幸村が、桜乃を送り出して十分が経過した頃だろうか…
「幸村さんっ!!」
「!?」
 もういるはずのない人の声を聞き、呼ばれた少年はえっ!?と驚いて振り返る。
 階段を駆け下りてくる、一つの光…いや、あれは懐中電灯の明かりだ。
「…どうして」
 走ってくる…彼女だ。
「幸村さん」
「どうしてまた来たんだ」
 帰るように言ったのに、と当惑する相手に、桜乃は息を切らせながら説明した。
「ちゃんと、家に帰りましたよ…でも…」
「でも?」
「…鞄とかバッグとか、すっかり忘れちゃって置いて帰っちゃいました」
 あれですあれ…と指差す少女に、幸村は呆然とする。
 嘘なのは明らかだった。
 自分のそれだけの荷物を、そうそう忘れる筈もない。
 声もない彼に、桜乃は今度は自分が持っていたのとは別の懐中電灯を渡す。
「はい、これ使って下さい」
「え…」
「ついでに家から持ってきました。これがあった方が捜しやすいし、あ、ここに来ることはみんなに言って許可もらってきましたから、大丈夫ですよ」
「……」
 懐中電灯を受け取ってもしばらく動けなかった幸村は、やがてはぁーっと深いため息をついた。
「……嘘つきだな、君は…」
「嘘なんかついてませんよ? 一回家に帰ったのは本当だし…それに幸村さん、『戻ってくるな』とは言いませんでした」
「………」
 確かに、言った覚えはない。
 鞄やバッグを忘れたのは明らかに嘘なのだろうが、最早それを立証する手段はない。
 桜乃の言う通りだった。
「……何だか悔しいな」
 そういう幸村の言葉に棘はない、寧ろ、してやられたことを喜んでいる様にも聞こえる。
「え?」
「いや、何でもないよ」
 断って、彼は懐中電灯のスイッチを入れた。
「じゃあ…始めようか」
 もう、戻れとは言わない相手に、桜乃も笑ってこくんと頷いた。
「はい、今度こそ見つけましょう!」
 そして二人はまた同じように探索を再開した。
 ここまできたら、見つかるまで帰らない…
 誰が何と言っても見つけてみせるんだから…!
「よいしょ…っと」
 辺りでは虫の声が聞こえてくる…近づくと鳴き止んで、遠ざかるとまた鳴き始める…
 ずっと虫の声を聞き、光を頼りに捜し続ける…
「えーと……こっちはもう捜したから…あ、でも念の為に見ておこうかな…」
 そして桜乃が不意に頬の汗を拭った時、上げられた懐中電灯の光が先にある何かを照らし出した。

 ちかっ…

「っ…え?」
 今の何?
 もう一度……確かこっちの方から…
 彼女が手を振って先の反応を探し…

ちかっ…

 何か、小さな金属が反射しているのを見つけ、桜乃はがばっとそこへ身体を移動させた。
(どこ、どこ、どこ、どこ……!?)
 何処にあるの…!?と必死に手を動かしてそれを探し、やがて柔らかな感触の物体に触れる。
「……っ!!」
 ゆっくり拾い上げてみると……財布だった。
 黒が基調の革製の財布で…四隅に銀に輝く小さなポイント…まだ新しくて、落としたばかり…
「あった!! 幸村さん!! これじゃないですか!?」
「え…?」
 立ち上がり、歓声を上げる桜乃へ幸村が急いで走り寄る。
「これ! これじゃないですか?」
 差し出された財布を見て、彼は目を大きく見開き…
「ああ…それだよ!」
 心からの笑顔を浮かべた。
 頷いた持ち主の前で、桜乃が思い切り飛び上がって喜ぶ。
「やったぁ!! 良かったですね、幸村さん! 良かったぁ!!」
 手にしていた財布を相手に渡そうとした時、桜乃は両腕をぐっと掴まれると、そのまま相手の胸の中に引き込まれた。
「…っ!?」
「…有難う、竜崎さん…・本当に、君のお陰だよ」
 ぎゅうときつく抱き締められ、桜乃は喜びから驚愕へと表情を変える。
(うわっ…幸村さん、力強い…は、離れられない…)
 少し力を入れても、まるで身動きが取れない…男の人の力って、こんなに強い…
 知らなかったし、知るわけもなかった。
 こんなことをされたのも初めてだったのだから……
(…あったかいなぁ)
 大きな胸の中に包まれ、桜乃は恥ずかしさでどきどきしながらも、その心地よさにぼうっとしてしまう。
 ダメだ。
 こんなことされたら、自分、ずっとこうされていたくなる…
「ゆ…幸村さん…ちょっと苦しいです…」
「あっ…ご、ごめん」
 慌てた様子で桜乃を自由にした幸村は、今になって自分がしたことに気付いたのか、済まなそうに謝った。
「御免よ、あんまり嬉しかったからつい…」
「い、いいんですよ…でも、本当に良かったですね」
「うん…」

 ぐぅ〜〜〜っ

「……」
「……」
 感動の瞬間を遮る不躾な音…
 その数秒後、桜乃の悲鳴と幸村の笑い声が響いた。
「きゃ――――――っ!!! 今のナシ、今のナシですっ!!」
「あはははっ、安心したらお腹が空くよね」
 家に戻って、食事を食べることもなくここに来てくれたのだ、当然だろう。
 真っ赤になって手をばたばたさせる少女に、若者はうんうんと頷く。
「やだもう、どうして〜?」
 タイミングが悪すぎる…と少女は嘆いたが、もう聞かれてしまったものは仕方がない。
「…取り敢えず、上に上がろうよ。いつまでもここにいても仕方ないし」
「は、はい…そうですね」
 そして二人は、ゆっくりと階段を上がって、桜乃が置いていた鞄やバッグの所に移動した。
「…あ、そうだ幸村さん」
「ん?」
「いいものありますよ、どうですか?」
「…え?」
 そう言って桜乃が出してきたのは、紙袋に入っていたコロッケだった。
「コロッケ。もう冷えてますけど、美味しいですよ?」
 意外なものを出されて、幸村はそれを受け取りながら苦笑い。
 本当に、この子は自分をどれだけ驚かせるつもりなんだろう…?
「…いいね、じゃあ、ここで食べようか」
「はい」
 二人はそこに並んで座り、コロッケをぱくつき始める。
「うん…冷えてるけど十分美味しいよ」
「ですよね…? よく行くんです、部活の帰りに」
「青学では、買い食いは禁止じゃないの?」
「…黙秘します」
「ふふふ…」
 ひとしきり笑うと、幸村は少し考え込んで、見つけてもらったばかりの財布を取り出した。
「…幸村さん?」
「…俺の宝物だけど、君になら見せてあげるよ」
 そう言って、彼が財布から抜き出したのは、一枚の写真だった。
「写真…ですか」
「うん、ポラロイドのね…だから、ネガはない。これが世界でたった一枚の写真なんだ」
 幸村の持つ懐中電灯がその写真を照らす。
 そこに写っていたのは、幸村と、彼の周りに集まる立海のレギュラーメンバー。
 場所は…何処かの建物の屋上…きっと病院だ。
 何故なら、そこに座って儚い笑みを浮かべる幸村はパジャマ姿だったから。
 そんな彼をまるで守ろうとしているかのように、他のメンバーは力強い意志を秘めた瞳をこちらに向けている。
 立海のメンバーの絆…それを見せ付けられる一枚だった。
「…手術の前日に、屋上で看護婦さんに撮ってもらったんだ。俺達がついてるってみんなが言ってくれて…手術が成功して、今もこれは俺のお守り…宝物だよ」
「そう…ですね……とても素敵な」
「……うん」
 再び大事そうにそれを財布にしまい込むと、幸村はちょっとためらって桜乃に向き直った。
「ねぇ、竜崎さん…一つお願いがあるんだけど…」
 それが何であるのか聞く前に、彼女はにこ…と笑って頷いた。
「はい、分かってます。他の立海のメンバー全員の誰にも、今日のことを言わない…ですね?」
「!……ふふ、お見通しか」
「いいですよ…一つ私のお願いを聞いてくれたら、ですけど」
「お願い…? 何…?」
 尋ねられ、桜乃はまた少し赤くなると、こそっと小さな声で言った。
「…さっきのお腹の虫のコト、誰にも言わないで下さいね」
「……っ! 〜〜〜〜っ!」
 言われたことでまた思い出し、幸村は顔を伏せて声を殺しながらも肩を震わせた。
「あ、また笑ってますね〜!」
「ご、ごめん、ごめん! あはは…! うん、約束するよ、約束…ふふふ」
「ひどいです〜!」


 それから二人は、桜乃の家の前に来て、そして別れた。
「じゃあね、今日は本当に有難う」
「はい、こちらこそ送って頂いて有難うございました…お休みなさい、幸村さん」
「あ、そうだ、竜崎さん」
 呼び止められて桜乃が振り向くと、幸村は自分の右手の小指を差し出した。
「さっきの約束…守ってね」
「…はい」
 言わんとするところを察し、桜乃も小指を出して、二人のそれらがそっと絡まる。

 今日の出来事は誰にも言わない……

 それはとても小さくて、ささやかな約束の証…
 そして二人だけの、秘密の証…





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