(何で…私が…)
この写真の中に…写されているの…
幾度も幾度も過去を反芻したが、全く覚えのないものだった。
写真…2Lサイズのそれに写っていたのは紛れもなく自分。
場所が立海のテニスコートの傍だというのは周囲の建物や木々の配置ですぐに分かったし、何より、立海のテニス部のウェアーを着ている人物も複数人、ピンボケの状態ではあるが写っていた。
と言う事は、素直に考えてもテニス部の部活動の最中に撮られたもの、ということだろう。
もしかしたら、誰かが撮って送ってくれたのかも…と淡い期待を抱いて再度送り主の名前を探したが、残念ながら見つける事は出来なかった。
明らかに普通ではない事態に大いに戸惑いつつ、桜乃は写真は一度保留という形にして、他に封筒に入っていた便箋の方へと注目した。
ぎちぎちに封筒の許容量の限界まで枚数が詰められている時点で嫌な予感はしていたが、それでも見ない訳にもいかない。
何とか中身を全て引き出して、恐る恐る中を開いてみて…たった数秒で桜乃は更なる恐怖の底へと突き落とされた。
『今日も 可愛かったね 桜乃ちゃん』
たったその一文が便箋の中央に、大きいフォントで、ワープロで打ち出されていた。
「―――――っ!!」
例えようもない生理的嫌悪を感じ、息を呑みながら、桜乃はいつもよりかなり乱暴な手つきでその便箋を捲る…と次も、その次も、同じ様に便箋に一行、二行程度のワープロ文字で、歪んだ愛情を綴った文が記されていた。
そして最後の便箋の
『ずっと 君を 見ているからね』
の一文を見て、恐怖が限界値に達してしまった桜乃は封筒ごと便箋を放り投げ、今いるリビングの窓際に走り寄るとカーテンを勢い良く閉めた。
そして自室にも向かって同じ様にカーテンを閉め、外部から部屋の中が見られない様にしてもまだ恐怖は去る気配もなく、桜乃は他に外界を拒絶出来る場所はないかと辺りをせわしなく見回していたが…
RRRRR…RRRRR…
部屋の中に響いた電子音に、びくっと肩を震わせて、少女はゆっくりとそちらへと振り向いた。
自分の部屋に据え置かれていた電話機。
ライトが点滅して、誰かからの通話の着信を知らせている。
つい先ほどの封筒からもたらされた恐怖は依然桜乃に感染した状態だったが、彼女は何とか勇気を出してその受話器を取ってみた。
そして、ゆっくりと耳に押し当てて、声を絞り出す。
何とか普通に…と思っていたが、どうしてもその声は震えたそれになってしまっていた。
「…もし、もし…?」
呼びかけに対し聞こえてきたのは、自分の家族でもなく、先輩達でもなく、友人達でもなかった。
『手紙、見てくれた?』
「っ!!」
瞬間、桜乃はがしゃんとそれを置き場所に叩きつけて強制的に通話を切り、そしてそのまま電話線を機械そのものから引き抜いてしまっていた。
もし切ってそのままだったら、また向こうが掛けた場合に繋がってしまう。
「〜〜〜〜!!」
間違いなく、誰かが…自分の知らない誰かが自分を見ている…観察している!
言い知れぬ恐怖と戦いながら、桜乃はある単語を思い出していた。
(まさか…ストーカー…!?)
一方的な好意を抱いた相手を執拗に追い回し、接触を図ろうとする場合もあるとい迷惑、危険極まりない存在が、どうして私なんかに…!!
(どうしよう、どうしたら…!!)
そうしていると、再び電子音が部屋に響いてきた。
今度は…彼女の携帯からだ。
詳細を知りたいと思っても、向こうの情報は電話番号のみで名前については記載されていない…と言う事少なくとも、電話帳に登録された人物ではないというコトだ。
どうしよう、と悩みはしたが、それでも桜乃は通話ボタンを押した。
知己が、その時たまたま公衆電話からでもそれを掛けてきた可能性を考えての事だった、しかし…
『キレイに 撮れてたでしょ?』
先ほどの電話と同じ若い男の声…
ねっとりと絡みつくような声音でそんな台詞を耳元で囁くように言われ、乙女は遂に忍耐の限界に達した。
「いやぁ!!」
叫び、ボタンを押して通話を切ると、桜乃は再びそれを押した。
(嫌、嫌、嫌……っ!!)
呪文の様に心の中で拒絶の言葉を繰り返しながら、桜乃は震える指先を必死にコントロールして、携帯のボタンを押して電話帳を呼び出した。
幾つかのグループに分けていたそれだったが、最早深くは考えられず、桜乃は最初に出てきた電話帳を開き、そして最初に記載されていた電話番号へと通話を試みた。
ここは自分の部屋。
鍵も掛けて、カーテンも閉めて、間違いなく自分しかここにはいない。
分かっている、分かっている事実の筈なのに、桜乃はいつそこの陰から見知らぬ誰かが出てきそうな、そんな得体の知れない危機感を覚えてしまう。
恐くない…ここにいるのは自分だけ…!
そう必死に言い聞かせる中、耳に押し当てた携帯が何度目かのコール音を伝えていた時、途中でそれが止まり聞きなれた人物の声が聞こえてきた。
『はーい、もしもし?』
「っ…切原先輩…っ!」
いつもと変わりない、屈託のない相手の声を聞いた瞬間、どっと恐怖に凍っていた心の堰が破られた気がした。
「せ、んぱいっ…! 切原先輩…っ!!」
『!? え…何だよ…竜崎、だよな…?』
怪訝そうに問い掛ける向こうの態度は尤もだった。
電話に応じた瞬間、明らかに泣いている、しかも動揺も露な女性の声が向こうから届けられたら、普通の人間は困惑するだろう。
分かってはいても、もうその時少女には、それを詫びる事も、理由を詳しく語ることも無理だった。
「助けて…っ、助けて下さい…! 怖い、誰か、助けて…っ!」
『竜崎!? お前…何があったんだよ!?』
切原が桜乃からの救いを求める連絡を受けたのは、彼が帰宅して食事を摂り、自室でのんびりしようかという時間だった。
「さーって、今日は昨日の続きーっと…へへ、もうすぐレベル上がるんだよな。今日こそはあの中ボスをめっためたに…」
相変わらず勉強の方はそっちのけで楽しみにしていたRPGのソフトを立ち上げ、セーブしておいたデータを呼び出すと、切原は私服に着替えた身体をテレビの前にどっかりと構え、本格的に遊ぶモードに突入。
ポコペンポコペンと鳴るBGMを心地良く聞きながら、その日初の仮想の敵に遭遇した丁度その時、自分の携帯のアラームが鳴り出した。
「ん? ったく何だよ、人が気持ちよく遊んでるって時に…」
そうは言われても、向こうにはこちらの都合が分かる訳でも見える訳でもない。
言い掛かりとも言える愚痴を零しながら、切原が携帯を持って相手を確認したところで、おや?と彼の顔から不機嫌の色が消えた。
発信者は、テニス部マネージャーである竜崎桜乃。
(へぇ、珍しいな、こんな時間にアイツから電話なんて…)
滅多にない出来事なので不快さよりも興味の方が先に立ち、切原は応じた時にはいつもの口調だった。
「はーい、もしもし?」
部活についてかなー、それともプライベートなコト…ってもそっちは望み薄いかなーと実に呑気な事を考えていた切原だったが、次に聞こえてきたのは余りに予想外の反応だった。
『…切原先輩っ…!』
(へ…?)
間違いない、彼女の声だ…けど…
(な、何か、やけに切羽詰ってねーか?)
いつもの笑顔が浮かんでくる様な朗らかな声とは程遠い…何かに追われている様なそれに、切原の眉が自然とひそめられた。
どうしたのかと困惑し、声を出しあぐねている間にも、向こうからの必死の声が電波を通じて聞こえてくる。
『せ、んぱいっ…! 切原先輩…っ!!』
「? え…何だよ…竜崎、だよな…?」
分かっている筈だが、思わず聞き返してしまった。
今日の夕方…それこそ数時間にも満たない過去に彼女に会ったばかりなのに、その時の相手とのイメージの落差が凄すぎる。
あの時、部活が終わって別れた時は…あんなに笑って、俺達に手を振ってくれてたのに…
何かは分からない、正体など想像もつかないが、桜乃にとり憑いている恐怖が、携帯を通して切原にまで伝染した様に彼の背筋を冷たくさせた。
『助けて…っ、助けて下さい…! 怖い、誰か、助けて…っ!』
「!!」
悲痛な叫びが聞こえてきた瞬間、今度こそ切原の顔色が変わった。
分からない、けど、何かマズイぞこれ!!
声しか聞こえないのに、向こうの状態が浮かんでくる程に、彼女に危険が迫っている!
「竜崎!? お前…何があったんだよ!?」
TVゲームに集中している場合じゃない!
若者は、まだその時には片手に握っていたコントローラーを放り出し、携帯を握り締めながら立ち上がっていた。
そして彼女の返事を待つでもなく、部屋を出る。
それからも桜乃との通信は繋がった状態だったが、向こうも半ばパニックになっているらしく、話も要領が得られない。
普段はあれだけ気丈な少女がここまで狼狽している事に、いよいよ危機感を募らせた切原は、家人の呼びかけにも構わず家の外へと飛び出していた。
「ちょっと出てくるから!!」
それだけを伝えると、彼は家の敷地内に停めてあった自身の自転車を乱暴に引き出すと、飛び乗って桜乃の住む寮へと急いだ。
何があったのかは分からないが、とにかく本人の無事をこの目で確認したい。
「竜崎、今すぐにそっちに行くから、絶対に部屋にいろよ! 俺が行くまで何があっても外に出るな! いいな!?」
携帯を持ちながらの自転車運転は禁止されている事は知っていたが、今は兎に角緊急事態であることに間違いない。
桜乃が普段からこんな性質の悪い悪戯をする様な娘ではないことぐらい、切原も十分に分かっていた。
だからこそ、急がなければ!
「ああくそ…何なんだよ一体!!」
自転車を漕ぐのに集中する為に、一度携帯を切って思い切り毒づいた若者だったが、その対象は桜乃ではなく彼女をそういう状況に追い込んでいる『何か』に対してだった。
(何だ? 何があった? 強盗、とか…痴漢、とか…泥棒…? 何かどれでもヤバそうな感じだな)
電話の向こうからは、今この時に強襲に遭っているという感じではなかったが…もしかして、自分は或る意味危険地帯に踏み込もうとしているのかもしれない。
少なくとも、ゴキブリが出て来て怯えている訳ではないだろう…が…
(最悪、加勢がいるな…つっても、この状態で警察は呼びにくいか…)
とは言え、周囲はもう真っ暗だし、幾ら自分が鍛えた身体を持っていると言っても凶悪犯の持つ凶器に敵う程にスーパーマンではない。
何かがあってからでは遅すぎる…
「しょーがねー…ウチのスーパーマン呼ぶか…」
普段からうろたえるなって注意受けてばっかりだけど、今回は竜崎が相手だからな…流石に見逃してくれるだろ。
そんな事を考えながら、切原は携帯のボタンを器用に弄り、或る人物に掛けていた。
RRRRR…RRRRR…
「はい?」
『もしもし、真田副部長ッスか? 俺ッスけど!』
切原が電話を掛けた『ウチのスーパーマン』は、やはりと言うべきか、テニス部副部長である真田弦一郎だった。
そろそろ風呂に入ろうかと考えていたところに後輩からの電話が掛かってきて、彼は何事かと思いながらも、早速相手を嗜める。
「赤也か…人に電話を掛ける時には『俺』ではなく名を名乗らんか。全く…『親しき中にも礼儀あり』と…」
『わーっ! わーっ! すんません!! お説教はまた後ほど改めてっ!! 今はそれどころじゃないッスから!!』
「ん…?」
いつもの言い逃れであった場合はもれなく説教タイムが二倍になるところだったが、その後、切原が言った台詞で、そういう思考は一気に真田の頭から消し飛んだ。
『緊急事態ッス!! さっき竜崎から電話が来て、何か分からないけどアイツ、泣いてて物凄く怯えてるんスよ!!』
「なにっ!?」
『俺、今チャリで寮に向かってるんスけど、一人だけじゃアレなんで副部長にも来てもらえたらなーって…どうッスか!?』
「むぅ、それは捨ておけんな…分かった、俺もすぐに行こう」
『宜しくッス!!』
短いやり取りではあったが、相手が決してふざけているのではない事は十分に理解した真田はそれから急いで身支度を整えて家を出た。
とは言っても、愛用の帽子を被り、手には修練に愛用している木刀を携えるだけだったが。
あの娘の危機、という事であれば本当は真剣でも持ち出したかったが、流石にそれは見つかった時に大問題になるだろう。
(気丈な竜崎がそこまで怯えるとは…相手が何であれ油断は出来んな。不貞の輩であれば、即刻その場で切り捨ててくれる!!)
木刀であっても、気合のみで相手を一刀両断出来てしまうのではないかと思う程の気迫を漲らせながら、真田は一路桜乃の住まう寮へと向かっていた…
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