「こうして見ると…凄く広く見えるね、この街」
「…そうだな」
「何だか、それだけで感動してる…おかしいかな」
「そんなことはないぞ、精市。お前は…上手く言えんが、その…純粋で…感受性が、豊かなのだと…思う。あー…何と言うか…」
 しどろもどろになって何とか否定しようという真田の面相に、幸村は胸を震わせて笑った。
 大声で笑いたかったのを抑えたのは、彼なりの優しさだ。
「弦一郎、無理しなくていいから」
「むっ、無理などしておらん! 俺は、本当に」
「分かってる…君が言いたいことは、言葉でなくてもよく分かってるから。さっきのは僕の言葉が意地悪だったね」
「む……」
 それも違う、と否定しようと顔を下に向けた真田だったが、その時幸村は既に前の景色へと視線を移してしまっていた。
「…ね、弦一郎、もう少し見ていよう…勿体無いから」

 『君の腕の中でこうしていられることなんて』

 その一言は心の中に留めたままで…


 幸村は真田の否定を封じ、彼の腕の中で一時の幸せな時間を過ごしていたが、その時もやがては終わりを迎える。

「…風が少し強くなったね」
 今までの暖かな風が僅かに冷たさを増したことを感じ取り、幸村は呟いた。
「そう、だな…」
 真田も同じことを思ったのか、頷いて同意する。
「残念だけど、頃合だね…ベッドに戻らなきゃ。弦一郎もいつまでもこの格好じゃ疲れちゃうだろうし」
 名残惜しそうに呟く幸村に、真田は困った顔をした。
「俺の体力をなめてもらっては困るな。まぁ、お前が風邪をひいてはいかんから、戻るのは賛成だが」
「そう? 君の腕の中は凄く暖かいから、風邪は心配いらないよ。ただ、このままだと僕がここから離れられなくなっちゃうからね…」
「なっ…」
 途端に視線をあちこちに泳がせ始める真田に、幸村はふわりと笑って首を振った。
「ごめんごめん、じゃあベッドに戻してくれるかい?」
「あ、ああ」
 来た時と同じように軽々と相手を抱き上げて病室に戻った真田は、ベッド脇で、ゆっくりと相手をその上へと降ろしてゆく。
「大丈夫か?」
「うん、もう少し上…」
「こう、か…?」
「ん…」
 真田が相手の下半身を最初にベッドに降ろしたあと、上半身を抱きながら姿勢の細かな調節を手伝い、幸村は真田の首にしがみ付く形で、その行為を手伝った。

 ちゅ…

「!?」
 がちんっと真田の身体が硬直する。
(何だ…?)
 頬に、何か柔らかなものが触れた…
 幸村の顔がある方向の頬に、何かが当たった。
 今はもうその感触は無いけれど、幸村の吐息が頬にかかる…
 すぐそこに、彼の唇がある…
 もしや、触れたのは…?
「せっ…精市…?」
 上ずった声で呼びかける相手を尻目に、幸村は丁度いいポジションを確保したとばかりに身体を離すと、そのままベッドに横になろうとしている。
「ん? 何? 弦一郎」
「い、今…その…っ」
 確証が持てないことだが、未だに動揺が収まらない。
 いつもの泰然としている彼とは思えない程に慌てている真田に、幸村は布団を被りながらきょとんとした視線を向ける。
「どうしたのさ、一体…」
「い…いや…・」
 幸村の穏やかな態度と柔和な表情に、真田は徐々に動悸を鎮めながらも尚、疑念を捨て切れずにいた。
(俺の気のせいか…? いや、しかしはっきりと…)
 それをはっきりさせる為には、幸村に一言確認したらいいだけなのだが、どうしてもその一言が紡ぎ出せない。
 もし、自分の思い違いだったら…?
 言ってしまったら、二人の関係が一気に瓦解してしまいそうな気さえする。
 言うべきではないのか?
 しかし、聞いてみたい…そう思う自分もここに存在している。
 俺は…

「…いや、何でもない」
「そう? 無理な姿勢をさせて、どこか痛めたんじゃないかと思ったよ。大丈夫、なんだね?」
「大丈夫だ、何でもない」
 結局、真田は何も言わずに済ませることに決めた。
 そしてそれで良かった、とも思った。
 やはり、思い違いだったのだろう。
 幸村はこんなに自分の身体のことを心配してくれているのに、自分がこんな不埒なことを考えているなど…言うべきではなかったのだ、これで良かった。
 内心でほっとため息をついていたところで、病室の扉がノックされ、向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『精市?』
「あ、お母さん」
「む、もうそんな時間か…いつまでも邪魔してはお前も休めんだろう、俺はそろそろ失礼しよう」
「そう、かい? 名残惜しいね」
「明日も来る。お前は身体のことを第一に考えているんだ」
「分かったよ、弦一郎は厳しいね」
 家族の来訪に気づき、弦一郎は自分の鞄を手にして帽子を被りなおすと、相手に向き直った。
「じゃあな、精市」
「うん、弦一郎。また明日ね」
 手を振り、幸村が親友に別れを告げる。
 親友もそれに応え、扉のところで自分の母親とすれ違ったところで、彼女に脱帽しつつ一礼した。
「あら真田君、今日も来てくれてたのね。もう帰るの?」
「はい、また明日、伺います」
「いつもお見舞い有難う。あまり気を遣わないでね」
「いいえ、俺が来たいだけですから」
 二人のやり取りを、幸村が薄く微笑んで見つめている。
 もし真田が他の誰かだったら…他のクラスメートだったなら。
 自分も母親と同じように言っただろう、あまり気を遣わずに毎日来ることもないと。
 しかし、真田に対してだけは、幸村はそんなに優しくはなれなかった。
 会いたい…毎日、会いに来てほしい。
 相手の好意に縋る形で、甘える形で、幸村はその希望を叶えていた。

 真田が去り、今度は母親が、持ってきた着替えなどを所定の場所にしまいながら息子と会話していた。
「真田君は本当に律儀ね、今日もプリントを?」
「うん、あと蓮二のレポートもね」
「そう」
「授業は受けられないけど、遅れる訳にはいかないしね…でも、ちょっと疲れたかな」
 ふっと軽く息を吐いて、幸村はぱたんとベッドに寝転がると、腕を両目を隠すように翳した。
「ごめん、お母さん。ちょっと眠っていいかな」
「ええ、いいわよ」
 許しを受けると、幸村は布団を全身に引き上げながら横を向き、静かに目を閉じた。
(純粋、か…それは違うよ、弦一郎…)
 今更襲ってくる疲労感に身を包まれながら、幸村はとろとろとまどろみに落ちてゆく。
 純粋な人間が、相手の同意も得ずに、口付けなんてしない。
 被った笑顔の仮面で、相手の疑問を封じるようなこともしない。
 俺がしたことは純粋とは程遠い、何と醜い行為だろう…
 でも、例えそうだとしても…


(俺は、ここにいる事で君が来てくれることを期待し、望んでいるんだ…箱の中に閉じ込められている様に見えて、それを理由にして君を待っている…)






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