囚われたのは王子様


 あの人を見たのは、春の風吹く暖かな日…
『失礼します』
 いつもの様に、整然と並ぶ本達に囲まれたくて訪れた図書室…その司書室に、見慣れない先客がいた。
 背を向けた彼女は長い黒髪を揺らして、振り返り、そして微笑んだ。
『あ…こんにちは』
 白磁の様に白い肌、艶やかな黒髪、その黒髪よりも美しく深く輝く黒曜石の瞳、目を惹かれる赤い唇…
 その全てが…殺風景とさえ言われているこの場所には不釣合いだった。
 まるで、今日食べるものすら困っている貧しい人間の家に、豪奢な人物画を飾っている様な、そんな感じだ。
 しかし、彼女は絵ではなく生きた人間で…絵の様に微笑むだけではなく、言葉を紡いだ。
 耳を優しくくすぐるような…心地よい鈴の音の様な声で…
 春の、桜の精もかくやと思わせる雅な人は、尋ねることもなく自分の名を呼んでくれた。
『…あなたが柳君ね? お話、聞いています、どうか宜しくね』
 その時、自分はどんな顔をしていたのだろう?
 宜しく、と言われて困惑していただろうか、迷惑そうにしていただろうか…それとも、声を聞いたこと自体が奇跡の様で、表情を浮かべることすら出来なかっただろうか…?
『…貴女は?』
 かろうじて言えた言葉もあまりにも捻りがないものだったが、初対面だからそれでも良かっただろう。
 それでも、言った後で暫くは、台詞の安直さに我ながら呆れていたものだ。
 そんな自分に、彼女はまた優しく答えてくれた。
『私は竜崎桜乃…今日からここの図書室の司書教諭になりました。柳君は、ここの図書を殆ど把握しているそうね? 迷惑を掛けるかもしれないけど、どうか色々と教えてね?』
『司書…』
 それが、彼女と自分との、初めての出会いだった……


「柳君?」
「っ!」
 不意に呼びかけられ、柳ははっと我に返りつつ、顔を上げた。
「…大丈夫?」
 桜の精が、無邪気な微笑で誘うように笑いかけている。
「…はい」
 まるで夢の中にいるような世界だが、明らかに現実だという事も認識していた柳は、何事も無かった様に頷いて答えた。
 しまった、少しぼーっとしてしまったか…あの日の事を思い出してしまうとは…
 改めてテーブルの上に置いたノートを注視する柳に、桜乃はすぅと顔を離しながら心配そうに首を傾げた。
「疲れているのかな? 少し横になる?」
「いいえ、大丈夫です」
 ここは図書室に隣接する司書室。
 図書室と同じ様に壁には多くの本棚が誂えられているが、他にも冷蔵庫やテーブル、ソファーなど、人が日常を過ごすのに必要最低限の調度品が揃えられていた。
 普通、生徒達は隣の図書室で読書に勤しみ、必要な書籍を借りていくのだが、柳だけはこの司書室で読書や調べ物をするのが常になっている。
 あまりにも当然という態度で入ってきて、椅子に座り、黙々と作業に勤しむ彼の様子に、桜乃は彼の行動の理由を尋ねるタイミングを完全に逸してしまった。
 いつからそうだったのかは分からない。
 それも柳本人に尋ねたら分かったかもしれないが、ここに赴任してからというもの、そんな事よりもっと大事な内容について聞く事が多すぎて、尋ねる暇などなかったというのが正しい。
 そして、既に彼の行動が自分にとっても習慣となっている今となっては、聞くことも憚られてしまったのだった。
「ほんの少しでも眠ったら楽になるからね、辛かったら保健室に行くのよ?」
「ええ…それ程に疲労している訳ではありません、少し考え事がありましたから…」
「ああ……柳君、テニス部でも頑張っているんだったね、凄いね、文武両道」
 彼が開いているノートの中身を察した桜乃は、うんうんと頷きながらティーポットを弄っている。
 紅茶を煎れているのだという事は、茶葉の色などを見てすぐに分かった。
「学生として、当然のことです」
「ふふふ、後輩さんは、偉い先輩の教えはなかなか守れないのかな」
「?」
 何の話だろうと眉を顰める柳に、桜乃はくすくすと小さな微笑を零しながら、紅茶をティーカップに注ぎつつ続けた。
「柳君の後輩の…えーと、切原君だっけ? この間、ここに飛び込んできて、そこのソファーで仮眠していったのよ? 保健室で寝るのはそろそろヤバイって」
「…赤也が…?」
 何の感情も含まない声で反芻したが、柳の心の中の不快指数が一気に限界近くまで跳ね上がる。
 ソファーで…彼女の傍で、安らかな眠りの一時を過ごした、だと…?
「授業が自習になったから、横になって寝たいって来たの。まぁ、あまり目くじらたてることもないし、私はここで仕事をするだけだから、寝かせるぐらいはいいかと思って…」
「良くありません」
「え…?」
 戸惑う相手に、柳はぴしりと厳しく断じた。
「以降、彼が来ても一切そういう希望は拒否して下さい。赤也は甘やかすとロクな事になりません」
「そ、そうかなぁ…」
「赤也に限らず、他の生徒にもです。ここは司書室であって休憩所ではありません」
「……ごめんなさい」
「……」
 今の暫しの沈黙と、彼女の謝罪の様子から推測するに……
「…先生が休憩を取るのは構いません」
「で、でも…」
「いいんです」
 生徒の言葉を小さいものと思わず、等身大の意見としてそのまま素直に受け取ることが出来る相手に、何となく嬉しくなって柳は微笑んだ。
「…ここは、貴女の城ですから」
「!…えへ」
 一国一城の主ってことかな…と思い、桜乃は嬉しそうに微笑みながら、煎れたばかりの紅茶をそっと柳に差し出した。
「え…?」
「じゃあ、お城に来た王子様におもてなし…桜の紅茶なの、私のお気に入り。これ飲んだら、少しは元気が出ると思うから…」
「……」
「このぐらいは、いいでしょう?」
 ほっと一息ついて心の洗濯をしたら、また元気になれるよ、と微笑んで、桜の精はそっと優しく柳の肩に手を触れた。
「…では、折角ですから…頂きます」
「はい、どうぞ」
 触れられただけ…肩に触れられただけなのに、胸が熱くなる…
 少しでもそれを抑えようと、柳はすぅと紅茶の香りを吸い込んだ。
 ほんのりと淡く色づく桜が、部屋中に咲き誇っている様な…そんな芳醇な香りだった。
(…先生が、好んでいる紅茶…か)
 確かに、自分も好きになれそうだ…そう言えば……
(…名前…桜乃、だったか……)
 彼女の名を持つ紅茶…
 思い出した所為でまた胸がおかしくなりそうで、柳は気を引き締めつつそっと紅茶を口に含んだ…


「えーと…この本は、あっちの書庫に…」
 放課後でも、司書の仕事は残っている。
 桜乃は小柄な身体を必死に動かして、重い本が沢山乗ったカートを押して棚から棚を回り、返却されたそれらを一冊一冊、元の場所へと戻していた。
 今日はもう図書室の中には誰もいない…もうすぐ鍵も閉めないといけない時間だ。
(あ…後は…)
 そして棚の一番上が指定席の本ばっかりになったところで、桜乃は少しの間考え込んだ。
(そう言えば、柳君、言ってたっけ…)
『高い場所にある本は俺が戻しますから、先生は手を出さないで下さい』
 あっさりと己から労働を申し出た柳の一言だったが、桜乃はその言葉にそのまま従う気分にはなれなかった。
 反抗心からではなく、申し訳ないという罪悪感からだ。
 自分は司書教諭だが、柳はまだ高校生だ、無論彼に司書の仕事をする義務はない。
 ここに赴任して数ヶ月が経過し、ようやく自分も仕事の内容を理解し、或る程度はこなせるようになってきたのだが、それは殆ど柳の指導のお陰だった。
 立海に来た時、『分からないコトがあったら、柳蓮二という生徒に聞けばいいから』と言われ、最初は不安で一杯だったが、いざ接してみると、その言葉の通りだという事がよく分かった。
「本当に、何でも知ってる子だよねぇ…」
 そして、こんな不器用な自分に愛想を尽かすこともなく、根気良く付き合ってくれる程に優しい。
 身長も、年上の自分なんかよりずっと高いし、落ち着いているし、頼り甲斐があるし…だから、つい甘えてしまっているのかもしれない。
(よく考えたら、柳君、殆ど昼休みは司書室でしか過ごしてない…よね)
 本当は同級生とかと一緒に歓談したり、昼食食べたりしたいんじゃないかな…放課後は部活動で忙しいみたいだし……
 あんまりここに閉じこもっていたら、学生としての楽しみも半減だし…遊びとか、恋…とか。
(…あれ?)
 何故だろう…恋って考えた時、ちょっと胸が痛んだ気がするけど…
(…き、気のせいだよね、多分…いつも一緒にいるから、寂しく感じただけ…)
 頭で否定して、桜乃はうんと決心して頷いた。
「やっぱり、いつまでも甘えてちゃいけないよね…私だって一応ここの責任者なんだし…」
 生徒の手を期待するばかりじゃ、情けないもん…別に必ず危険って訳じゃないんだし…
 カートを押して、小さな脚立を持って来て、桜乃は上段の整頓に取り掛かった。
 気をつけて扱えば、何てことない…ちゃんと仕上げられるようになったら、少しは柳君を安心させられるし、司書室の手伝いで拘束することも無くなる。
 彼が、喜んでくれたら…
「えと、これは…うわ、重い…」
 古典の全集を手に取り、ずっしりとした重さを感じながら、桜乃は震える手で重みを支えつつ上段に戻そうと脚立の上で伸び上がった…が、
「きゃ…っ!」
 爪先立ちになって、バランスが僅かに崩れ…それは瞬く間に体勢の崩壊にまで及んでしまった。
 脚立から背後に向かって身体が倒れていくのを、まるでスローモーションの様に感じながら桜乃は目を閉じた。
 そのまま床に落下するか…後頭部を背後の棚にしたたかにぶつけるか…どちらにしろ、酷い苦痛を伴うだろう。
「〜!!」
 痛いだろうな…と恐がりつつも覚悟を決めた桜乃だったが、その身体は途中でとさりと何かにぶつかり、床への転倒は免れた。
 ぶつかったと言っても感触は固くはなく、何となく温かみすら感じる。
「…?」
 あれ?と思って目を開けると、自分の両脇から別の誰かの腕がにょきりと伸びて、倒れないようにしっかりと支えてくれていた。
「…俺に任せるように言っていた筈です」
「はわ…っ!?」
 ぎょっとして振り向くと……
(きゃあああ! や、柳君っ…か、顔近いっ!)
 もう少しで、肌と肌が触れ合う程に近く、柳の顔がそこにあった。
「立ち寄って良かった…大怪我をするところでしたよ」
 普段は閉ざされている瞳が今に限って開かれており、その英知に満ちた輝きが真っ直ぐに自分を射抜いてくる。
「あ、あのっ…」
「本当に…目を離せない、貴女は」
 ちょっとだけ困った様に苦笑して、教え子は言った。
 その口調には、怒りや呆れというものは微塵も存在しなかったのだが…
(…イコール、頼りないってコトだよね…)
 やっぱり失敗してしまったと、桜乃はかっくりと項垂れてため息をついてしまった。
「…竜崎先生?……あ、その…俺は怒っているわけでは…」
「うん…分かってる、柳君は優しいから……ゴメンね、頼りない先生で」
「え…?」
「…もっとしっかりしてたら、柳君にこんなに頼らなくてもいいのにね…もっと、遊びとか勉強とか、恋とか…出来る時間も増やしてあげられるのに…」
「…恋?」
 意外な、思いも寄らない言葉を聞いた、という柳の表情に、桜乃はこら、と笑って叱る。
「そんなに格好いいんだから、モテる筈でしょ? お年頃なんだから、良い恋をしなきゃ損だよ」
「先生も、俺とさして年齢は違わない筈ですが…」
「まぁそれは深く追求しないように」
「……これまでのデータを総合すると、先生に恋人がいない確率は…痛っ」
 全てを暴露される前に、桜乃は相手の片耳を摘まんでぎゅっと引っ張った。
「自分の事ぐらい知ってます。私なんかより柳君自身の事を第一に考えないと駄目ですからね」
 ちょっぴり拗ねた様子の相手が可愛く思えて、柳はくすりと微かに笑いつつ答えた。
「…俺もちゃんと考えていますよ」
「本当に?」
「ええ…その上でここに来ていますから、先生こそ気兼ねは無用です。俺は司書室にいるのが、一番落ち着きますから」
「……癖?」
「まぁ、そんなものです」
 笑ったまま、柳はようやく桜乃の身体を解放した。
「…さぁ、残っている分の本を片付けましょう。俺がやりますから、先生はカートの移動をお願いします」
「う、うん……」
 結局、その日も最後まで柳の助力を得て、桜乃は司書室の仕事を全て終了させたのであった。



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