翌日の昼休み…
「失礼…ん?」
いつもの様に司書室を訪れた柳は、部屋の主の姿が見えない事に気付いた。
おかしい…いつもなら、昼食の後のティータイムを喜んで過ごしている筈なのだが…
(今日の行事でも特に司書絡みのものは無かった筈…何処に?)
待つしかないかと窓際に行って、手持ち無沙汰にそこから外を眺めた柳だったが…
「…あ」
小さく声が出た。
見つけた……信じられないが、こんなに早く。
「先生?…」
外の庭園の中にあの黒髪の教師が佇んでいたが、何故か全く動く気配がない。
座るなりしていたら休憩でもしているかと思えたが、立ったままに、何の目的もなく留まっているというのは明らかに不自然だ。
(…?)
ここで考えていても仕方がないと早々に思考を打ち切ると、柳は急ぎ足で自分も庭園に向かった。
それ程に長い時間もかけずに庭園に移動した柳は、やはり最初に確認した場所で桜乃を見つけることに成功する。
静かだ…この庭園には今誰もいないのか…二人以外は。
「…先生?」
「っ…」
何をしているのだろうと思いながら声を掛けた柳に、はっと桜乃が振り向いた。
「え…」
どきん・・っ!
教師の顔を見て、生徒はその場で立ち止まり、動揺しながら声を漏らした。
涙…?
見ると、自分の姿を認めた瞬間、桜乃の瞳から一筋の涙が零れ落ちていた。
「な…何が…」
「柳君…あの…髪が…」
「髪…?」
「髪が絡まって…取れなく…なっちゃって…」
慌てて走り寄った若者に説明しながら、若い女教師はすんすんと泣き続けている。
彼女の髪をよく見ると、真後ろの髪の一部が、背後にあった沈丁花の枝葉に絡まってしまっていた。
目が届くところだったら自分で払うことも出来ただろうが、真後ろだったのが災いしたらしい。
とにかく、涙の理由が分かった柳は、ほっと息を吐いて彼女を慰めた。
「じっとして…俺が取りますから、動かないで下さい」
「うん…ありがと…安心して涙が出ちゃった…」
それから、柳は悪戯好きの沈丁花の枝葉から、桜乃の艶やかな髪を丁寧に外してゆく。
(…心臓が…止まるかと思った…)
触り心地のいい髪の感触を指先でしっかりと感じながら、柳はどきどきと騒ぐ胸を抑えるのに必死だった。
本当に、心臓が止まるかと思った、あの涙を見た瞬間…
何が起こったのかと、何を自分はしてしまったのかと…思い当たることもないのに。
(沈丁花程度で良かった……しかし、本当に美しい髪だ)
こんな綺麗な髪を悪戯に傷める訳にはいかないと、細心の注意を払いながら、柳は全ての髪の絡まりを解いてやった。
「…もういいですよ、先生、取れました」
「あ、有難う…誰もいなかったから、どうしようもなくて…柳君が来てくれて本当に良かったぁ」
「偶然、司書室の窓から見えたので…動かないから、どうしたのかと」
「え…じゃあ、何の用事も無かったのにそれだけでわざわざ?」
「気になったものですから」
「……やっぱり頼りないねぇ、私」
はぁ…とため息をついた桜乃は、申し訳なさそうに柳へ顔を向けた。
「司書室にいるのが好きな柳君に、今度はこんな場所にまで来させちゃって…やっぱり私が柳君の邪魔してるんじゃないのかなぁ…何か、責任取って私に出来ることがあればいいんだけど…ある?」
「いや…そういう事は別に…」
いい、といいかけた唇を止め、男は手でその口を押さえ、暫し考え込んだ。
「…柳君?」
「……それもいい…確かに、貴女の責任でもある…」
「え…」
やっぱり、私は重荷になっている?ととても大きな不安を覚えた桜乃に対し、柳はぐるりと首を巡らせて相手を真っ直ぐ見つめた。
「…貴女の所為で、俺には恋人が出来ません」
「うっ…!」
よりにもよって、物凄い難問がっ!
でもそういう場合、私はどう責任を取ればいいのだろう…金銭では当然片付く訳もないし…土下座したって解決には至らないし……
「ど…どうしたら、いいのかなぁ…?」
「そうですね…」
さわ…
「!?」
彼の手が伸びて、自分の髪を優しく梳きながら…
「貴女が、俺の恋人になってくれたら…全ては解決する」
「えっ…!?」
問い返す間に頬が染まってゆく相手に、髪を梳いた手を今度はその頬に触れさせて、柳は顔をもっと近づけた。
「俺が好きなのは貴女だけですから…貴女しか俺の恋人にはなり得ない」
「や、柳君…っ!?」
「好きです…竜崎先生」
「〜〜〜〜っ!」
真っ向からの直球勝負。
ずっと司書室で長く一緒にいたけど…まさかそんな感情を抱かれていたなんて…
だって、彼はいつもクールで、落ち着いていて、私を手伝ってくれるのも、彼の優しさからだって思っていたのに…
「じゃ…じゃあ…もしかして、ずっと司書室にいたのって…」
「…あの場所では、俺だけが貴女を独占出来ますから」
この広い校舎の中で、あの部屋だけは誰の邪魔も受けずに貴女と共にいることを許される…
貴女の傍にいることを許される…
「や、柳君…でも私は、何の取り得もない…つまらない女で…その…」
どうしよう、物凄く嬉しい…柳君が、私のこと…
ずっと、司書室にいたのは義務じゃなくて…責任感からでもなくて…私に会いたいと思ってくれていたからなんて。
でも私には、あなたの恋人にしてもらうような資格は…あるのかな…?
「柳君にも迷惑ばかりかけてたし…えと…」
「迷惑だなどと考えたことはない…言いたい事はそれだけですか?」
「え…?」
ちゅ…
ならば塞いでしまおうとばかりに…男は彼女の唇を奪う。
さりげなく、しかしありったけの想いを込めた熱い接吻を与え、抱き締める。
「ん…!」
誰もいないけど…教師と生徒が校内でこんなこと…っ
「柳君っ…あ…」
小さく悶えながら周囲を気にする桜乃に、柳は笑う。
「…気になるのなら、司書室に行きましょうか?」
「え…」
僅かに離された彼の唇が、誘うようにこそりと耳元で囁いた。
「それこそ誰かが入って来るかもしれませんが…俺はそれでも構わない」
「うぅ…」
珍しく意地悪なことを言う若者に桜乃が上目遣いで拗ねた顔をすると、彼はもっと笑みを深めて彼女を捕らえ、髪や頬に唇を触れさせてくる。
「あ…ああっ…」
「そんな顔は…逆効果です。もっと見たくなってしまう…」
こめかみの髪の生え際からそのまま耳元に柳の唇が移動し、口付けと共に、熱い吐息がふぅと吹きかけられると、がくがくと足が震えて力が抜けそうになってしまった。
かろうじて相手の腕が支えて倒れることはなかったけれど。
「やぁ…んっ」
「先生…」
自分だけに、今、見せてくれている貴女の表情…
見られても構わないと言ったが、そんなのは嘘だ、本当は誰にも見せたくない…
「俺の恋人に…なってくれますね?」
はいと言えば、ここは退いてあげますよ…?
あからさまな策略だと分かっていながら、桜乃はその誘惑に逆らえず、悔しいと思うことすら忘れ、こくこくと首を何度も縦に振っていた……
それからの司書室……
「すぅ…すぅ…」
「……」
昼休みに柳がそこを訪れると、テーブルに伏して安らかな寝息をたてている桜乃がいた。
実に気持ち良さそうに眠る彼女の寝顔を見つめた男は、少しだけ考え込んで、それから一度図書室の方へ戻る。
しかし、一分もせずに再び司書室に入ると、そのまま後ろ手にかちゃりと鍵を掛け、ゆっくりと桜乃へと近づいていった。
「……」
暫く桜乃の美しい寝顔を見つめて思う存分堪能すると、満足した代償にと言う様にそっと頬に口付けた。
「う、ん…」
「…ふ」
漏れる可愛い声に微笑み、更に口付けを繰り返す内に、ようやく眠り姫の瞳がゆるゆると開かれた。
「んん…え…っ!?」
「…お早うございます」
「やっ、柳君っ!?」
「はい」
目覚まし時計以上によく効いたキスで一気に教師の眠気は吹き飛んで、がばりと飛び起きた相手はあわあわと狼狽も露に柳に訴えた。
「ちょっ…また、そんな恥ずかしいコト…こんなトコロで」
「休館中の札を出しておきました…鍵も掛けましたし、大丈夫です」
「あ、何だ、そうなの…それなら…」
言いかけて…
「〜〜〜〜〜」
柳の面白そうな視線に見つめられ、桜乃が真っ赤になって俯いてしまう。
その彼女に生徒はゆっくりと手を伸ばし、くい、と頤を持って上向かせた。
「『それならいい』…と、貴女は言おうとした」
「も、もうっ…知りません」
「ふ…」
ぷい、とそっぽを向いてしまう恋人に、優しく微笑んだ男は機嫌を直してもらおうと甘く囁く。
「貴女は…本当に可愛らしい」
「っ!」
年下のクセに…どうしてこんなに翻弄してくれるんだろう…しかも自分、完全にハマってしまってるし。
テニス部でも参謀と呼ばれているみたいだけど…本当に厄介なヒトなんだから。
「機嫌を直してくれませんか?」
「う…べ、つに…怒ってないから…いいの…それより、札を外しに行かないと」
自分も起きたことだし、いつまでも休館のままにしておく訳にはいかない、と立ち上がった相手の肩を押さえて、柳がそれを止める。
「柳君…?」
「まだ…済んでいません」
「え…なに…」
すぐには答えず、柳は桜乃に優しいキスを与え、驚く相手に言った。
「…仲直りのキス」
「!…じっ…自分がしたいだけ、でしょ…?」
仲直りと言うのは建前で、単にキスをしたかっただけ…なんでしょ?
私は怒ってないって言ったのに…と怒った表情で照れを隠した教師に、生徒は余裕の笑みを称えながら問い掛けた。
「……俺だけ、ですか?」
「う…」
キスをしたいと思ったのは…自分だけ?
これもまた意地悪な問い掛けに桜乃はむーっと唇を尖らせたが、うん、と何かを決した様に頷くと、ぐいっと柳の胸元のシャツを掴んで引っ張り…
「!?」
有無を言わさず、相手にキスのお返し。
「…せん…せい?」
「仲直りじゃなくても、好きならキスは出来るもん」
ぴ、と舌を出してそのままぱたぱたと図書室へと向かった相手の後姿を眺め、柳は呆然と立ち尽くし、してやられたかと小さく笑った。
「……俺の負けか」
それなら潔く認めようと思いながら、彼の表情は嬉しそうだった。
一人になった静かな部屋で、男はぐるりとその場を見回す。
自分達の…全ての意味で始まりになった場所であり、彼女の城。
そう言えば…いつか彼女は俺の事を王子様と言ったが……
(…普通、王子様は囚われの姫を助け出すのが常套なんだがな…)
助けるどころか、今もこうして城の中、一緒に囚われたままだ。
「…思えば、あの時から、俺は囚われていたのだな」
あの春の日…貴女に初めて会ったその瞬間から、俺は囚われ、自分から逃げ道を塞いだのだ。
逃げられなくなることよりも、ここに他の誰かが訪れることが恐ろしくて、貴女を誰かに盗られたくなくて、ここに留まることを選択した。
姫君の手を引いて広い世界に連れ出すよりも、共に閉ざされた城の中で貴女と二人、生きたいと願った。
「下らない感傷だ…」
そんな世界など、長続きはしないのに…
いつかは城を囲んだ茨も目を醒まして行く手を開き、世界は二人を城から追い出すだろう。
その時も、自分の手は決して彼女の手を離すことはないだろうけど…
(…もう少しだけ、このまま、穏やかなままで…)
せわしなく煩い世界に生きる前に、もう少しこの静かな城で、二人、同じ時を過ごしたい……
了
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