(何だ…この娘…)
 何で…泣き顔を見た程度で、こんなに胸がざわめく…?
 ぞくぞくとした戦慄が身体を走り、手を伸ばしたいという衝動が湧き上がる…
 初対面の女子だ、もうおそらく会うこともないだろう、なのに…
「…もしや、越前の怪我が…?」
 考えられる事態の可能性を柳が問うたが、相手はそれについては首を横に振って否定した。
「…いいえ、いいえ…大丈夫…です…きっと、大丈夫…」
「…そうか」
 ほっと柳が安堵したところで、桜乃は少しは自重してくれた涙の隙を突いて、彼を見上げた。
「…お騒がせして…ごめんなさい」
「いや…構わない」
 心からそう答え、男は少し逡巡した後で、桜乃の隣に腰掛けた。
 遠目に彼女が椅子に座っている姿を見て、何となく異常な雰囲気を感じ取って来て見たら案の定。
 蝋のように白い肌をしていた彼女がいたたまれなくなってつい声を掛けてしまった。
 きっと、知己の怪我にショックを受けたのだろう…それは想像できる。
 それを負わせたのが己の後輩である以上、見て見ぬ振りは出来なかった。
「…済まない、越前の怪我で、余計な心配をさせてしまったな」
「…いえ…」
 再度、詫びてくれた相手に首を振って、桜乃は暫くの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「……ナックル・サーブ…って」
「!」
 ぴくっと柳の肩が揺れ、その細い瞳が少女を真っ直ぐに見下ろした。
 意外な単語を聞かされた若者の前で、桜乃がゆっくりと言った。
「…ボールの行き先を…自由に出来る技だって…本当です、か…?」
「……」
 嘘はつけない…しかし安易に頷く事も出来ず、柳は暫く沈黙したが、結局こくんと首を縦に振った。
「…そうだ」
「じゃあやっぱり、切原さんという方は…敢えてその技を…」
「……」
 桜乃の涙の理由を推し量り、柳は沈黙する。
 成る程…あの怪我に至った本当の理由を知って、それが衝撃となってしまったか…
 確かに、あの非道とも言える技で怪我を負わされたとあれば、ショックも大きかっただろう。
 しかし勝負とは非情なものだ、感情論に振り回されていては、勝てる試合すらも取りこぼすだろう。
 今までも切原はあの技については散々言われてきている…それでいて止めようとしないのは、彼にもまた勝利への只ならぬ執着があるからだ。
 それが立海にとっても益となる以上は、自分の口を挟む余地はない…
「…その方は…大丈夫なんでしょうか」
「え…?」
 不意に呟かれた言葉に、柳が顔を向けると、桜乃が俯いたまま、苦悩の表情を浮かべていた。
「…人を傷つけるということは…自分も傷つけるという事に、気付いているんでしょうか…」
「……!」
「スポーツに怪我はつきものです。リョーマ君も覚悟の上でコートに立っていたんでしょうから、部外者の私が口を挟むことじゃないのは分かっています…でも私は…正直、リョーマ君より、切原さんという方の方が心配なんです…その人の心は…痛んでいないんでしょうか…?」
 それとも、もう、それすら感じられない程に、心が麻痺してしまっているんでしょうか?
 桜乃の問い掛けに、柳は何も答えられなかった。
 初めてだった、そんな質問は。
 今まで参謀として、先輩として、切原を起用したことで、彼のラフプレイに対する苦言は嫌と言う程に聞いてきた。
 冷徹な思考に基づく勝利への筋道は常に完璧だった、それには誰の文句も入り込む余地はなかった。
 勝ち上がる為に戦い、ルールに抵触しなければ、後輩の行為も是としてきた。
 誰にも文句は言わせない、言える筈がない…そう思っていたのに…
(こんな娘一人の言葉に、何故、こうも心が痛むのか…)
 いや、言葉だけではない…
 何故か、彼女の態度を見ていると…今まで経験したことのない妙な苛立ちを感じてしまう…
 何故だ?
「……切原さんの先輩…なんですよね…?」
「あ…ああ」
 潤んだ瞳で見上げられた柳が、僅かに動揺しながら頷き…初めて自分から名乗った。
「…柳、だ…柳 蓮二…」
 そう答えた時に、一瞬、自身の苛立ちの理由が見えた気がしたが、またすぐに隠れてしまう。
「柳、さん…先輩として、あなたは…」
「…他の人間にも言いたいコトはあるだろうが…俺達立海は、何よりも勝つことを信条としている。赤也のやり方が完全に正しいというつもりはない…が、しかし、奴の実力が俺達の戦力になる以上、使わないという選択肢はない…」
「…」
「…後は奴の心次第だ」
 あくまでラフプレイに拘るか…それとも、別に道を見つけるのか…それは本人しか分からない。
「…そう、ですね…でも出来ることなら…」
 少しだけ寂しそうに笑うと、桜乃は柳に頷いた。
「…そんな技を使わなくても…切原さんという方がテニスを楽しめるようになったらいいですね」
「!」
「…人を傷つけて勝つのは悲しい事ですから…」
 素直な言葉を訥々と述べる少女に、柳はようやく自身の苛立ちの理由に気が付いた。
(…『俺』を…見ていないから、か…)
 そうだ、今、はっきりと分かった。
 彼女は、間違いなく自分と話をしているのに、その視線の先に見ているのは自分ではなく、見たこともない切原という若者なのだ。
 俺は、彼を指導するべき先輩という立場…それだけとしか見られていない…
 彼女が切原を気にするのは当然だ、元々は彼とリョーマとの試合だったのだから。
 それに自分も先輩とは言え、今回の件についてはほぼ部外者に等しい。
 所詮、試合を終えた二人をここに連れて来ただけのことだ。
 別に彼女が礼を失しているわけでもない、自分に意識を向ける義務もない、それは重々理解している…のに……
(…不愉快だな……)
 この言い知れぬ不快感は…何処から来るものなのか…
 少なくとも自分に関しては、この程度の事でここまで心を乱すことはなかった…
「…さっきはよく分からなかったけど…今は何となく分かります…私が、泣いたのは…」
「え…」
 桜乃の独白に視線を向けると、彼女はまた溢れようとする涙を必死に堪えていた。
「…人が、相手を傷つける行為を、何の疑問も抱かずに出来るようになる…それが恐かったからです…痛いのが恐いんじゃない…痛みを感じなくなることが…恐い…」
「……」
 ありえない恐怖を、まるで足元に見ているように…彼女はそう言う。
 傷つけた相手を恨まず、憎まず…思い遣る程の心。
 見たことがない…見ていたい…もっと…
 俺にそう思わせていることも知らず、相変わらず、この子は俺に一瞥も向けないで…

『俺を見ろ』

 まるで見たことがない、感じたこともない、もう一人の自分が意識の深淵から顔を覗かせた。
 何と言う身勝手で、浅ましく、貪欲な意識…
 抑えたいと思う男の心を嘲笑いながら、『彼』は尚も桜乃に向けて心の声を上げている。
 その瞳を、俺に向けろ。
 お前にその気がないというのなら……
「っ!?」
 柳の手が、無言のままに桜乃に伸ばされ、彼は相手の小さな身体を胸の中に押し抱いた。
「え…っ…!」
「…すまない」
 何をすまないと詫びたのか…それは柳にも分からなかった。
 勝手に身体に触れたことか、それとも後輩の暴挙に対してか…それとも、全てを隠して相手の意識を向けさせようとしている己の浅ましさに対してか…
 詫びるくらいならしなければいい…それは理解している。
 しかし、理解しているにも関わらず…離すことは出来なかった。
「…お前が恐れることなど何もない…今の俺には、それしか言えない…」
「……」
 相手の真摯な言葉に、身体を離そうとしていた娘の手の力が抜ける。
「だが少なくとも…お前の心が痛みを忘れるということはなかろう…赤也の事については、詫びるしかない、が、その件については、俺が保証してやれる」
「…柳、さん…」
「立海の俺の言葉など、信用出来ないかもしれないが……今だけでいい、覚えておいてくれ」
「……っ」
 優しい言葉もまた策略の一つだったのかもしれない。
 その策略の目的が何であったのかは柳本人しか知る由がなかったが、桜乃の心にはその言葉は十分に優しく染みた。
 思わず、再びの涙を零してしまうほどに…
「…構わない…時間はある」
 このままでいては、と逡巡する桜乃の心理を読み取った冷静な参謀は、彼女がそのまま自身の腕の中で泣くことを許した。
 形がどうあれ…今の彼女が感じているのは紛れもない、柳蓮二の実体。
 受諾という形で、柳は己の希望を叶えた。
 きっと、これは今、この時だけの希望で終わるだろう…もう彼女と会うこともないのだろうから。
(俺は…忘れてしまえるだろうか…?)
 ここで彼女と別れて…この気持ちを忘れてしまえるのだろうか…?
 いや、忘れなければ…まだ俺の理性が勝っている内に。
 しかしもしまた彼女と再会するようなことがあれば…その時はもう……


「蓮二…?」
 暫しの後、待合室に戻って来た真田は、信じられない光景を目の当たりにする。
 親友の柳が、あの青学の女子を胸に抱いたまま、静かに椅子に座している姿を。
「!!」
 声もなく佇む相手に気付いた柳は、薄く微笑んだまま人差し指を口元に立てて「しーっ」というジェスチャーを見せた。
 何とか気を取り直した真田がゆっくりと音をたてずに近づくと、柳の胸の中で寝入っている桜乃の様子が明らかになった。
『…越前の怪我が心配で、随分と気が張っていた様だ…心配するな、お前が考えているようなやましい事は何もない』
「む…」
 先に心を読まれてしまい、居心地悪そうにしていた真田だったが、それならいいと言う様に特に言及はしなかった…代わりに、
「……?」
 再度、ちらりと柳を見て、微かに首を傾げる。
 確かにやましいことはなかったのだろう…その親友の言葉は信用できる、しかし…
(…何となく…嬉しそうに見えるのは、俺の気のせいなのだろうか…)
 それから、柳達は待合室に竜崎スミレ達が戻って来たのを契機に桜乃を彼女達へと引き渡した。
 向こうも彼らの様子に驚いた様子だったが、実に沈着冷静な柳の対応が功を奏し、特に何を追及されることもなく、桜乃は眠ったままに相手の手に戻された。
 柳の優しさにほだされた事もあっただろうが…本当に越前の身体を案じて疲れ切っていたのだろう。
 そして、柳と桜乃は、言葉を交わすこともなく、そのまま別れたのだった。




 それから時は幾日かを刻み…関東決勝の日が訪れた。
「赤也の相手は…不二、か」
「なかなか面白そうッスね…」
 対戦相手を確認している真田と切原の隣で、全ての組み合わせを検討、決定した参謀は無言のままにコートを見つめている。
「ふむ……テニス界きっての天才と称される男だが、果たしてどれ程の実力か…」
「何言ってるんスか、実力がどうあれ、こっちが勝つのは決まってるでしょ。俺の実力もそうですけど、何しろ柳先輩の策ッスからね」
 自信満々の切原の言葉にも耳を貸す様子もなく、柳は無言で前を見据えていた。
(…竜崎…)
 何という事だ…あの子がいる…よりによって自分が気づける程に近くに…
 これもまた、縁なのだろうか…?
(俺が出したこれが答えだ…お前は、どう見るのだろうな)
 今回の切原と不二のカード…それは柳にとって一つの賭けだった。
 切原の実力は確かだ、立海で唯一、二年生でレギュラーを張る事が出来る男なのだから。
 しかし対する不二…あの男の底力は、正直未だ計り知れないものがある。
 もしこれで切原が勝てるのであれば、それも良かろう。
 しかし負けるとなれば…
(…その時、初めて赤也は知ることになるのかもしれない…痛みを感じる心というものを)
 勝利を希求する立海の参謀としては、詰めの甘い、不出来な選択かもしれない。
 しかし、今の自分は参謀でもあり…彼の先輩でもある。
 これがあの娘への…切原の先輩としての柳蓮二の答えだ。
(しかし、参った…)
 再会を果たしてしまったことで、柳はまた心の中に別の自分が頭をもたげたことを自覚していた。
 一度目は何とか抑えられていた…しかし、今、二度目の出会いともなれば……
「……俺は、自分で思っていた以上に執念深い様だ」
「?」
 真田の不思議そうな視線を感じながらも、柳はその真意について明らかにするつもりはなかった。
(…竜崎…お前に関してはな)

 その感情が『恋』と呼ばれるものだと柳が認識したのは、それからまた時を経た後のことであった…






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