白い箱に住む者
彼は、白い箱に住んでいる。
彼は、青い空を見上げてる。
彼は、翠の風を夢見てる。
彼は…
「やあ、弦一郎」
「精市、気分はどうだ?」
「うん、大丈夫だよ。今日は天気がいいからね、とても気分がいいんだ…ただ、立つのは少し辛いかな」
白い扉の向こうでは、いつものように親友が笑っていた。
自分の身体なのに、己の意思で動かすこともままならない病に侵されてなお、その表情はとても穏やかで…真田の心に棘を刺す。
幸村 精市、立海大学付属中学男子テニス部の部長であり、副部長の真田 弦一郎の親友。
一見すると女性とも見紛うばかりの美貌と華奢な外見ではあるが、その実力は確かにテニス部を統括するに足るものだった。
本来なら、こんな場所にいる筈がないのだ。
こんな場所に、閉じ込められているような奴ではないのに…
真田の愁眉が僅かに深くなる。
彼がこの病室を訪ねるのは既に日課となっていたが、ここに来るのは正直苦手だった。
親友に会うことが苦痛ではない、寧ろ、それは自分が望んでいることだ。
そう、辛いのは、親友がいつも笑って己の苦痛を隠すから…
幸村が悪い訳ではないのにこんな病室に拘束されて、自分が悪い訳でもないのに五体満足な事がこんなにも後ろめたい。
「どうしたの弦一郎、入っておいでよ。そんな恐い顔しないで」
「む?…う…うむ」
促され、我に返った真田は、気を取り直して部屋の中へと足を踏み出した。
この部屋を訪れるのは苦痛、しかし、その苦痛を取り去ってくれるのも、幸村本人なのだ。
「今日は一人なのか」
「うん、お母さんは家に帰ってる、夕方にはまた来るだろうけど…『真田君が来るから大丈夫よね』って…ふふ、すっかり信用されてるね、弦一郎」
「か、からかうな、精市。まぁ…信用されているのは喜ばしいが」
ベッドの上で、自分の母親の口調を真似て笑う精市の表情が眩しくて、真田は思わず口ごもりながら視線を逸らしてしまった。
男性に抱く感想としてはやや不適切なのかもしれないが、幸村は美しいと思う。
凛とした強さと、弱者をいたわる優しさが、人としての美しさに昇華されているのかもしれない。
自分の様に、無骨な者が触れていいような存在ではないのではないか…そう思ってしまう時もある。
「そうだ、忘れないうちに渡しておこう。今日の分の配布プリントと、ノートの写しだ。蓮二のまとめたレポートも入っている」
心を読まれない様に、真田は自分の鞄から必要な書類を取り出す作業を始め、それらを相手に差し出した。
「いつも有難う。へぇ、蓮二のレポートは有り難いね。彼のレポートを読むと、実際の授業よりよくわかり易い気がするんだ」
「全くだ」
「…ねぇ、弦一郎」
「うん?」
「窓を、開けてもらえるかな。外の風を感じたい」
「…ああ」
こんな閉鎖された空間では、例え清浄に管理された空気であっても息が詰まるだろう。
相手のささやかな我侭を受け入れ、真田は外のバルコニーへと通じる窓を開けた。
ふわりと、風が遠慮がちに入ってくる。
この程度の強さなら親友の身体にも障るまい、幸い今日は天気もいいし暖かだ。
振り向くと、幸村は横たわったまま瞳を閉じ、頬に当たる風を感じて嬉しそうに微笑んでいた。
自然の風を精一杯吸い込もうとしている様子が、胸の動きからも分った。
「精市…」
「ああ、凄く気持ちいい…風が柔らかくて、あったかいよ…」
こんななんでもない事なのに、幸村はそれをこんなにも求め、飢えている。
「外の様子はここからじゃ見えないけど、きっとのどかなんだろうね…あ、鳥の鳴き声も聞こえる…ふふ、誰かに呼びかけてるのかな」
目を閉じて、自然の息吹を楽しんでいた幸村がふ、と瞳を開くと、上から自分をじっと見つめている真田と視線が合った。
「弦一郎?」
呼びかけられた相手は、少しだけ困った顔をして、そしてほんの僅かに躊躇する様な素振りを見せ、やがて意を決したように口を開いた。
「お前さえ良ければ、精市…その、ベランダへ」
「え?」
「あー…つまり、その、お前の母親では無理だろうが、俺なら、お前一人を抱えるぐらい訳はない。いや、男にそうされるのが嫌だというなら、無理は言わんが…その…」
要するに、幸村の身体を抱えて、ベランダに連れ出してやろうという申し出なのだ。
確かに真田の体力ならば造作もないことではあるが、男子が男子を抱えて外に出るというのは、なかなか度胸を要する。
それでも、真田は敢えて申し出た、少しでも親友の望みを叶えてやれたら、と。
「…ふふふっ、あははは!」
「せ、精市…?」
いきなり笑い出した相手に真田が面食らっていると、やがて向こうは笑顔のままで顔を向け、悪戯っぽく首を傾げた。
「いいの? 弦一郎。我侭、言っちゃうよ?」
「う、うむ! 任せておけ」
おせっかいと取られかねないと思っていたが、幸村がすんなりと申し出を受けてくれたことに、真田も笑顔で答えた。
真田が頷くと同時に、幸村はおもむろに彼に手を伸ばした。
「じゃあ弦一郎…抱っこして」
自分で言い出したことなのに、相手から言われたことで一気に頭に血が昇る。
下から覗きこまれるように瞳を向けられ、その華奢に見える白い腕を首に絡ませられ、止めにその台詞である。
「あ…ああ」
実は、真田は相手が自分におぶさるつもりでいると思い込んでいた、ので、こうしてお姫様抱っこをねだられるとは思っておらず、心の準備が出来ていなかった。
しかしここまで来ると最早、おぶされ、とも言えず、結局真田は幸村を両腕に抱え、持ち上げることになった。
「重いだろう? 弦一郎」
「いや、この程度は…」
今、幸村は自分を見上げているのだろう、視線を感じる。
しかし、真田はなかなかそちらに目を向けられなかった。
近い…
ほんのすぐ傍…至近距離に、幸村の顔がある。
この距離で視線を交わしたら、何と言うか…照れ臭い、というのとも違う、何か…この穏やかな世界を壊してしまいそうな気がした。
(動悸がする、まさか向こうに気づかれてはいないだろうが…)
収めようと内心必死になっている彼とは裏腹に、幸村はいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
「ふふ、君に比べたらそれ程じゃないかもしれないけど、俺も一応男子だし、筋肉もそれ程落としてないつもりだからね。でも、もし女の子だったら、絶対に『そんな事はない』って即答しないとダメだよ」
「そっ…」
あっさりとアドバイスまでする親友に、真田は言葉を詰まらせ、何かを言おうと口をぱくぱくさせたが、結局上手い言い返しは出来なかった、と言うより思いつきもしなかった。
「…っ、お前は、自分の病気の治療にだけ専念していたらいい。俺にそんな相手がいないことくらい、お前なら分かっているだろうに」
「そうだね、でもいつか役に立つかもしれないだろう?」
「む…し、知らん」
「ふふふ」
むすっと仏頂面になって困っている親友に連れられ、幸村はベランダに出た。
病室の中とは明らかに違う光の色、風の匂い、大気の流れ…そして僅かに香る汗の匂い
幸村は、少しだけ手に力を込めて、真田により強く抱きついた。
「精市? 冷えるのか?」
「ううん、大丈夫。変だね、景色が変わって興奮しちゃったかな…苦しかった? 御免よ」
「いや、大丈夫だ」
「そう? 良かった」
自分の傍に、彼がいる。
この世界と彼を、自分は今この一時だけでも独占している。
幸村は、広がる景色を眺めながらも、その意識の殆どは傍の親友にのみ向けていた。
暖かで、力強い真田の両腕。
それが今の自分をしっかりと支え、包み込むように抱いていてくれる。
口にはしないが、その安堵感は幸村にとって手放し難いものだった。
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