幸村の落し物
「じゃあね、桜乃」
「また学校でねー」
「うん、またね」
その日、学校からの帰り道のことだった。
桜乃はテニス部の練習後、心地よい疲労感を感じながら、同じく女子テニス部の友人達と帰宅の途にあった。
そして途中で誰が言い出したかももう覚えていないが、通学路途中にある肉屋でその店自慢のコロッケをこっそり買い食いした為に、いつもより遅くなってしまっていた。
時は既に夕暮れ…・闇が辺りを覆うのも近い。
「わ…遅くなっちゃた。急いで帰らないと」
テニスケースと、もう片方の手には膨らんだ紙袋。
食べてしまったコロッケとは別に、夕食時に家族と一緒に食べようとついつい買ってしまった数個がそこにある。
いかに乙女でも、運動後の空腹とコロッケの芳しい香りには勝てないのだ。
通学路も半分以上は過ぎ、あと十分もしたら家に辿り着く。
そしていつも通る橋の上で、赤く焼けた夕日に少しだけ見蕩れていた桜乃が、いつもと違う光景に気付いたのは、本当に偶然の産物だった。
「……あれ?」
夕日を眺めていた桜乃の視界の隅で、何かが蠢いた。
下には無論、川が流れているのだが、その川の両岸にはうっそうと人の背程もある雑草が生えており、下の地面の様子も分からない程だ。
しかし、異変はまさにその片方の岸で起きていた。
(…・誰かいるみたい)
よく見ると、雑草の頭がゆらゆらと揺れており、その下で大きな物体が動いているのが分かる。
背の高さからすると犬や猫の類ではない…明らかに人間だ。
「あんな所で何やってるんだろう…」
雑草の他には何も無い筈……汚れたゴミを除けば。
その人物は、何をしているのか定かではないが、そこから離れる気配がないのは明らかで、ずっと雑草の中で動き回っている。
何だかいかにも怪しい人…だからこそ気になる。
ついつい桜乃は歩く足を止め、欄干から少しだけ身を乗り出してその人物の観察を始めたが、向こうはずっと下ばかりを向いており、顔がよく見えない。
しかし、チャンスは意外と早く訪れた。
「……えっ?」
少女の口から自然と声が出る。
あの謎の人物が、同じ姿勢で腰が辛くなったのか、不意に腰を伸ばして背を大きく反らしたのである。
そしてその行為は、相手の顔を桜乃に晒すには十分な時間続いた。
「幸村さん…?」
暗くなってきたけど、まだ人の顔の判別はつく。
間違いない、立海の男子テニス部部長の幸村精市さんだ…
(でも、何であんな所にあの人が…?)
何か、ワケがあるに違いない…
当然そう思った桜乃は辺りを見回し、彼がいる岸へと降りる階段を見つけると、そこに小走りで向かった。
階段に着くと、学生鞄とテニスバッグ、紙袋を置いてそのままそこを降りていく。
向こうはまた、桜乃の姿に気付かない程に自分の足元にばかり集中しているらしく、結局彼女の呼びかけによって再び顔を上げた。
「幸村さん!」
「?…あ」
こちらに雑草を掻き分けて走ってくる少女の姿に、幸村は一瞬意外そうな表情を浮かべ、それはそのまま困惑へと変わった。
「竜崎さん…?」
「幸村さん、何してるんですか? こんな所で…」
うわ〜っと雑草の背の高さに驚きながらも、それらを分けて自分の前に立った桜乃は、相手の額に汗が滲んでいるのを見つけた。
(わ…・幸村さん、凄い汗かいてる…)
慣れない姿勢だからとはいえ、テニスで鍛えられている彼がこんなに汗をかくなんて…きっと、随分長い間、この作業を続けているに違いない。
「竜崎さんこそ、どうしたの? こんな場所に来て」
軽く額の汗を拭った細身の若者は、少女にいつもの柔らかな笑顔を向けた。
夕焼けをバックにしたその笑顔は、儚くて、そしてとても美しい。
その笑顔につい見蕩れてしまい、桜乃は心の揺らぎを隠そうと必死に言葉を探した。
「あの…・今、部活の帰りで、橋を渡ってたら幸村さんが見えたから…・その、何してるのかなって…」
「…ああ」
ふいっと橋を振り仰ぎ、幸村はちょっとだけ苦い笑みを浮かべた。
「しまったな、あんな所から見られちゃったんだ」
「え、と…何か、いけませんでしたか…?」
「あ、違うよ……そうだね、君に隠しても仕方ないかな。ちょっと、落し物をしちゃったんだ」
「落し物…」
桜乃の復唱に、若者はゆっくり頷いて言葉を継いだ。
「俺が注意不足だったのもいけなかったんだけど、財布をポケットにしまおうとした時に、後ろから急に自転車が来てね…避けようと思った時に、手から滑ってここ辺りに落ちてしまったんだ」
「え…大変じゃないですか!」
そんな大事な物を落としたら、それは確かに時間を掛けてでも探したくなるだろう。
桜乃は納得しながら、辺りの雑草の山を見渡す。
もしこれらがなければ作業はぐっと楽になるのだろうが、まさか刈るわけにも燃やすわけにもいかないし…
「…岸に落ちたのは間違いないんですか? 川に落ちたってことは…」
「うん…水音はしなかったし、立っていたのも橋の終わりだったからね…それは間違いないんだ」
話しながらも、幸村の顔は不安を色濃く顕し、辺りをきょろきょろと見回している。
いつもなら、話している相手の顔から視線を逸らすなんて事はしない彼が…
「…お手伝いします」
「えっ?」
何だって?とまたこちらへ視線を戻した相手に、桜乃はぐっと両腕を胸の前で曲げ、ガッツポーズで頷いた。
「私も探しますから! どんなお財布だったか教えて下さい」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど…でも、そんな迷惑は掛けられないよ。もうすぐ暗くなるし、危険だ」
下手な遠慮ではなく、本気で自分のことを心配してくれているのは分かるが、桜乃の方も引き下がれない。
「大丈夫です、家は近いし。それに一人で探すより二人の方が効率もいいです。第一、そんな事聞いたら、放っておけませんよ」
困っている人がいるのに!と力説する子に、幸村は暫く無言だったが、桜乃が何を言っても聞きそうにないことを感じたのか、苦笑しながら頷いた。
「言うべきじゃなかったのかな…でも、正直助かるよ。もし帰りたくなったら、遠慮は要らないから」
「はい、頑張って探しますから!」
もう一度ガッツポーズをとる桜乃に、幸村は今度は朗らかな笑顔を見せた。
幸村からある程度の財布の形状を聞いた桜乃は、早速雑草の中に飛び込んでそれを探し始めた。
がさごそがさごそと、少女が動く度に草が揺れてその場所を教える。
(えーと、黒い革製で、銀のポイントが四隅に付いた……)
いかにも幸村らしい財布であるが、黒い、というのはこの場合はデメリットだった。
これからいよいよ辺りは暗くなり、早くしないと保護色効果で見えなくなってしまう。
見つけられないことはないだろうが、そこに至るまで時間がかなり延長してしまうのは確実だ。
時間に追われるように桜乃は目を皿のようにして腰を屈め、草を分けては辺りを探す。
(…これって結構……)
「辛いだろう?」
「えっ?」
自分の心を見透かした様な言葉に、ぎょっと顔を上げると、向こうで笑っている幸村と視線が合った。
「普段しない姿勢をするっていうのは、使っていない筋肉を使っているという事だからね…君みたいな華奢な子には辛いんじゃないかな」
「え…と…」
確かに、向こうの言う通りだった。
始めた時もある程度の覚悟はしていたのだが、実際に身体を動かしてみると、十分もしたところで汗が浮かんできた。
腰は痛み、草を掻き分ける腕も確実に疲労物質が溜まってくる。
少し前まで部活動を行っていた所為もあるのだろうが、少し腕を振って再開しても、またすぐに腕が休息を求めて悲鳴を上げた。
確かに、辛い。
しかし流石にそこで『はい』と言うのは気が引けて、少女はなるべく自然に笑ってみせた。
「辛いというか…トレーニングだと思えばそうでもないです」
「…へぇ」
意外な返事に、幸村が興味深そうに首を傾げる。
「私もほら…テニス部ですから。身体を鍛えるのも必要だし……っと、これじゃないなぁ…」
また視線を下に向けながら、桜乃はこれを機会に相手に話しかけた。
無論、その間にも手を休めることはしない。
「幸村さんの趣味は何ですか?」
「どうしたの? 急に…」
いきなりの問いかけだったが、彼は機嫌を損ねるでもなく優しい声で返す。
「ずっと黙っているより、お話した方が気が紛れると思って…迷惑でしたか?」
「いや、いいよ…そうだね、ガーデニングかな」
「ふぅん…男の人には珍しい趣味ですね」
「おかしいかい?」
「いいえ、幸村さんらしいと思いますよ。優しいイメージだし・・・植物に話しかけたら、やっぱり育つの早いんですか?」
さらりと、言っている本人も気づかない中で『優しい』人だと評され、幸村は思わず笑い出しそうになる。
「うーん…比べたことがないからね、どうだろう…?」
「その言い方は、やっぱり話しかけてるんですね?」
「…どうかな? それより、今度は君の趣味を教えてよ」
「え、私ですか? 私は……」
それから、二人は取り留めのない話をずっと続けた。
学校のことや部活のこと、友人や、家族…色々なことを。
そしてそれらに費やした時間の分だけ、太陽は確実に沈み、辺りを闇に包んでいった。
「………」
気がついたら、また二人は無言になっていた。
ずっとずっと探しているのに、何故まだ見つからないんだろう…
見つからないかもしれない…そう思うのが恐くて、桜乃は手を動かし続ける。
しかし、視界はもう殆ど真っ暗闇で、何が落ちているのかも分からない。
(どうして……)
ぽんっ
不意に肩に手を置かれてそちらを振り仰ぐと、幸村がかろうじて笑っているのが分かった。
「もういいよ、竜崎さん…君はもう帰った方がいい」
「でも…!」
「もうこんなに真っ暗だ、この状態で財布を捜すのはもっと難しい…君の帰りも遅くなったら、家族の人も心配するよ」
「…でも、幸村さんもその財布がなかったら…あ、じゃあ、一応警察に届けて、ウチに来ませんか? 帰りのお金ぐらいだったら、きっと…」
自分の家族が出してくれる、と言う桜乃に、若者は少しだけ悲しげな表情を浮かべた。
「……本当はね、別に、財布とかお金とかはどうでも良かったんだ」
「え?」
「…俺にとっては、それよりずっと大切なものが中にあったんだ」
そこまで言うと、気を取り直して相手はにこりと笑った。
「だから、俺の我侭に、君をこれ以上巻き込ませるわけにはいかないんだ…御免よ、付き合わせて」
「……」
桜乃は俯き、何も言わない。
「手伝ってくれて有難う。そんなに心配しないでも、俺ももう少しだけ捜してダメなら明日にするから」
初対面なら信じただろう。
でもこの人は、自分が大切に思っているものをそんなにあっさりと諦めるような人じゃない…
「気をつけて帰るんだよ」
「……はい」
こくん、と頷いて桜乃は元来た階段へと向かい、ゆっくりと上がっていく。
桜乃の姿が道路の向こうに消えるのを見て、幸村は少し安堵の息を吐いた。
これでいい、彼女がここまでしてくれただけでも自分には十二分に嬉しかった…
そして幸村は再び捜索を開始したが、その目は、ある肝心な物を見落としていた。
少女が階段を上がりきった所に置いてあった鞄、テニスケース、紙袋…
それらは一切、持ち帰られることなく、放置されたままだったのだ…
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