幸村の受難


 本日はバレンタイン
 青学の中も、今日と言う特別な日はなかなかに賑わいがある。
 授業中はそれ程変わらないが、休憩時間ともなれば…
「お前、何個貰った?」
「五個!」
「すっげー! 俺なんか義理も二個しか貰えてねー」
 そんな男子生徒の会話が影で響いている一方で、女子の方でも見えない戦いが繰り広げられていた。
「やっぱり不二先輩、格好いいわよね〜」
「でも、本命の子っていないんじゃない? 先輩、誰にでも優しいし、同じ感じで受け取ってくれるけど…」
「やっぱり理想高いのかな」
「う〜ん」
 など、名前は異なっても、似たような会話があちらこちらで聞こえてくる。
 そんな中、桜乃も例に漏れず、女の子ならではの能力を自分なりに発揮していた。
 昼休みの少し長い自由時間を使い、彼女は青学テニス部の男性陣の皆に、チョコレートを配って回っていた。
「おっ、わりーな! 早速貰うぜ!」
「はい、どうぞ、桃城先輩」
「やぁ、おいしそうだね、手作りかい? どうも有難う」
「ひゃ〜、嬉しいにゃあ! あんがとー」
「はい、どうぞ、不二先輩、菊丸先輩」
 全てのチョコを配り終わり、教室に戻る桜乃はため息を一つついた。
(リョーマ君…喜んでくれたかなぁ…)
 
『ああ、ありがと。後で貰うよ、これから桃先輩と打ち合いやるんだ』
 
 一世一代の勇気を振り絞って差し出した手作りのチョコ…包装も彼のだけは特別手作りバージョンで挑んでみたのだが…・何となく不発に終わってしまった気がする。
 大体が全ての集中力が今はテニスにしか向けられていない少年なのだ、そういう細かいところにまで気づけというのは無理なのかもしれない。
 しかし、乙女にとっては気づかれなければ敗北にも等しいのだ…
(うう…どうしたら上手く伝えられるんだろう…)
 打てども響かず…の太鼓が相手だと、こちらも苦労する…
「ああ、桜乃、丁度良かった」
「? おばあちゃん」
「これ、学校では竜崎先生と呼ばんか」
「あ、はい、り、竜崎先生。何ですか?」
「ああ、すまないが、授業が終わったら、ちょっと立海に行ってきてくれないかね」
「え? 立海…」
「こないだの練習試合なんかに関わる書類や、以前借りてた備品があるんだが、なかなか返しに行けなくてね。今日はまた放課後のスケジュールもある。お前は、あっちの選手とも知り合いになっていたみたいだから、他人が行くよりはいいだろう」
「う、うん…でも、私でいいの?」
「肝心なのは持って行くもの、なんだよ。別にお前に試合をして来いって言う訳じゃない。ああ、レギュラーに会ったら宜しく言っといておくれ。それに今後は、女子テニス部の方でも色々と交流を深めていくことになるかもしれない」
「はぁい」
 じゃあ、今日はリョーマ君達の練習は見られないんだ…
 少しがっかりしているところで、祖母は桜乃に思い出したように付け加えた。
「昨日作っていたチョコも持っていったらどうだい? どうせあれだけの量、全部配れないだろ? 全く…張り切りすぎだよ」
「う…」
 その通り…つい一年に一回のイベントということで、昨夜は随分キッチンで奮闘し、気づいたら山盛りのチョコが出来上がってしまっていた。
 その残りはまだ、自分の机のフックに掛けられているバッグの中だ。
 本当は、青学のみんなが部活が終わった後にでも分けようと思っていたのだが……
(…立海の皆さんにもお世話になったし)
 丁度今日はバレンタインデー。
 感謝の気持ちを表すには、絶好の機会かもしれない。


 放課後、桜乃は備品と書類を預かり、チョコが入った袋を持ち、一路立海に向かっていた。
(神奈川でも、そんなに遠くないんだ…良かった)
 電車を乗り継いでいけば、東京の少し離れた地域とさほど距離的には変わらない。
 ちょっとしたお出かけコースと思えばいい。
 駅を降りた後は、祖母に言われた通りタクシーに乗り込み、桜乃は無事に立海に到着した。
 まだまだ太陽は高く、放課後といっても辺りは非常に明るい。
「えーっと…テニス部部室は…」
 学校の中にあった案内板を見て、桜乃は勇んでキャンパスへと踏み入った…


 約二十分が経過し、いまだ桜乃はテニス部部室には辿り着けずにいた。
 お約束の、迷子状態、である。
(ああ、また……)
 幾ら何でも今回ばかりは地図見たし大丈夫だろうと思っていたのだが…自身の方向音痴は予想以上に難敵だった様だ。
 誰かに聞こうにも、放課後ということもあってか、なかなか人に会えないでいるし…
(うう…まさか、このまま一日中彷徨うことはないと思うけど…あれ? 何かここ、さっきも通った様な気がする…)
 似たような景色なのか、それとも同じ場所をぐるぐる回っているのか…考えれば考える程に分からなくなり、桜乃の脳がショート寸前にまで陥ろうとした時だった。
「きゃんっ!」
「あっ、ごめんよ」
 パニックになった桜乃が次の角を右に曲がった瞬間、どんと誰かにぶつかって大きくよろめいてしまった。
 しかし、幸いにも桜乃はそのまま倒れることなく、しっかりとその相手に支えられていた。
 反動は激しかったが、相手の行動が非常に機敏で力強かったことが幸いしたのだ。
「ご、ごめんなさい! 私、前見てなくて…」
「いいんだよ、俺の方こそ御免。大丈夫かい?…って、君は」
「え?」
 相手の顔を見ないまま条件反射で謝った桜乃に、相手が何となく見知った雰囲気で声を掛けてきた。
 それに応じて桜乃も相手の顔を見上げる…と、そこには、
「あ、幸村さん!!」
「やっぱり、竜崎さんか…どうしたの?こんな所で」
 上からの目線だが、そこには傲慢さや高飛車な態度など微塵もない、温和で理知的な雰囲気に包まれた独特の空気がある。
 線の細い、しかし確かに男性であることを知らしめる鍛えられた身体を持つ若者。
 立海の男子テニス部を牽引する、幸村精市その人がいた。
 ブレザーを着ている彼の姿を見るのは初めてだが、やはり顔立ちが整っている所為か、非常に様になっている。
「あ…良かった〜〜〜〜〜〜っ!!」
「え? え?」
 声を大にして、肺の中全ての空気を吐き出したかの様な少女の一言に、幸村は何事かと訝った。
「迷っちゃったんです〜〜! テニス部部室がある海風館に行きたかったんですけど、何処行っても見当たらなくて〜〜〜!」
「え、テニス部部室って…それは海林館だよ。そこ曲がって降りてすぐだけど」
「………」
 幸村の優しくも無情な宣告に、桜乃は身体が硬直した。
 これじゃあ、思い違いの上、完全に方向音痴を露呈したことになる…
 いっそ別の言い訳考えてたら良かった、とも思ったが…まぁ、既に手遅れである。
「う…っ…お騒がせしましたぁ」
 ぐすんと鼻を鳴らして一礼したところで、はっと桜乃は重大な事実に気づいた。
(わ…っ…幸村さん…手…)
 ぶつかった拍子に支えてくれた彼の手が、まだ自分の腕を軽く掴んだままだったのだ。
 気づいてしまうと、彼の手の大きさと温もりが否が応でも伝わってくる。
(おっきな手…こんな細い人なのに…)
「テニス部に何か用?」
 幸村は、相変わらず少女の手を掴んだまま、その事実に気づいていないのか、相手に質問した。
 主将なのだから、気にするのは当然だし、知る権利もあるだろう。
「あ、あの…おばあちゃんから頼まれて、書類とか、持ってきたんです」
「何だ、そうだったんだ。わざわざ悪かったね。でも、多分もう部室には人はいないよ。そろそろ練習だからコートの方へ向かったと思う。先生は今から職員会議で、終わるのはかなり遅い」
「あ、そうですか…じゃあ、これどうしよう…」
「いいよ、明日俺が先生に渡しておくから。用はこれで全部?」
「はい…あっ、それと…」
「ん?」
「あの…これ、よろしければ皆さんに…今日、バレンタインだから」
 彼女の自由になる方の手で袋を差し出され、幸村はそれを覗き込んで少し驚いた後、にこりと笑った。
「俺達にも持って来てくれたの? 凄く嬉しいな、有難う、竜崎さん」
「いえ、そんな…」
「あ、じゃあ折角だし、君からみんなに渡してあげてよ。俺と一緒にコートに行こう」
「え、でも、いいんですか? 練習中なのに…」
「君なら大丈夫だよ、みんなも断ったりしないさ」
 幸村が連れて来たことに誰も意義を唱えることが出来ない事実を、桜乃は知らない…
「そうですか? じゃあ……あの、えっと、それで…幸村さん」
「ん? 何?」
「あの…その…手を…」
「手?…あっ」
 桜乃の指摘に、ようやく幸村も自分が彼女の手を掴んだままである事実に気づき、ぱっとそれを離した。
「ごめん、ついうっかり…気を悪くした?」
「いえ、いいんです。支えてもらえなかったら、きっと転んでました」
「そう言ってもらえると助かる、じゃあ行こうか。あ、荷物かして、俺が持つよ」
 ぱたぱたと手を振って気遣ってくれる桜乃に、幸村は優しく笑うと、コートに向かって歩き出した。
「幸村さんは、皆さんと一緒には行かなかったんですか?」
「うん、俺は丁度病院からの帰り、定期検査の結果を聞きにいったんだ」
「え…」
「…そんな顔をしないで、大丈夫。もうどこにも異常な値はないって、医師から報告を受けてきたから」
「そう、ですか、良かったぁ…」
 ほっと息を吐く桜乃を見下ろしながら、幸村はふふふと笑った。
「……君は優しいね」
「え?」
「違う学校の…青学にとっては敵とも言える俺の心配もしてくれるんだ?」
「敵…ですか? 皆さんが?…何だかそう言われても…みんなテニスが好きな人達っていう感じしかしないから…」
 あえて意地悪な質問をしてみたが、桜乃はそれとも気づかずに必死に頭を捻っている。
 その様子が微笑ましく、自分のしてしまった意地悪に、幸村は苦笑して謝った。
「ごめんごめん。今のはなし。そうだね…みんなテニスが好きなのは、同じだね」
「はい!」
 二人がのんびりと会話をしているうちに、やがて目的のコートが見えてくる。
「…ん? おっ!」
 その姿に最初に気づいたのは、偶然一番近いコートにいた丸井だった。
「うお――――――いっ!!! 幸村―――――っ!! おさげちゃ――――――んっ!!!」
 その大音量に、コートにいた全ての部員がびくうっと動揺し、或る者はラケットを取り落とし、また或る者は足元のボールを踏んづけてすっころぶ。
 結構な人災被害を目の当たりにし、桜乃は自分をおさげちゃんと呼ばれた恥ずかしさもあって、あわあわと挙動不審にうろたえ始めたが、幸村は全く動じる気配もなく、苦笑を浮かべるのみだった。
「もう…しょうがないなぁ、ブン太は」
 人災が収まった頃、向こうの部員の一部がこちらを確認し、それぞれの反応を示す。
「おい柳生よ、珍しい客人のようじゃぞ」
「ええ、あの子ですね。部長も一緒とは、何かあったんでしょうか?」
 ラリーが丁度のタイミングで終了したダブルスの二人が、部長達の姿を見て面白そうに見守る向こうでは、切原に喝を入れていた真田も幸村の隣の少女を見て怪訝そうな顔をしている。
「竜崎? 彼女が来るという話は何も聞いていないが」
 部員達の活動を見守っていた柳も、一時データ収集を中断して二人に目を向ける。
 皆が何だろうと思っている間に、最初に二人に気づいた丸井が、ぴゅ―――――っ!と弾丸の速さで部長達の許へと走っていく。
「こら――――――っ!」
 相手をしていたジャッカルの叱責にも全く耳を貸す様子はない。
「おっかえりー! 幸村、身体大丈夫だったかぃ?!? おさげちゃん、おひさっ!!」
 先輩の三年生である筈なのに、この人懐こさである。
「あ、お久しぶりです、丸井さん」
「ブン太、ちゃんと先輩らしくしないとダメだよ」
「はーい、分かったよぃ……ん? 何か食べ物のニオイッ!!!」
 どういう嗅覚をしているのか…
 丸井はふんふんと鼻を鳴らしてそれが気のせいではないと確信すると、その出所である袋に、ずずいっと顔を寄せた。
「何!? 何!? 何かくれんの!?」
 既に貰うこと前提になっているのも大したものだ。
「ブン太…行儀良くしないと、あげないよ」
 やけに冷たさを増した気がする幸村の声が、丸井の背中をぞわっと走り抜ける。
「う…っ……わ、分かった」
 ぞわぞわと走る悪寒と戦いながら丸井が白旗を揚げたが、不穏な空気に全く気づいていない桜乃はにこにこと笑って答えた。
「バレンタインにチョコ作ってきました。皆さんでどうぞ」
「おおっ!! おさげちゃん! お前はいい女だっ!」
 丸井が言っても、色気も何もない台詞である。
 きっと、今日チョコをくれた女性みんなに同じ台詞を言ってるんだろう…しかしここまで来ると、いっそ清清しい。
「喧嘩しちゃダメですよ」
「練習の後で貰うといいよ、彼女はまだ用があるからね。さ、気にしないで続けて」
「ほーい! ジャッカルやるぞーっ!!」
「勝手に抜けといて偉そうに言うな――――――っ!!」
 練習のペースが元に戻り、コートが再び熱を帯びてくる。
「二人とも、留守を守ってくれて有難う」
 コート隣のベンチ前に陣取っていた柳と真田に、幸村が礼を言う。
「精市、病院の方は…」
「うん、異常は何もなかったよ。体調もすこぶるいいし…」
「竜崎は何の用だ?」
 柳が見遣ると、桜乃は手にしていた書類を入れた紙袋を持ち上げた。
「おばあちゃんから頼まれてきました。書類一式と備品の預かり物です」
「そうか、わざわざ済まない」
「明日にでも俺が届けることにして、連れて来たんだ。一人じゃ心細いと思ってね、それにみんなにもバレンタインのチョコを持ってきてくれたから」
「ほう…気を遣わせてしまったな」
 ここで喜ぶとか照れるという感情がまるでないのが、真田らしい…
「じゃ、俺も着替えてくるから。竜崎さんはどうかゆっくりしてて?」
「はい」
 幸村が部室に消えた後、桜乃はみんなの邪魔にならないように、辺りを軽く歩き回ってみる。
(青学も結構設備は充実しているけど、立海も凄いなぁ…やっぱり実績があるからかな)
 コートに入ることも出来ないし、真田たちの邪魔も出来ない…結局桜乃は海林館の廊下をうろうろ歩いて中を見学していたのだが、異変に気づいたのはその時だった。
『うわっ!!』
 どざーっと何か変な音が聞こえたのと同時に、誰かの声…悲鳴に似た声がした。
 悲鳴というには大袈裟だが、何かに驚いて発する声…そんな感じだった。
 しかも、嫌な事には、その声は幸村のそれに非常に似ていた。
(あれ…? 今のって…幸村、さん…?)
 部室に入ったということは、今はまさに着替え中の筈。
 無論、乙女に立ち入る度胸はない…が、やはり先程の声は聞き間違いではない気もする。
「あの…幸村、さん? どうかしたんですか?」
 部室入り口のドア越しに声を掛けてみるが、何の返事もない。
 聞こえないのかと思ってもう一度声を掛けたが、やはり返事が返ることはなかった。
(…何だか、嫌な予感がする…!)
 彼はつい最近まで病床に臥せっていた、いわば病人だったのだ、万一、急に体調が悪くなっていたとしたら……!!
「あの…・し、失礼、します…」
 僅かに入り口のドアを開け、そっと中を覗いた桜乃は息を呑んだ。
(幸村さんっ!?)
 視界の先には、部屋の中央に大きなテーブル。
 そこから、二本の足がにょきりと生えていた、正しくは、テーブルの向こうで誰かが倒れ、その足だけが視界に入っているのだ。
 その人物が誰であるか…答えは決まっていた。
「……っ!!!!」
 悲鳴を上げることも出来ず、呼吸を止めたまま桜乃は中に飛び込んで、倒れた幸村に駆け寄った。
「うそ…うそっ…!」
 着替えていた様子などない、しっかりとブレザーを着込んだ状態のまま、仰向けに幸村が倒れており、彼の周囲には様々な大きさの箱が散乱していた。
 何がどうなっているのか……
「幸村さん!? しっかり…!!」
 駆け寄って声を掛けるが、幸村は瞳を閉じたままぐったりと動かない。
 かろうじて息をしていることは確認し、桜乃は外へと飛び出すと、向こうで歩いていた真田に縋りついた。
「!? む、どうした?」
「さ、さな…だ、真田さんっ!…ゆ、ゆき…」
「ゆき…?」
 過呼吸になりそうなところを何とか自我で押さえ込み、桜乃はようやく息を整え大声で叫んだ。
「幸村さんが倒れてますっ!!!」
 声は辺りに響き渡り、その瞬間、そこにいた全員の時が止まった。
「なにっ!!」
 真田が顔色を変えて桜乃に問い返し、彼女は逆に落ち着きを取り戻しつつ、部室の方を指差した。
「叫び声がして、返事がなかったから…・息はしてますけど…!」
「ぬぅっ!!」
 真田が全力疾走で中に駆け込んだことを切っ掛けに、辺りはちょっとしたパニックになる。
「みんな、うろたえるな! レギュラー以外は騒がずに、練習を続けろ」
 真田の代わりに柳が的確に皆の動揺を押さえ、指示を出し、それから彼も部室に向かった。
 無論、桜乃も彼の後に続き、その彼女の周りにはレギュラー陣が並んだ。
「竜崎、どんな声だったんじゃ? 呻き声か?」
「い、いいえ…うわっ…て…何かに驚いたような…それに」
「それに?」
「何だか、幸村さんの周りが凄く散らかってたような…」
「?」
 今一つ状況が見えてこない…とにかく幸村の許に急ごう、と全員は部室の中に入っていった。



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