当然、切原はそれから散々真田の説教を喰らうことになってしまったのだが、その様子を半ば呆然とした様子で桜乃が見つめていた。
「凄い…覗き見されてるなんてよく分かるなぁ真田さん」
「まぁ当然じゃな、アイツは異常に敏感じゃけ」
「ふうん……え!?」
徐に誰かに返事を返されて、思わず声を上げそうになった桜乃は、ぱふんと相手の掌で口元を塞がれ、その機会を失ってしまった。
「!!??」
「しーっ…」
口元に人差し指を立てて、笑いながらそう注意した相手は、銀の髪を持つ立海の詐欺師だった。
少しの時間をおき、もう少女が無闇に大声を上げないだろうと判断した若者は、あっさりと手を引いて相手の発言を許す。
「……仁王、さん?」
「災難じゃったな、お前さん。けど、お陰で夕食のデザートが美味しく頂けそうじゃ」
「……」
にこっと笑う相手を、暫く見つめていた桜乃だったが……
「仁王さんも覗き見してたんじゃ…」
「まぁ細かいことは置いといて」
「細かくないです…」
なに勝手な事を言ってるんです、と食い下がったものの、結局詐欺師はあっさりとその追及を笑顔でかわしてしまった。
「そう怒らんと。けど、真田は相変わらず冴えとるのー…まぁ、赤也レーダーはその中でも特別じゃけどな」
「…真田さん、耳がいいんですか?」
素朴な疑問に戻った娘に、仁王はいやいやと首を横に振る。
「奴は五感も六感も抜群にええんじゃよ、まるで侍みたいな男じゃからの。ちょっとした変化にも異常に敏感で、こちらとしてはスリルが楽しめていいんじゃが…赤也がおったらそれも半減じゃのう」
「……可哀想な切原さん」
「はは」
桜乃の素直な感想に軽く笑うと、仁王はぽんっと彼女の肩を叩いて離れていった。
「お大事にな、竜崎」
「あ…はい」
それからもう一度真田達の方を振り返ってみると、相変わらず切原に厳しい言葉を掛けている様だ。
(そっか…真田さんってそんなに鋭い人なんだぁ…確かに探している人をあっさり見つけたりするし、小さな声も聞き取ってるよね…ん?)
そこまで考えたところで、桜乃の脳裏に或る考えが浮かんだ。
(それって…つまり……・)
ざぁっ…
そして何故か、彼女は表情を一気に強張らせ、顔色を一気に失っていった……
それから相変わらず山側も海側も、全員で協力し合って日々を生き抜いていたのだが、山側で或る一つの異変が生じていた。
いや、正しく言えば二つの異変…しかもそれは殆どの生徒達には気付かれることもない些細なもの…しかし当人達にとっては大きな異変だった。
「…冴えん顔じゃのう、真田」
「…」
他校の生徒達がテニスの試合を行っている時、それを腕組みして見つめていた真田にさり気なく近づいた仁王が小声で指摘する。
された本人は微かに唇を噛む素振りを見せたものの、後は聞こえなかった様に無視を決め込んだ。
しかし詐欺師の眼力をもってすれば、相手が明らかに動揺した事実を見抜くのは容易く、反応の薄さに構わず仁王は続けた。
「そんなに気になるなら聞いてみたらええじゃろが」
「…何の話だ」
「竜崎」
即答で返され、ぐっと言葉に詰まった時点で真田の敗北が決まった。
「ほれ、やっぱり気にしとるんじゃろ? 彼女が近寄らんようになったコト」
「……」
ぶすっと憮然とした表情のまま答えを返さなかった堅物の男だが、相手の指摘は正に的を得たものだった。
あの日から何故か…前触れも無く、桜乃が明らかに自分を避け始めたのだ。
避けると言ってもあからさまに嫌われている様子はなく、今まで通りに話しかければ今まで通りに笑顔での答えが返ってくる。
但し……距離が大幅に離れた状態で。
人間というのは、文化によって多少の相違があるとは言え、対人距離というものを持っている。
誰かと話したりする場合には五十センチから一メートル前後の距離がとられるのが一般的なのだが、あの日以来、桜乃は明らかに真田相手に限ってはそれより遠距離を取るようになっていた。
例え笑顔で応対されたとしても、そういう状態に置かれて落ち着ける訳がない。
しかも真田にとって不幸だったのは、相手が桜乃だったという事実。
こんな状況に置かれて初めて、彼はあの少女に対して自分が特別な感情を抱いている事を自覚してしまった。
笑顔で会話を交わしても、二人の微妙に離れた距離が彼らの心の距離を表しているようで、真田の心に陰を落とす。
一度、気のせいかと思い、彼女と話している最中にさり気なく一歩近づいてみたのだが…相手はきっちりその時点で一歩を引いた。
つまり、今の距離は彼女が意図的に作り出しているという事だ。
だからこそ、距離を作っている彼女本人に理由を訊けばいいと促した詐欺師だったのだが…
「…いや、理由は分かっているのだ」
尋ねるまでもない、と真田は相手の提案を却下する。
「傷の手当の時に、苦痛を与え過ぎて彼女の気分を害したのだろう…今後、危険な真似をしない為にもと敢えて行った事だったが…やはり、女子の扱いは分からんな」
(そうかぁ?)
悪戯に苦痛を与えたのならともかく、この男はそんな意地悪はしない筈だ。
それに、向こうの娘も馬鹿ではない…と言うより寧ろ賢い子だ、真田の愛の鞭の意味ぐらい分かっているだろう…と詐欺師は疑う。
「……謝れば済むことかもしれんが、俺が正しいやり方だったと思っている以上、虚偽の謝罪をする訳にもいかん」
それは相手を侮辱することにもなるからな、と言ってその場を離れていく真田の背中を見送りながら、仁王は口元に手を当てて考え込み…はた、と何かを思いついた様に顔を上げた。
「……もしかして…」
そう呟くと、仁王もすぐにその場から離れ…一路、桜乃のいる炊事場へと向かっていた。
「よーう竜崎?」
「あ、こんにちは仁王さん、何か御用ですか?」
「んー、いや、ちょっと訊きたいことがあるんじゃけど…真田が今度、海側メンバーに移るって話、聞いとる?」
「ええっ!?」
がしゃんっ!!
驚愕した桜乃の手から、数枚のプレートが落ちた…プラスチックだった事を感謝すべきだろう。
「え、え、え…ど、ど、どどど、どうしてっ!? 真田さんがそんな…急に…」
(こんな分かりやすい反応しとるのに、嫌われてる訳がないじゃろうが…)
あの鈍感め、と内心副部長をこき下ろしながら、仁王はお得意の詐欺師トークを炸裂させる。
ここまで来たら、洗いざらい白状させてやろうじゃないか。
「ん? 聞いとらんのか?」
「は、初耳ですよ…真田さんが仰ってたんですか?」
「おかしいのう…真田の奴はお前さんの為に移るって言うとったんじゃがのう…」
「え…?」
「どうも最近、あいつ、お前さんに避けられてるらしいと感じとってな…まぁ年頃の女子、生理的に受けつけん異性もおるじゃろうって、気を遣って向こうのグループに行くことを考えとるようじゃ」
「そんな…! そんな事ありません! どうしよう、私の所為で真田さん…」
おろおろとうろたえる相手の反応で自分の予想が間違いないと踏んだ仁王は、そこで考えていた作戦を実行することを決定した。
元々、この騒ぎを引き起こした原因は自分にもあるのだ、相応の責任は取らなければならないだろう。
「…一つだけ、引き止める方法がある。条件は、今の話を誰にも口外せんこと、そして…俺の質問に答えて、言う通りに動くこと、じゃ」
「え…?」
その夜…
「おーい、真田、真田」
「? どうした、仁王」
食事を終えて広場で火の番をしていた真田の許に、仁王が彼の名を呼びながら近づいてゆく。
「何じゃ、火の番か…うーん」
「? 何だ?」
「いや、今竜崎が温泉に行っとるんじゃが…行く前に、帰りの道は暗くて怖いからお前さんに同行してもらいたいと言っとった…断ったんか?」
「!?」
こんな時間に温泉? もう日が沈んで辺りは完全な暗闇だぞ!?
すっくと丸太の椅子から立ち上がった真田の顔が既に青くなっている。
「そんな話は聞いてない…」
「そうか、なら結局遠慮したんかのう…姿が見えんという事はまだ向こうか…何もないとは思うが、華奢な女一人じゃとちと不安…」
最早こんな場所にいる場合ではないと、真田は即座に行動に移った。
「仁王! すまんが、少しだけ番を代わってくれ。すぐに戻る!!」
「あー、ちょっと待ちんしゃい、真田」
「何だ!?」
「…『今なら』、あの子はお前さんを拒まん筈じゃ…思い切って訊いてみる事じゃな。これが最後のチャンスかもしれんよ」
「……馬鹿な、あれだけ避けられていたのに」
「いいや、絶対に拒まんよ…詐欺師の勘じゃ。だがそれでも訊けん様な軟弱な精神なら、確かにその程度の想い、捨てた方がマシじゃな」
「……」
敢えて相手の心を荒らすような発言をした詐欺師は、それも作戦だとばかりに真っ向から相手の視線を弾き返し、彼が去っていくのを薄い笑みを浮かべて見つめていた……
「竜崎っ!?」
「あ…? 真田さん…」
真田の全力疾走にかかれば温泉までの距離など軽いものであり、彼は然程時間も掛けずに目的の場所に到着していた。
目的の人物は少し前に湯から上がったところだったのか、新しいTシャツとキュロットを履いた姿で、温泉から少し離れた道の脇に佇んでいた。
いつもの三つ編みがない状態の姿であり、それを直視した男は叱る前にどきりと胸を高鳴らせてしまう。
(な、何だ…? いつもと雰囲気が…)
まるで違う…いつもよりずっと艶が増しているような…
「すみません…ご心配をお掛けして…」
ぺこり、と頭を下げて謝られてしまい、叱るタイミングを失ってしまった真田は、依然高鳴る胸を抑えながら、取り敢えずは相手に戻る事を促した。
「ま、あ…無事で何よりだ…これからは軽率な行動は慎むように。さぁ、戻るぞ」
「はい」
それから二人は、連れ立って合宿所への道を辿り始める。
その中で、真田は不思議な…懐かしい感覚を覚え、すぐにその正体に気付いた。
(あ…)
彼女が…すぐ隣にいる…最近の、不自然な距離をとることもなく。
確かにあの詐欺師の予言した通りになり、真田はちらりと桜乃を見下ろした。
普段の彼女と何ら変わらない…一体、何が二人の距離を縮めたのか…
「…な、何ですか?」
見つめられている事に気付いて、桜乃は恥らうように問いかけ、気付かれた男は慌てて視線を逸らしつつ、帽子を深く被り直した。
「い、いや…今日は…傍にいてくれるのだな」
「え…」
「…っ!」
言った後で、しまったと思う。
確かにそういう意味だったが、あまりにも露骨な表現だったのではないか…?
また気分を害してしまったかと不安になって再度相手を見下ろすと、彼女はじっと自分を見上げ、その瞳を月光に煌かせていた。
「あの、真田さん…私、謝らないといけないことが…」
「謝る…?」
「その、私が真田さんに近づけずにいたこと…です」
「!?」
「私…どうしても気になっていて…その、汗が…」
「? 汗?」
意外な言葉に真田が足を止め、同時に桜乃の足も止まる。
桜乃は、顔を少しだけ俯け、両腕で自分の肩を抱くようにして身体を縮こまらせた。
「汗が…臭うんじゃないかって…」
「…は?」
更に話が分らなくなって呆然とする男だったが、対する少女は大真面目だった。
「一応、制汗剤は使っていましたけど、真田さんは凄く五感が鋭いって聞いて…こんな毎日暑い中だと、真田さんにだけは分かってしまうんじゃないかって思うと…どうしても気になって」
「そ、れで…敢えて離れていたのか?」
確認の問いにこくんと頷くと、桜乃は改めて頭を下げた。
「ごめんなさい…私の所為で、余計な心配をかけてしまって…」
「い、いや、そうか…そういう事だったなら…俺は…それを知っただけで十分だ」
そうか…納得だ…では今、彼女が自分の傍にいる事が出来るのも、温泉に入って汗や汚れを洗い流した後だったからなのか…
何はともあれ長く悩んでいた事の原因がはっきりし、それが自分の所為ではなかった事を知る事が出来て、真田はようやく安心することが出来た。
穏やかな心のまま、男は本来の目的であった桜乃のボディーガードを無事に果たし、彼女のロッジへと送り届けた。
「有難うございました、真田さん」
「うむ…ああ、竜崎」
「はい?」
不意に呼びかけると、真田はそっと相手の首筋に自身の顔を寄せる。
「…っ」
固まる桜乃のすぐ傍で微かに鼻を鳴らすと、彼はふ…と笑みを浮かべて再び姿勢を正した。
「とてもいい香りだ…石鹸だけではない……お前の香りも」
「っ!!」
「だから…もう、悪戯に離れたりしないでくれ」
堅物男の真摯な願いに、桜乃は真っ赤になりながら…かろうじて答えた。
「は…はい…」
「…お休み、竜崎」
いつもより優しい笑顔を見せた若者が踵を返して広場へと戻っていく後姿を、少女は見えなくなるまでずっと見送っていた。
次の日からは、以前の様に真田の傍に佇む桜乃の姿があり、それを確認した詐欺師が陰でこっそりと笑っていたという……
了
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