心の痛み
立海の二年生エースである切原赤也が、彼の行きつけのテニスクラブで試合をした。
表向きは非公式戦。
しかし、立海のテニス部員という立場から言わせてもらえば、それは関係ない。
どんな試合であれ、負けは許されない…だから、『常勝立海』なのだ。
『負けはいけないな』
しかし、その切原が負けた。
赤目になって尚、青学の一年生に敗北したのだという…年下に。
彼の性格上、舐めていた可能性はある、しかし、赤目になったということは、相手をそれなりの獲物と認識していたことには違いない。
それでも負けたのだ。
柳蓮二は、立海の参謀として彼の敗北を非難しながらも、やはり相手の底力を認識せざるを得なかった。
恐るべきは青学。
やはり、あの一軍は、自分達の悲願である三連覇を成すに最大の脅威となるだろう。
「蓮二」
「…ああ、何だ、弦一郎」
呼びかけられ、一時思考を中断して、柳は親友の真田へと身体を向けた。
「今、青学の関係者に連絡をつけた…こちらにもう向かっているそうだ」
「そうか…野試合とは言え、今回のことは赤也にも猛省させなければな。向こうが挑発に乗ったとは言え、こんな形で喧嘩まがいの試合をさせたのは、こちらの落ち度でもある」
ここは、クラブから程近い病院。
青学のルーキーと立海の二年生エースに診察を受けさせる為にここに連れて来て、かれこれ一時間近くなる。
今は二人とも必要な検査を受けている最中だが、もうすぐ診察、説明に呼ばれるだろう。
あまり多人数で押しかけても意味がないこと、と、柳は同行するのは自分と真田だけに留め、他の部員達は先に帰らせていた。
自分達がいる待合室には、他の患者はもういない…夕方ということもあり、ほぼ全ての患者は既に診察を終えて帰ったのだろう。
「…驚いたな…あの赤目の赤也を負かす一年か」
「噂は聞いていた。情報としても或る程度のものは集めていた…が、まだまだ未解析の部分も多い…越前と言ったか、奴が台風の目になるかもしれん」
「手塚ではなくて…?」
訝しげな顔を向けた真田は、明らかにその意見に疑問を抱いていたようだったが、それでも柳は自身の主張を覆すつもりはなかった。
「手塚については、過去のデータが豊富だ。無論、全てを見せている訳ではないだろうが、それでもある程度の実力を推し量る事は可能…しかし、ルーキーの一年については、あまりに未知数な部分が多い。知らないということは恐怖だ、弦一郎。現にウチの二年生のエースである赤也が、奴に一敗を喫しているということが何よりの証明…アイツの実力はお前も認めてはいるだろう」
「むう…」
唸り、それ以上の言葉を閉ざした弦一郎が瞳を伏せ、柳もまた視線を病院の自動ドア越しに外に向けた…ところで、僅かに身体を揺らした。
「ん…?」
もう自分達が最後の訪問者と思っていたが、そこにまた新たな来客が訪れていた。
腰まであるおさげを揺らし、きっとここまで全速力で走って来たのだろう一人の少女が、待合室に飛び込むと、きょときょとと辺りを見回し、受付へと足を走らせたのだ。
「あのっ…! ここに中学一年生の男子が来てませんか…越前リョーマって名前です…!」
引きつった様な声の中に、自分達も知る名前を聞き取り、真田と柳が同時に顔を見合わせた。
そう言えば、彼女の着ている制服は青学の女子のそれだ…という事は、彼の知己か?
受付の看護婦から彼が検査中だということを知らされた少女は、肩を落としてとぼとぼと待合室へと戻ってきた。
「…失礼」
「?」
不意に柳に呼び止められた相手は、素直にそちらへと顔を上げ、見慣れない若者に首を傾げた。
「…もしかして君は、越前リョーマの関係者か?」
「! リョーマ君は、私のクラスメートです。おばあちゃんから、彼が怪我したって聞いて…」
「おばあちゃん…? 御親戚か何方か…?」
「あ、えと…おばあちゃんは、青学のテニス部顧問です…竜崎スミレ…私は孫の桜乃と言います」
ぽつぽつと語る少女は視線を俯かせ、その細い両手を胸の前に祈るように組み合わせた。
大きな不安を抱える時に、人がよく行う動作だ…この場合は、クラスメートである少年の怪我の具合が不明であるために抱く不安と焦燥が、彼女をそういう行為に至らしめているのだろう。
脳内で相手の行動を解析すると同時に、柳は彼女の言葉からも新たな情報を得て、記憶していた。
「竜崎先生の…成る程」
「あの…リョーマ君を御存知なんですか?」
「彼をここに運んだのは俺達だ…後輩と一緒にな」
端的に事実を述べると、桜乃は思い当たる節があったのか、二回頷いて柳を見上げた…まだ不安が色濃く滲む瞳で。
「確か…テニスの試合で怪我したって…それじゃ、その後輩の方が…?」
「ああ…その時の相手だ。今回はこちらが色々と騒がせてしまい、申し訳ない。後輩の赤也にもよくよく言い聞かせておこう」
「…その方は」
柳の謝罪を受けながら、桜乃は再び顔を伏せ、白い指を組んだままに小さな声で尋ねた。
「…お相手の方は…大丈夫、ですか…? その方も、怪我をなさったと…」
「…いや、赤也は少なくとも越前よりは軽傷だ…」
「そう、ですか……なら、安心…ですね」
「…」
青い顔をしながら、それでも必死に笑顔を作ろうとしている少女を、柳は何か不可解なものを見るような表情で見下ろす。
「…あ、おばあちゃん…」
不意に聞こえてきた車のエンジン音に外を見ると、どうやら彼女の祖母も駆けつけてきたらしく、彼女は一時祖母を出迎えに柳たちから離れた。
「……」
「どうした? 蓮二」
いつまでも桜乃の姿を追いかける親友に真田が声を掛けたが、彼は相変わらず少女を見つめたまま、声だけで答えた。
「…面白い子だ…普通なら真っ先に自分の知己を心配するものだが…いや、彼女は確かに越前のことを心底心配している様子だったが…相手の赤也のことまで気遣っていた」
「…それがそんなに不思議なことか?」
「自分に当て嵌めてみるといい、弦一郎。俺が越前と試合をし、怪我を負って彼と共に病院に運び込まれた…お前は、相手のことにまで気を回せる自信はあるか?」
「む……」
「俺の見立てでは、彼女は先ず越前の状態を気遣っていたが、自分と同じく知己の為に病院に来ていた俺達を知り、同様に俺達のことまでも気遣ったのだろう…心にゆとりが出てきたらそれも可能だろうが、何の情報もない時に…普通の中学生がなかなか出来ることではない…」
あんなに青い顔をして…手を微かに震わせながら…
普通なら、相手の切原に向かって文句の一つを言っても納得できる話だ、実際、挑発を受けたものの喧嘩を売る形でテニスの試合を挑んだのは彼なのだから…
それなのに彼女の言葉にも表情にも、怒りや憎悪というものは微塵もなかった。
(…不思議な女だ…)
「特に大事はありません。暫くは安静が必要でしょうが、十分、元には戻れるレベルです」
「そりゃ良かった」
全ての検査を終えた越前は既に患部に湿布を貼られ、丁寧に包帯で同部を保護された状態で、大人しく顧問の竜崎スミレと、桜乃と一緒に医師の説明を受けていた。
「全く…大事な大会を前に何やってんだい、無理をするにも程があるだろう」
「…すんませんッス」
「……」
多少は反省をしているのか、越前はむすっとしながらも痛々しい姿で一言詫びた。
膝、肘、顔面…
何れも骨には影響はないとの事だったが、やはり外見上は見ているだけで痛そうだ。
しかし、大事には至らなかったという事実が桜乃を何より安心させ、彼女は今は大人しく、祖母が彼を叱り付けているのを黙って見ている。
自分も少しは越前に対して注意の一つもしたかったのだが、これなら祖母が自分の分まで請け負ってくれるだろう…何より彼は人から余計な説教を受けて素直に聞くような性格ではないし…
「…しかし」
不意に、そこに横槍の声が入った。
意外にもそれは越前を診察した医師のもので、今、彼は患者より、越前の患部を撮像したX線写真に注目している。
「……ここまで見事に…偶然入るものだろうか…」
(え…?)
何とも理解し難い台詞に、桜乃が目を遣る。
「……」
「……」
おかしな光景だった。
越前も、祖母の竜崎スミレも、何も言わない。
医師の台詞に対し、何も、疑問の意思を示さない。
それならば、彼が何を疑問にしているのか、知らないのは…彼と自分だけなのだろうか?
越前と、祖母は、その正体を知っているのだろうか…?
「…え、と…先生、何か…?」
誰も何も言わない代わりに、桜乃が直接医師に質問を投げかけた。
「いや…顔面、肘、膝…顔面はともかくとして、他の患部が全て関節…しかも『狙った』ように綺麗に入っている…普通の試合でも確かに急所に当たる事故はあるが、ここまで何箇所も、しかもピンポイントで入っているなんて、私はこれまで見たことがない……故意にやっているのでなければね」
「!?」
ざ、と顔を青くする桜乃の前で、医師は首を横に振りながら己の意見を敢えて否定した。
「しかし聞いた話では、サーブのバウンドした球が、そのまま患部に当たったということだから、流石にそれを故意と言う事は難しいでしょう。確立はかなり低いものですが…」
やはり偶然なのでしょうね、と締め括った彼の台詞の最後に、祖母の呟きが被った。
「…ナックル・サーブ…」
「…?」
振り返った桜乃の視線の先で、祖母は越前のX線写真を食い入るように見つめており、やがてその視線は怪我を負った本人へと向けられた。
「…打たれたんだね」
「……イヤな技ッスね」
素直な肯定ではないが、その答えが全てを語っていた。
「おばあちゃん…ナックル・サーブって…?」
二人の反応を見ていると、その技が何となく只のサーブではないことぐらいは想像出来る。
嫌な予感を覚えながらも、桜乃は相手に尋ね、静かに返答を待った。
「……普通は、サーブの行く先は誰にも想像できない…普通はね。けどあの切原という若者は、前もってボールに回転を加えることによって、その行き先を自由に操ることが出来るのさ…過去にも、彼のその技でテニス選手として致命的な怪我を負わされた選手は数多くいる…リョーマ、今日の怪我がその程度で済んだのは、お前の運動神経の良さによるところも大きいのかもしれないが、一歩間違えたらもっと酷い結果になったかもしれないんだ」
「俺はそんなヘマはしないッス」
「馬鹿モン! 少しは慎重にならんか!」
「……」
がみがみとリョーマに向かって苦言を呈する祖母の隣で、桜乃は真っ青になったまま一言も発することが出来なかった。
(…故意に…人を傷つけるような技…?)
そんな技を使って…相手がどうなるのか、想像出来ない筈がないのに…!
生理的嫌悪感を覚え、桜乃は嫌な吐き気さえ感じ、口元に手を当てた。
気持ち悪い…
「…おばあちゃん…私、ちょっと、外にいるね」
短くそれだけ伝えると、桜乃はまるで逃げるように部屋を出て行く。
そして待合室の長椅子まで来ると、へたんとそこに座り込み、無意識の内に己自身を抱き締めていた。
小刻みに震えている。
がちがちと、歯まで鳴りそうな程に、桜乃は見えない恐怖に襲われていた。
(どうして…)
手先が冷たくなっていくのを感じ、俯く桜乃は、その時自分に近づいてくる一人の影に気付くことは出来なかった。
そ…っ
「…っ!」
上から、白い大きな手が降りてきて、桜乃の膝上に乗せられていた彼女の手に触れる。
極度の緊張の中にあり、血管が収縮して冷たくなっていた彼女の手には、それがとても大きく温かなものに感じられ、彼女ははっと顔を上げた。
「…大丈夫か?」
それは、あの立海の学生の一人だった。
帽子を被っていたもう一人の男は、今は少し席を外しているようだ。
艶やかな黒髪が美しい、凛とした態度を崩さない細身の男は、桜乃の手の冷たさに驚きながらも相手に気遣う言葉を掛ける。
「寒いのか…? 震えているようだが…」
「……」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
温かな相手の手が、凍り付いていた自分の心を溶かし、一気に感情が発露する。
「…っ!」
ぼろっと大きな涙が桜乃の頬を濡らした瞬間、彼女に声を掛けた柳は、更にぎょっとした。
あまりに急な展開に思考が一瞬出遅れてしまったが、それは桜乃も同様だった。
「あ、あれ…」
おかしい…何で私、泣いてるんだろう…
「す、すみません…あれ…どうして…止まらない…」
ぽろぽろと尚も真珠の様な涙を零し続ける少女は、必死に指でそれを拭って、止めようとする。
しかし、主人の意思に反して、それらは止め処もなく流れ続け、その様を柳は目を逸らすことも出来ずに見つめていた。
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