?」
「誰かが噂してんのかもな…」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら丸井がぼやく脇でジャッカルが答えると、その中の『噂』という単語に反応した仁王が部長に呼びかけた。
「噂…そう言えば知っとうか? 幸村。今度ウチに来るらしい女子の話?」
「女子…?」
 相変わらず整った顔立ちで穏やかな表情を崩さない若者は、相手の問いに振り返ったが、その眉は微かにひそめられていた。
 さっき取り巻きから逃げてくるのに苦労したばかりなのに、それを思い出させないでくれ、という無言の訴えに、詐欺師はまぁまぁと苦笑して宥めながら説明する。
「俺らよりは辺りの男子がよっぽど詳しいんじゃが、ウチに入学するヤツが来るらしい。伝説の女性って言われとる」
「それだけで既にいかがわしさ満点ですね」
 伝説の…と聞いた時点で、幸村の十倍ぐらい柳生の眉がひそめられていた。
 元々がイケメンで、しかし周囲の女性には無関心で、噂というものに耳を貸さない性格の男達は、周囲をこっそりと騒がせていた話題も今初めて聞いたという素振りだ。
「別に聞きたくもないッスけどね…知ってます? 俺達レギュラー、一部他校では『女難の立海』って呼ばれてるらしいッスよ」
 勘弁して…と悩ましげな顔をする後輩に、同じく柳も渋い顔だ。
「外れていると言えないところがまた嫌だなそれは」
 自分達は、別にモテたいとかそういう低俗な気持ちでラケットを握っている訳ではない。
 純粋にテニスを楽しみたいのだ。
 別に相手にせずにテニスに邁進していたら、向こうも飽きて離れてくれるだろうと思っていたのは、中学生になってから暫くのこと…彼は、人間、特に女子の心理の読み難さと現実の厳しさを教えられることになった。
 皮肉なコトに、彼らが努力すればする程に、その姿を見てファンになる女子達は増えていったのだ。
 邪魔さえしなければこちらも文句はないのだが、正直、部員達の集中力の妨げになる事もあり、参謀としては頭の痛いところだった。
 因みに、レギュラー達は他の部員と比べて集中力も半端ではないので、それ程の苦労はない。
 更に因みに、切原に関しては普段の集中力の散漫さは生来のものなので、ファン達に責任を求めるつもりも毛頭無いのだった。
「……何処の誰とも知らん女子など、俺達の知ったことか」
 元々、浮ついた女子には全く興味のない堅気の真田は、かなり不機嫌なのを隠しもせずに仁王の問いかけに返したが…
「…その伝説の女、以前、俺達をゾッコンにさせたヤツなんじゃとよー」

 ぴた…

 瞬間、彼らの歩みが止まり、全ての双眸が詐欺師へと向けられた。
 殆ど右から左に聞き流していた…そうしようと思っていた台詞の中で聞き捨てならない言葉が入っていたのだ。
 何だと…?
 自分達がゾッコンになった女性…?
 その時の彼らの脳裏には、『そんなヤツ、いるか』という否定ではなく『まさか』という一語が渦巻いていた。
 そう
 全員…その女性について心当たりがあったのだ…一人だけ。
 瞬間、彼らは一年前の運命の日を思い出していた……


 一年前の某空港…
「本当に行っちゃうの? おさげちゃん」
「別に行かなくてもいいじゃんよ、アンタ日本人なんだから、日本語話してりゃいいだろ?」
「ん…ごめんなさい、お二人とも…でも、もう決めたことですから」
 普段は、女子には殆ど目もくれない丸井と切原は、出発時間を控えた一人の少女に未練も露に迫っていた。
 対する少女は、自分のおさげを軽く揺らしながら困った様に彼らへと答えており、その仕草の中でも、瞳の奥には強い意志の光を宿していた。
「丸井、赤也、いい加減にせんか。竜崎が困るだろうが…ここは快く送り出す事が、俺達先輩としての勤めだぞ」
「うう〜〜〜」
「…分かってるッスけど」
 副部長である真田の諌めで、それ以上の我侭は口にはしなかったものの、それでも二人の顔には『寂しい』という声がこれでもかと込められている。
 今日は、この少女が異国へと旅立つ日。
 学校と家族の勧めで、期間未定のまま留学をすることになったのは、竜崎桜乃という少女だった。
 幸村たちとは二年の学年差がある少女は、中学三年になったばかりとは言え、まだまだ顔立ちは幼く、頼りなげな印象もある。
 大人の女性としての魅力にはまだまだ程遠いが、年齢相応の愛らしさに溢れ、素直そうな顔立ちはそのまま彼女の人となりを顕していた。
「すまないね、幸村もみんなも…ウチの孫の為に見送りにまで来てくれて」
 彼女の付き添いで来ていた祖母の竜崎スミレの言葉に、部長である幸村が首を振りながら言い切った。
「いいえ、当然のことです…彼女は俺達の掛け替えのない後輩で、妹みたいなものなんですから」
「そうかい? そう言って貰えると嬉しいよ…桜乃も本当にあんた達の事を慕っていたからね…おっと、すまないが少し外すよ」
 携帯に誰かから連絡が入ったらしい祖母が席を外した後も、彼らは変わらずに言葉を交わす。
「しかし…正直最初に聞いた時は驚きました。いきなり竜崎さんが留学すると仰ったんですから」
「あの時は、凄い騒ぎになったのう…」
 最初に話が出たのは学校側からだったらしい。
 或る日、提携校から招致の連絡があり、相応の学力がある者にその資格が与えられることになった。
 様々な選考を経て、桜乃が最終的に選ばれ、彼女は悩みつつもそれを最終的には受け入れたのだった。
 勿論、葛藤もあった。
 長い期間、故郷を離れ、友人達と別れ…何より彼らと離れ離れになる事は心苦しかった。
 しかし最終的に桜乃は自分の意志で今回の留学を決心し…今日に至ったのだ。
 途中で留学の件を知らされた立海メンバー達は、本人以上に驚き慌て、一部のメンバー達は必死に彼女を引きとめようともしたのだが…それは部長の幸村によって止められた。
『俺達の我侭だけで彼女の人生を操る事は出来ない。彼女の人生は彼女だけが決められる…それは俺達にも等しく与えられた権利で、誰も侵してはならないんだ。ここは竜崎さんの心に任せて、どんな形であっても俺達はそれを応援しよう』
 彼の宣言には誰も抗う事は出来ず、桜乃の留学は決定されたのだ。
 その旅立ちの日が今日。
「まさか、ここまで来て下さるとは思いませんでした…本当に皆さん、有難う」
 出発ロビーを前に、桜乃は若者たちを見回してそうお礼を述べ…耐えていた涙を遂に溢れさせてしまう。
「…っみません…こんな日に…泣かない様に決めてたのに…」
「バ…バッカ、泣くなよ! んな、今生の別れじゃあるまいしさ…辛かったらすぐに帰って来いって!」
「そーだよい! 絶対、絶対にまた会おうな!?」
「向こうに行ったら、身体、気をつけろよ。お前はか弱いから…」
 泣いてしまった桜乃を叱るように言葉を掛ける切原やジャッカル達も、心なしか瞳が潤んでいる。
 泣くわけにはいかない…寂しいが、自分達はこの子の兄貴分であり、先輩なのだから。
 だから…強くなければならないのだ。
「…誰かに騙されんようにな。お前さんはバカがつく程に正直じゃからの」
「向こうに行ったら、手紙を下さいね」
 詐欺師と紳士がそれぞれの言葉を述べ、それに桜乃はこくこくと頷いた。
 涙が、言葉を止めてしまっているのだ。
 ここは泣かせてやるのも先輩の優しさだと、誰もそれを止めなかった。
「道中達者でな…お前はもっと、自信を持っていい。望むだけ、己を磨いてくるといい」
「困ったことがあれば、いつでも俺達に連絡を入れろ。場所は離れているが、傍にはいてやれないが、知恵を与えてやる事ぐらいは可能だ…」
 副部長と参謀の激励の後で、部長の幸村が、ぽん、と桜乃の肩に手を置いて微笑んだ。
「元気でね、竜崎さん」
「…幸村さん…皆さん」
「君が元気でいるだけで、それだけでいいんだ……そうだな、もし我侭を言えるなら」
 涙で頬が赤くなった桜乃を覗き込んで、にこりと笑みを深くする。
「俺達のこと、忘れないでね」
 そして幸村は、一足先に向こうでの挨拶だと言う様に、優しく桜乃の身体を抱き締めた。
 可愛い妹分への、心からの餞別だった。
「さぁ、行っておいで、俺達の自慢の妹」
「!!」
 それを見た他のメンバー達は一様に驚いたが、誰も咎めず、誰も冷やかさず…彼らも続けて、桜乃の頬に暫しの別れの抱擁を与えた。
 どうか無事で…いつかきっと、俺達の処に帰っておいで…
「…はい、行ってきます!」
 戻って来た祖母の見送りも受け、兄貴分達からの密やかで情熱的な餞別を受け…涙の所為だけではなく赤くなった頬のまま、桜乃はゲートをくぐって行った。
 見えなくなるまで、視界から消えるまで手を振りながら…
 竜崎桜乃は、彼らの許から旅立って行ったのだった。



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