ストーカーVSお兄ちゃん'S(前編)


「お疲れ様でした、皆さん」
「うん、君もお疲れ様、竜崎さん」
 その日の放課後、立海男子テニス部の活動が全て終了した後、マネージャーである竜崎桜乃はいつもの様にメンバー達に労いの言葉を掛けていた。
 今日も全員、しっかりとメニューをこなしただけあり、彼らの身体からは湯気が立ち昇りそうな程だ。
「汗、ちゃんと拭いて下さいね、切原先輩。お風邪を引いたらいけませんから」
「おう、サーンキュ、竜崎」
 二年生エースの身体を気遣って、桜乃が彼にスポーツタオルを差し出し、相手が微笑みながらそれを受け取る。

 カシャッ…カシャッ…カシャッ…

 何処からか無機質な機械音が連続的に響いたが、それは桜乃にも、他のメンバーにも聞こえない。
 音の出所は、彼らからは随分離れた距離であり、先ず人間には聞き取れない条件下でのものだったのだ。
 それに気付かないままに桜乃は相変わらずてきぱきと身体を動かして他の非レギュラー達のフォローにも当たっている。
「竜崎も随分と手馴れてきたな」
「ああ、最初は俺達のフォローでも手一杯だったが、最近は他の非レギュラー達にも目を向けられるようになってきた。慣れもあるのだろうが、本人の努力の成果だな」
 親友であり、テニス仲間でもある真田や柳が、桜乃を評価している様子を微笑ましく見つめながら、幸村も同じ事を思っていた。
 竜崎桜乃が立海に来てから数ヶ月が経過し、彼女は学校に慣れると同時にテニス部レギュラーとしての仕事もそつなくこなせるようになっている。
 人は慣れを知る生き物だが、それでも自分が予想していたスピードよりはかなり速い。
 それだけ、少女が努力をしてくれているということなのだろう。
「…この調子なら、俺達が高校に行っても、安心して任せられそうだね…切原の世話を含めて」
「何スか部長〜、その言い方〜」
「ふふ、ごめんごめん…でも、異議を唱えるならせめて、遅刻して彼女から注意を受ける悪癖を直してからだよ」
「う…それ突っ込まれると辛いッスね…」
「やれやれ、そんな事じゃあ弦一郎も安心して進学出来ないよ…ねぇ、仁王?」
「……」
「? 仁王?」
 すぐ隣にいた詐欺師に同意を貰おうと呼びかけた幸村だったが、相手の返事がない。
 どうしたのかと切原から相手へと視線を移すと、その銀髪の若者はいつになく渋い表情を浮かべながら、あらぬ方角を見つめていた。
「どうしました、仁王君」
 別の立ち位置にいた相棒の柳生が呼びかけると、ようやく仁王は彼らの呼びかけに気付いた様子で、しかし視線は相変わらず逸らす事もなく、ある一点を見つめたままだ。
「ん? ああ…」
「何か気になるものでも?」
 ぼんやりとした受け答えは、実にいつもの詐欺師らしくもない。
 尋ねた柳生が、同じく相手の見ている先を眺め遣ると、そこには別に普段と変わりないテニスコート…
 そしてその先には、学校の敷地と公道を隔てる金網があり、その向こう側に駐車している一台の白い乗用車が見えた。
 しかし、どれも目を引くものではない、日常の生活で目にするものばかりだ。
「…?」
 どうしたのかと幸村と切原が仁王に発言を促すように視線を送ると、向こうはふむ、と口元に手を当てながらぼそりと言った。
「あの車…やけに最近、ここいらをうろついちょるんじゃ」
「は?」
 仁王がくんっと顎で示したのは、遠くの公道に路肩停車している白い車。
 新車ともそうでないとも分からない距離であり、特徴的なフォルムもない、ごくごく一般的な乗用車。
 それなのに、仁王はさっきからその車を興味深そうに眺めていた。
「似た車があるんかと思ったが、そうじゃないんよなぁ…一週間前ぐらいから、あの車、この時間帯になると必ずあの場所に停車しとる…辺りには別に人の目を引く様なものはないし、おかしなもんよ」
「近くの民家に用事でもあるのかな? 遠くから家族の人が訪ねて来ているとか」
 当たり障りのない予想を部長が立てたが、それに対して仁王は否定的に首を横に振った。
「俺もそう思って、この間さり気なくあの車の様子を伺ったんじゃが…中にはちゃんと人がおったんよ…若い男じゃったが」
「え? 停めてる車の中に?」
 きょとんとした切原の質問に、うんと相手は頷いた。
「おかしいじゃろ? 一日だけなら別にどうとでも理由はつけられるが、毎日あそこに車停めて、外に出るでもなくじーっと…」
 そこに、話を少し離れた場所で聞いていた他のメンバー達も集まってきた。
 桜乃は相変わらず、もっと離れた場所で非レギュラーの部員達と何かを話し合っている。
「一週間前ったら、こないだの大会があったばかりだよな。じゃあ何だ? スパイか? どっかの学校の」
 場違い、且つ大胆な発言かと思われるかもしれないが、ジャッカルの意見は的外れのものではない。
 ここは立海大附属中学の男子テニス部の練習現場。
 全国でもトップクラスのテニスの実力を誇る強豪校なのだ。
 それだけに注目を集める事は当然の話で、そこには必ず勝利へと至る為のノウハウや、同部の現状を知る為に動く輩の存在も含まれる。
 ビデオカメラを回して、注目選手の動きや技、癖を盗もうとするライバル校の偵察隊の存在は、立海に限らず或る程度の実力を誇る学校、団体でも注意の対象なのだった。
「では、何処かの学校のテニス部顧問や関係者か? こそこそと嗅ぎ回るなど、たるんどる」
「いや…」
 副部長である真田が早速相手の卑しい行動の可能性についてそう咎めたが、参謀である柳は、決め付けるには早いと注意を促した。
「あの車の存在は俺も気付いていた。中にいるのはいつも同じ男なのだが、俺の知りうる限りでは中学テニス界では見たこともない人物だ…勿論、『プロテニス』の記者とも違う、あちらは必ずコンタクトを取るし、隠れて様子を伺う様な真似はそもそもする必要がない」
「ふーん…」
 ぷーっとガム風船を膨らませつつ参謀の意見を聞いていた丸井だったが、あまり真剣に受け止めている様子が見られない。
「どんなに眺めたところで、俺の天才的妙技をあっさりと真似出来る筈ないじゃんかよい。立海に目をつけるところは褒めてもいいかもしんないけどさ」
「…ふふ、お眼鏡に適ったという事であれば光栄だけどね」
 そう言いながら次の瞬間には、部長の幸村の瞳は何とも言い難い冷気を纏っていた。
「だけど、礼儀を失する様な真似をされるのは不愉快だな…」
 そんな彼の言葉が聞こえた訳でもないだろうし、殺気を込めた視線に気付いた訳でもないだろうが、丁度幸村がそんな発言をした直後、その白い車はエンジン音を響かせ、あっさりと駐車していた場所から何処かへと去ってしまった。
 向こうの望みが果たされたのか否かは知らないが…
「ありゃ、行っちゃったッスね…また来たらどーします?」
 頭の後ろで腕を組みながら言った切原の言葉には、真田が厳しく応じた。
「そもそも学校周辺の道路では駐車行為そのものが禁じられていた筈だ。中に人がいて拒めないというのなら、せめて相手の素性を訊くぐらいは良かろう。仮にもここは敬虔なる学び舎なのだからな、不審な輩を放置する事もない」
「そうだね…警備員の人にも言っておこうか。生徒の俺達が言っても、少しインパクトに欠けるしね」
 未成年の言葉が軽んじられがちな世の中である事ぐらい、自分達も知っている。
 ここは一つ、周囲の大人達の力も借りようと意見が一致したところで、丁度そこに桜乃が戻って来た。
「あちらの片付けも終わりましたー。あれ? 何をお話していたんですか? 皆さん」
「ん、別に何でもない只の与太話じゃよ」
「今日の夕食、何かなーってさ」
「ん、もう、丸井先輩ったら…」
 にひひ、と笑って誤魔化した先輩達の台詞に、桜乃は何も疑う事もなく微笑んだ。
 この件についてはまだ確定事項ではない分、公にすることは憚られる。
 何か確定的なものが出てからでも教えるのは遅くはないだろう、と男達は判断したのだ。
『彼女に知らせたら、一気に挙動不審になって相手に気付かれるかもしれないからね』
『その通りだ』
 こっそりと別の思惑も語りつつ、幸村と柳はその件については桜乃には内緒にすることを確認して、その場は解散したのだった。


 同日の帰宅途中、桜乃は丁度通り道にあるスーパに立ち寄り、今日と明日の分の主な食材を買いだしていた。
 夕刻という時間のお陰で、物によってはかなりお安く入手出来るのが一人暮らしには心強い。
「あ、これ三割引だ! 明日のお弁当に使えば消費期限も関係ないし…よし、これは買いでしょう」
 最後の一品をゲットした喜びににこにこと笑いながら、桜乃はそれを手持ちの買い物籠にぽすんと入れた…ところで、
「…?」
 何とはなしに辺りを見回してみる。
 いつもの様に特売のアナウンスと音楽が流れ、他の主婦を中心とした買い物客が溢れている何気ないスーパーの一風景だったが、桜乃は何故か安心しきれない自分の心を持て余していた。
(何だろう…この感じ…)
 いつもと同じ筈なのに…何かおかしい…
 その違和感の原因もはっきりとは分からなかったが、桜乃はそれを或る事に例えた。
(…誰かに『見られて』いるみたい…まさかね…)
 こういう場所で人の視線を感じるということは…最近問題になっている万引き関連の関係者に見張られているということだろうか…?
(えー? でもちゃんと籠も持ってるし、怪しい事もしてないけどなぁ…まぁ、別にやましい事をしてないから大丈夫だけどね)
 きっと、そういう人の視線を受けたとしても、一時的なものだし買い物を済ませたらそれで済む…と思うことにして、桜乃はレジを通って精算をきちんと済ませ、荷物を抱えて寮へと戻って行った。
 桜乃の寮は立海の女子生徒専用のものであり、部外者の侵入は固く禁じられているだけに、安全の面では信頼出来る。
 その日も桜乃はいつもと同じ様に、オートロック方式の玄関の前に備え付けてあった自分用のポストをロックを開いて開けた。
 大体いつもは、そこには無用のチラシが数枚入っているだけだったのだが…
「…?」
 今日はそのチラシ達に混じって、一通の大き目の封筒が置かれていた。
「誰かしら…お祖母ちゃん?」
 一番考えられるのは、今は離れている実家の身内だったが、その予想は大きく外れた。
 そもそも、その封筒は郵便物ですらなかったのだ。

『竜崎桜乃様』

 確かに宛名は書かれているが、住所の記入がない。
 切手も貼られていなければ、消印も押されていない。
 つまりこの封筒は配達員の手によってではなく、何者かの手によって直接投函されたという事になる。
 しかしそれでもその時は、桜乃はあまり深くは考えていなかった。
(あーまた不動産とかかなぁ…見た目豪華にしても、そんなお金出せるワケないじゃない、学生に…)
 これまでも、封筒という形でそんな類の販促案内を送られた事があったので、今回も同様のものだろうと考えた桜乃は、一度それを脇に抱えて、ロックを開けたドアをくぐった。
 そしてそのまま部屋に行き、荷物を置いて、買ってきた荷物を片付けたところで、桜乃は改めてその封筒に手を伸ばした。
(普通は印刷なのに、手書きなんだ…)
 珍しい…と思いつつ、封筒の封を切ったところで、傾けていた封筒からぱさっと一枚の写真が床へ落ちた。
 裏面が上になって落ちた為に何が写っているものかは分からず、桜乃は慌ててそれを取り上げ、何気なく表を見返してみた…ところで、
「…っ!」
 びた、と身体が硬直し、その大きな瞳が更に極限まで開かれる。
 そして、見る見るうちに彼女の顔が蒼白になっていった。
(なに、これ…)
 よく『ぞっとする』という表現があるが、今桜乃が感じている感覚が正にそうだっただろう。
 顔だけではなく、全身から血の気が引いていくのを感じる。
 勝手に震えだしそうな身体とは裏腹に、目は先ほどからその写真から視線を外す事が出来ない。



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